「というわけで! 俺とミヤギちゃんは正式にお付き合いすることに決めました! 以上!」  退院早々の側近集合令がそれかよ。  三者は三者それぞれのため息をついた。 「……なんだよ、その反応は」  複雑に絡み合っていて、非常に分かりづらい。 「……ひとつ聞いてええが?」 「はい、トットリくん」 「それは、いわゆる真剣な交際ってことでええんだらぁか」  真剣な。何をもって真剣とするか。遊びや面白半分とか、そうではない、という意味での真剣であるなら、 「そうだな。真剣な交際ってことだな」 「ほんじゃ、わしからも質問があるわ」 「……はい、コージくん」 「そいつぁ、あれかの。結婚を前提とした、とか、そういう意味かの」  ……けっこんをぜんていとした……無理ではない。現在、法的に無理な訳ではない。無理ではないか、 「……今後、考える」 「ほな、わてから最後の質問ですわ」 「…………なんだよ」 「つまり、お世継ぎに関しては絶望的、と捉えてよろしゅうおすのん?」  うぐ、と喉が詰まる。 「ま、そこらへんはあれやな。ご家族内やミヤギはんとよく話し合っておくれやす。とりあえず、わてらの不利になるような方向はごめんや。そんだけどす」 「それはそれで、われについていくんも、面白いがの」 「ぼかぁ、ミヤギくんが幸せならそれでええが」  それだけであっさりと三人は出て行った。もう少し大イベントを想像していた。付き合いが悪い奴らだ。  あいつを恋人とするのだ。この世にあいつ以上に愛するものはなく。これからあいつ以上に愛するものを作る気もない。 「貴様、ふざけるなよ!」  そうそう、こういう反応を待っていた。テーブルの上の優雅なティーセットなど膝で撒き散らし食いかかってくるような、ドラマティックな展開を待っていたのだ。さすが俺の半身、俺のツボをよく心得ている。 「自分が何を言っているか分かっているか? 総帥の立場も忘れて、あのバカ一人にうつつを抜かすつもりか?」 「……そうは言ってねえだろうがよ」 「言ってるもおなじだ! 貴様は一族の長たることを何だと思ってる!」 「……キンちゃん」 「じゃあ、なにか! 俺には恋愛する自由もないってか!」 「そうは言っていないだろう! だが、それは全部責任を果たしたあとのことで……」 「キンちゃん!」  どがしゃん。ごきり。  ごきって言ったぞ、ごきって。ヒートアップしたキンタローの延髄に重量5kgは下らぬであろう巨大花瓶を落とし、無理やり怒れる男を静めたグンマが深くため息をつき、深く息を吸う。 「シンちゃん」 「……はい」  灰皿で殴られたらかなわん。 「僕はね。別に反対じゃないの。もともとシンちゃんには一族の血は流れてない訳だから。シンちゃんの子供には、この『眼』は受け継がれないだろうし、そこから見たら、シンちゃんに子供を残せと強要する理由はないの」 「……そうだな」 「だけどね、だからこそお父様がシンちゃんを跡継ぎにした理由を、ちょっとは考えてほしいってのがひとつ」  痛いとこ突いてきやがった。 「次。正確な意味での直系は、僕とコタローちゃんだよね。でも、僕は子供を残す気はない。コタローちゃんにもそう言うつもり。お父様も二度と女性を娶るつもりはないと思う」 「……なんでだよ」 「『眼』があるから」 「…………」 「お父様の直系二人が二人とも、両目に持って生まれてきちゃったんだ。もうこれは血の限界だと思う。この先、生まれる子の苦労を考えたら、出来る限り子供を残すべきじゃないと思うんだ。下手したら、もっと歪んだ子が生まれちゃうかもしれない」 「……なるほど」 「そうすると、残ったのはキンちゃんになるよね。キンちゃんの子供が跡継ぎになる。そうするとね、血が傍流に移ることになるんだ。しかも、二十五年間も行方不明だったぽっと出の人に」  結構ひどいこと言うな、こいつ。 「対外的には、一族直系の血が絶えたと見られても仕方がなくなる。これが二つめ」 「…………」 「僕はシンちゃんがすることに反対はしない。ミヤギがどれだけシンちゃんのこと好きだったかなんてのも知ってる。友人としては喜ばしい。でも、ミヤギがシンちゃんの立場考えて余計なわがまま言わなかったのも知ってるし、シンちゃんもそれが分かってるんだと思ってた」  だからお前、言うことがひどいよ。 「ガンマ団構成員50万。末端まで含めたら800万。その人たちの命が全部シンちゃんの肩にかかってるんだってこと。それを自分で選んだんだってこと。分かった上で言ってるんだよね?」 「…………」  グンマがため息をつく。 「あれだから。ミヤギ、あれでもモテるからさ。トットリもいるしさ。言うなら早い方がいいと思う。……ミヤギには、身を引くってことは出来ないだろうから」  そう言うと失神したキンタローの襟首をズルズル引きずってグンマは出て行った。  駆け落ちしてやろうかと思った。  ミヤギに、身を引くことは出来ない。  そう仕込んだから。  どこまでも自分を追いかけて、自分だけを求めるように仕向けたから。  自分の手を拒否出来ぬように。自分の腕から逃げ出さないように。  自分がいなければ生きていけぬように。  自分が、ミヤギに、そう生きろと命じたのだ。 「結局、ぬしゃあ、それに逆にひっかかったちゅーことかい」 「うるせー」  まあ、そういうことだ。思いっきりほだされたのだ。  いつもの飲み屋の一番奥の座敷。指定席だ。セキュリティも問題ない。今日は珍しくもコージと二人だけだ。一緒に飲みに出ることは多いが二人きりと言うのが珍しい。他を誘う気になれなかった。  グラスの中の日本酒を一気にあおる。空になったそれに、コージが酒を継ぎ足す。既に一升瓶は三本空になっていた。 「……だって可愛いじゃんよ」 「まあ、かわええの」 「俺のことがさ、ずっと好きだったんだってさ。十年だぞ。十年好きだって言ってんだぞ」 「知っちょる知っちょる」 「ふつーさあ、十年は持たねえよなあ。途中で諦めたり、飽きたりするよなあ。ミヤギちゃんはさ、諦められなかったんだってさ」  ああ、酔っている。悪い酔い方だ。自分は酔うと正体をなくしやすい。自制した方がいい。それでも手の中のグラスが液体に満たされると、それを飲み干さずにはいられなかった。そいつが自分に挑んできているように見えるのだ。『お前はどこまで耐えられるのか』と。 「……俺、一度、ミヤギを裏切ったんだよ」 「ミヤギっちゅーか、ガンマ団をじゃな」 「同じだよ。俺は裏切ったんだよ。逃げたんだよ」  同じだ。同じことだ。 「それでもいいんだってさ」  裏切り、見捨て、逃げたというのに。 「また逃げたらさ、また追っかけるからそれでいいんだってさ」 「……ほぉか」 「……なんでミヤギは、俺なんか好きなのかな?」 「なんでかのぉ」 「あれかな、ちょっとおかしいのかな。頭悪いもんな、あいつ。時々変だしよ」 「そうじゃの。多分な、理由なんかないんじゃろ。われがわれなだけで、ミヤギにゃあ十分なんじゃろ」 「……それっておかしいよなぁ?」 「おかしいな。ま、そういうもんじゃろ、恋っちゅーのは。大抵の奴はおかしくなるわ」 「……こい……」 「恋」 「俺、恋されちゃってんの?」 「知っとおか? 恋と愛っちゅーのは違うんじゃぞ」  何を乙女みたいなこと言い出したんだ、このおっさんは。 「恋っちゅーのはな、恋い慕うことじゃ。故郷とかな、死んだ親とかな、手の届かんものを想って慕うことじゃ。故郷恋し、と、故郷愛しじゃ意味が違うじゃろ?」 「……あー」  なんとなく分かる。 「愛っちゅーのはな、腕の中のもんを慈しむことじゃ。家族とかな、妻とかな、自分の身内を守って慈しむことじゃ。わが子が愛しい、と、わが子が恋しいじゃ違うからの」 「はー……」 「じゃけんの、恋っちゅーのは秘めるもんじゃ。忍んでじっと想ってこそが華じゃ。手の届かんもんが欲しい欲しいとわめくほど、みっともないことはないからの。じーっと、心に秘めてこそ誠の恋じゃ」 「……お前は意外とロマンチックなこと言うのな」 「悪いか」 「別にぃ」  まあ飲め、と、さらなる酒が注がれる。ゆらゆらと揺れる水面に反射して、満足そうに笑うコージの顔が見えた。その揺れる顔に向かって語りかける。 「……ひとつ聞いていい?」 「なんじゃ」 「お前、もしかして、ミヤギちゃんがちょっと好きだったりした?」  コージは答えずにくつくつと嬉しそうに笑った。再び酒を一気にあおる。喉がアルコールを嚥下するたびに、意識が遠のいていく。その合間にコージの声を聞いたような気がした。  少しな。  あれは幻聴だったと思う。  一番の問題は、一族の血が絶えかけているというのを外部に知られることだ。介入の余地、付け入る隙、強固な絆のわずかなほころび。  それに付け込まれることだ。それだけは絶対に避けなければならない。 「グンマが俺に見合い写真をもってきたぞ」  ……本気だ、あいつ。  息抜きにソファで茶を飲んでいたところに、新たな案件を抱えてキンタローがやってきた。書類を机の上に投げると自分から向かいに腰を下ろし、これまた自分で茶を乱暴に注ぎ出した。 「あと、ハーレムに決まった女性がいるのかも調査しだした」 「……なんであいつ、あんなに一生懸命なの……」 「コタローのためだろう」  弟の名前を出されて、一瞬身が堅くなった。 「いつ目が覚めるか分からない以上、それまで団を安泰に保つ以外ないからな。ただでさえ代替わり直後にお前が大ケガして、正直状況は混乱しているんだ。不安要因は片っ端から潰すだろうさ」 「……親父には?」 「そこまで人非人じゃない。ま、近いうちにばれるだろうが」  だいぶ冷静さを取り戻したキンタローは、他人事のような調子で喋っている。 「まあ、やることは大体グンマと同じだと思うがな」 「だろうな」  ミヤギをどうにかするようなことはしないだろう。シンタローを逆撫でするだけだ。昔からそうだ。シンタロー自身を縛り付けるのではなく、その外側を埋めていく。そして、いつの間にか選択肢が無くなっている。無理やり力ずくで剥ぎ取るような真似は……弟の時はそうだと思ったものだが。あれはまた別の話だったのだ。 「キンちゃんはもういいわけ?」 「諦めた。好きにしろ」  自棄になったように吐き捨てる。 「飼い猫にほだされて親を殺す。それも一つの価値観だ。俺が文句をつける筋合いじゃない」 「……つけてるじゃねえかよ」 「ほう、じゃあ、花でも贈ってやろうか?」  うわ、すげえ嫌み。 「大体、あれのどこがいいんだ……」 「聞き捨てならねえ言い方だな、そりゃ」 「言わせてもらうぞ。一族の足並み乱れさせてまで、何故あれにこだわる」 「可愛かったじゃん、昔から。覚えてねえの?」 「あんなの、代替品じゃないか」  ばしゃん。  反射的な行動だった。  ほぼ反射的に自分の右手は動き、キンタローの顔にティーカップの中身をぶちまけていた。 「……あのな、このシャツは今日下ろしたばかりだぞ」 「そんなんじゃねえよ」 「スーツもクリーニングから帰ってきたばっかりだ」 「そんなんじゃねえよ。訂正しろ」 「しない。あれは代替品だ。はけ口だ」  今度はティーカップを投げ付けた。ほぼ同時に自分の顔にもティーカップが飛んでくる。避けたが、紅茶の飛沫が肩口を汚していった。 「違う! そんなんじゃねえ!」 「嘘をつけ。俺は『見てた』ぞ」  目の奥がギリッと痛んだ。 「お前はな、自分の欲望であいつを押し倒して、強姦したんだ」 「違っ……!」 「ああ、そうだな。強姦ではなかったな。それは悪かった、そこは訂正しよう。だが、一方的に欲情したのは確かだろう?」  違う。違う。 「かわいそうにな、何も知らなかったのに。純粋にお前に憧れていただけなのを。お前は一方的に欲望を押し付けて、組み敷いて、あいつを玩具に作り替えたんだ。お前があいつを狂わせたんだ」  違う、違う、違う違う違う違う! 「お前があいつの世界を壊したんだ」  違う!  脳髄が燃えるようだった。  脊髄に直接連なる動物脳が前頭葉からの攻撃を受け、痛みに悲鳴を上げているかのようだった。  こいつは敵だ。  眼前のこの人間は敵だ。  自分の過去を改編し、自分の記憶を作り替えんとする、こいつは敵だ。  自己同一性の破壊を主目的として脳の歪みから発生した敵性人格だ。  攻撃しろ。  攻撃しろ破壊しろ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せでなければ自分が存在することは許されない。  己であって己で無きもの。自己を否定するために存在する自己。ドッペルゲンガー、ペルソナ、影。  今眼前にいるのは知性体最大の敵。  自分自身である。  『俺』が笑った。  唇を歪め、にやりと勝ち誇ったように笑った。 「まあ、いい。どうせその内に飽きる」  目の奥で発した熱が神経を駆け巡る。  こいつを殺す。 ごいん。 「っぬお……!」  何かがシンタローのこめかみを直撃した。かなりの衝撃だった。鞭打ちになりかねない首の痛みを感じながら、衝撃の来た方向を振り返る。扉の方だ。 「失礼しますえ〜。お届けもんどす〜」  いやなやつが来た。足元には、扉の両側に飾ってあった壷が転がされている。一つはすでにない。シンタローの後方に転がっている。どうやら力任せに蹴り飛ばしたらしい。  横目で見ると、キンタローも自分同様に眉をしかめて侵入者を見ていた。 「なに兄弟喧嘩してはりますのん。休憩はもう終わりどすえ、仕事しなはれ仕事」  ガラガラと書類を満載したワゴンを押しつつ、アラシヤマが二人の脇を通り抜けていく。緊迫した空気など知ったことじゃないとでも言うように、事務的にばさばさと書類を机の上に積み上げている。 「……それじゃあ、また明日来る」  何か用でもあるらしい。毒気を抜かれたキンタローが、濡れた上着を脱ぎつつ部屋を出ていった。  同様、気が抜けたシンタローも、紅茶の染みがついた上着を脱ぎ机に向かう。通り過ぎざまに上着をアラシヤマに放った。クリーニングにでも出しておけ。 「ナイスアシストでっしゃろ?」 「……あー、そーだな」  キレる寸前、というよりキレていた。あのままだったら、被害はこの部屋の中ではすまなかっただろう。 「キンタローはんもいけずなお人やなー。ああもはっきり言わんでええのんに」  否定はしない訳か、お前も。睨みつけようと思ったが、見るのも嫌だ。黙って書類に目を通す。 「……お前もその内飽きるとか思ってんだろ」 「シンタローはんは飽きるんなら、もっと早く飽きてますやろ。むしろ逆ちゃいますのん?」  逆? 「ミヤギはんに飽きられんようにお気をつけやす」  反射的に顔を上げてしまった。嘲笑するようなすました笑顔が目に入った。 「てめえ……!」 「割りとええとこついてますやろ。あの阿呆、今までいけずにされるんに慣れとるさかい、甘やかしたら物足りのおて飽きてまうかもしれまへんえ〜?」  喉の奥で笑う声が頭に来る。こいつだけはいつか締める。 「火遊び相手には困らんお人やしな〜。今までシンタローはんが一番の火遊び相手だったんにな〜」  ああ、本当に。どいつもこいつも。  なんで、そこまで俺を知っているのだ。 「いいにしても悪いにしてもな、あの阿呆はあんさんのオモチャや。オモチャがオモチャのうちはええけどな、オモチャ一つのために人生かけるゆうたら、そら、ご家族は焦りますわ。何、アホなことゆうてんのってな。あんさんが飽きんとしても……そのオモチャがいつ壊れるかしれたもんやない」  わずかに声色が変わった。軽薄な紫から、重い灰色へ。 「わても伊達に付き合い長いわけやない。あんさんが知らんあいつも知っとります。あいつはな、壊れますえ。簡単に壊れますえ。知らんわけやないやろ」  机に手をつき、ぐっと顔を近づけて来る。 「もう半分、壊れとるも同じや。そんなんにな……入れ込んで痛い目見るんは自分やで?」  それでもいいのかと。 「オモチャが壊れて遊べへんようなって。それで寂しい言われたかて、わてらもさすがに愛想つきますさかい。そこらへん、お気をつけやす」  これ、明日までに頼んます。そう書類の山を指して、アラシヤマは部屋を出て行った。  敵だ。  どいつもこいつも、ここは敵ばっかりだ。  深夜二時に第二書庫で。  メールの内容はそれだけだ。グンマが本気を出していれば、サーバーチェック程度は当然やっている。詳細は書けない。  第二書庫は今は忘れられた場所だ。古い書類が押し込められたその奥に隠し通路があることは、今は自分と父しか知らない。  駆け落ちしてやる。  もう決めた。そう決めた。  二人で逃げてやる。どこか遠くで、幸せに暮らしてやる。  どいつもこいつも、自分たちの幸せを願わないどころか、端から幸せになどなれないと決めつけている。  それを覆してやるのだ。俺達を否定する奴らを、俺達が否定してやるのだ。  特に用意するべきものはない。資金は既に隠し口座に移した。身一つで地球の裏側にでも逃げられる。詳しいことはその場で説明すればいい。必ずミヤギは自分についてくる。絶対だ。  必要になった書類を探すからと、日付が変わる辺りから書庫に籠もった。怪しまれて先回りをされればアウトだ。十年前の日付が書かれた段ボールに尻を置き、ラックの合間の暗い闇を睨む。  本部内は深夜でも煌々と明かりが灯るが、廊下一本、扉一枚隔てれば、誰も踏み込まない闇がこうして横たわっている。  この闇が己の敵だ。仲間のふり、理解者のふり、味方のふりをして、背中に暗い触手を伸ばしてくる。  じわじわとその暗闇に飲み込もうと、俺を自分たちの眷属にしようと、じわりじわりと絡み付いてくる。  ごめんだ。そのようなものに捕らわれ、時間をかけて魂を腐らせる。そのようなことはごめんだ。  自分は、そんなもののために戻った訳じゃない。  その暗闇を振り払うため、輝かしい道を作るために、ここに戻ってきた。  高潔にて清廉。正大にして決然。自らの信じる正義を大義をもって為す。  あいつだけは、それを信じてくれる。  自分が正義だと。気高く、潔白で、迷わず過たず進むことができると。  あいつだけは信じてくれる。あいつだけが信じてくれる。  自分たちが歩む道が、光り輝く王道だと、あいつだけは信じてくれる。  そのはずだ。  ぽとり。  タバコ一本分の灰が落ちた。闇を睨んだまま、随分な時間が経ってしまったらしい。腕時計を確認する。まだ一時前。ミヤギが来るまでには一時間以上ある。  退屈だ。胸ポケットからマグライトペンを取り出す。首を捻ると強く細い光線が闇を貫いた。適当にあちらこちら照らしてみる。  過去の粉飾や汚職が発覚でもしない限り、誰も踏み入れないであろう死蔵の書庫。ナンバリングからして、自分が学生のころの書類ケースがごろごろしている。  もっと奥を照らしてみる。 「……テレビ?」  暗闇の中に浮かび上がったのは、ブラウン管の旧型テレビだ。大型だ、30インチはある。興味を覚えて、近くまで寄ってみる。側には、ビデオデッキやら古くてカビが生えそうなビデオテープやらが山積みになっていた。  思い出した。  執務室の模様替えをした時に出てきたやつだ。親父のビデオライブラリのひとつだろうと思い、適当に詰めておけと秘書官に任せたのだ。  ライトを動かす。本当に適当に押し込んだのか、配線は繋がったまま。近くのコンセントにつなげば、そのまま上映会が始められる。  あと一時間。  駆け落ち前に思い出に浸るのも悪くない。そう思ったのだ。  蛍光灯で白く照らされた廊下をミヤギが歩く。本部の建物内に時間の感覚はない。せいぜい、人通りの多さが多少変わるだけだ。  シンタローのメールを読んだ。何か話があるのだろう。  ……やっぱり、あれはなかったことに、とか、そういう話だろうか。  キンタローと何か揉めているらしい。恐らく自分絡みだ。シンタローは心配するなと何も言わないが、ぴりぴりした空気は伝わってくる。  仲を認めてもらおう、という話ではないのだ。別にシンタローが誰に寵を持とうが自由だし、それに口出しをする奴はいないだろう。しかし、その寵を他に振る気がないとすれば別だ。  政略結婚の話が何件かあるのだと言う。と言う、ではない。一件はミヤギが持ち込んだものだ。閨閥関係を結びたい同盟国から、将軍の娘を差し出すという話がきている。  現時点ではどれも検討段階にあるだけだ。しかし、近いうちに状況がそれを許さなくなってくるだろう。  シンタローはそれらを全部拒否するつもりだ。ミヤギのために。  不可能だ、と思う。  男の愛人一人のために総帥直系の血を絶やすことも許されないし、重要な閨閥を無視することも許されない。  シンタローは、心配するな、と言う。  ちくりと胸が痛む。でも、シンタローの言うことを信じようと思う。  それ以外に信じられるものなど、今は何もないのだ。  角をまがって、明かりの消えた廊下に入る。第二書庫。忘れられた死蔵の書庫。IDをセンサーに通すと、扉は自ら開いた。暗い廊下よりなおも暗い闇の部屋に踏み入れる。 「……シンタロー?」  明かりも点けず何をしているのか。奥をのぞき込む。青白い光が見えた。 「シンタロー、来たべ」  かすかに音が聞こえる。なんだ。ラックの間を覗き込む。 「シンタロー?」  テレビだった。狭いラックの合間に押し込まれた大きなテレビが点いていた。シンタローはその正面に座っている。こちらからは背中しか見えず、まるで身体の輪郭が青白い光を放っているようだった。胡座をかいたシンタローの周囲にはいくつかの段ボールが転がり、何枚もの書類がばらまかれていた。  背後のミヤギにも気づかぬ様子で、シンタローはじっとテレビを見ている。  何を見ているのだろう。そっと近づいてみる。  最初の一本はまだよかった。比較して、の話だ。  単なるポルノビデオだった。被写体の年齢的にはキディポルノと表現した方が妥当だったが、ともかくまだ単なるポルノビデオと言えるものだった。  細い体躯の美少年。可憐な顔立ちに怯えた表情。こう言ってはなんだが、非常にそそるものではあった。しかし、その少年の服が剥ぎ取られる段階になって、シンタローはビデオを止めた。  その、今から犯されんとする少年の顔に『見覚えがありすぎた』こと、そして、その少年を弄ぼうとするカメラの持ち主の声に『聞き覚えがあり過ぎた』こと。  見てはいけない。知ってはいけない。このビデオテープの山は、触れてはならぬものだ。  それでも。震える指が新たなテープを取り上げる。入れ替えにデッキに差し入れる。自動的に始まる再生。舞台は先程の瀟洒な寝室から打って変わって、薄汚い寂れた町の路地裏。酒と薬に焼かれた中年のダミ声が、聞くに耐えない命乞いを繰り返している。路上にはいつくばって喚く中年を見下ろしている少年は、先程の映像よりわずかに成長していた。  ああ、確かこの少し後だったかな。俺が、さっきのテープのように、彼を弄ぼうと押し倒したのは。  少年はもう怯えてはいない。桃色の唇は規則正しい呼吸を刻み、冷静にしっかりとナイフのグリップを握り直す。ちらりとカメラの方を見ると、はにかむように微笑んで見せた。混じり気のない、花開くような笑顔。  ああ、ミヤギだ。  ビデオの中のミヤギは、艶めいた息を吐きつつ中年の腹にナイフを突き刺した。  気付いていなかった訳ではないのだ。  こうやって売り物にされている少年兵がいるという噂は、当時からまことしやかに囁かれていたことだった。  同年代の目から見ても見目麗しい少年たち。中にはそうやって玩具にされるために連れてこられた哀れな奴もいるのだろうと、他人事のように思っていた。  他人事だったのだ。  自分とは関わりないことだと思っていたのだ。  書類ケースのナンバリングを確認する。自分が士官学校に入学した辺り。中身を床にぶちまけ、内容を確認する。三箱目で当たりを引いた。  ポルノビデオ、スナッフビデオの販売記録。  流通ではない。通常の……暗殺や傭兵の顧客とさして面子は変わらない。自分が幼いころから何度も顔を合わせた、同盟国の高官の名前もあった。つまりこれは単なるポルノではなく、商品カタログなのだ。暗殺要員として、及び愛玩動物としての商品説明ビデオだ。  自分が入学した年だけで五人。翌年から四人。九人中七人は、一年以内に死亡している。事故であったり、薬の副作用であったり、顧客の『要望』であったり、自殺であったり。黄ばんだ紙に淡々と記された文字は、どれだけ多くの子供が弄ばれ踏み躙られてきたかの記録だ。  背後のブラウン管の中では狂宴が続いている。  最後にいい夢を見させてやれと命じられたミヤギが、中年のペニスを咥えている。ねっとりとした頭の動きに中年が声を上げると、その度にぱっくりと口を開けた腹から引き出した腸をミヤギが捻り上げる。聞くに耐えないおぞましい悲鳴。それを意に介さぬかのように、手慣れた娼婦のように巧みなフェラチオが続く。サディスティックな笑いを上げていたカメラの持ち主(おそらく『顧客』だろう)が、ミヤギの尻に手をかけた。豚の悲鳴に猫の嬌声が混じった。  画面を振り返る。内臓と血の海に顔を半分浸し、切なく喘ぐ幼いミヤギ。  ああ。  知らぬうちに固くなっていた自分のペニスを切り落としてやろうかと思った。 「わ、わ、ちょ、なんだべ! 何見てんだべ、もー!」  背後からの声と足音に、死ぬほど驚いた。同時に、何者かが飛び出てきて、ブラウン管に覆いかぶさる。 「……え?」  何者か、じゃない。ミヤギだ。ミヤギ以外であるものか。 「やめろって! もー、早く止めてくんろ! 見んなってー!」 「え? あ? あ、うん……うん……」  ブラウン管を抱き抱えるミヤギが腕と首をぶんぶん振り回す。言われるがままにリモコンの停止ボタンを押すが、なぜか反応しない。スピーカーからの嬌声はクライマックスが近いことを教えていた。早く止めないと。ミヤギの身体が、ビデオのセンサーを遮っていることに気付いた。 「ちょ……邪魔だから。どけって」  肩を押して引きはがし、直接デッキの停止ボタンを押す。途端に、肉の色から黒へと変わる画面。しかし、電源が切れている時とは明らかに違う、淡い光を放っている。黒い光だ。  その黒い光に薄ぼんやりと照らされたミヤギの顔は、笑っていた。 「やぁっだな、どこで見つけたんだべ、こげなもん〜。まだ残ってたんだべなぁ」 「こっぱずかすぃから、あんま見ねえでくんろ」 「色々へったくそでこっぱずかしぃべ」 「あー、ほんとやだ。この頃、こんなにちっさかったべな、オラ。よくやれたもんだなぁ」 「なじょして、こっただとこにあったんかなぁ。もう、捨てられたと思ってたんだけんど」 「うーん……だども、捨てらんねえかも」 「懐かしすぎて、捨てらんねえ」  笑っていた。いつも通りの顔で笑っていた。昔とちっとも変わらず、くるくるとよく動く表情で、きゃらきゃらと笑っていた。  いつも通りに、昔と同じように、昔から、いつも、ずっと、いつも見ていた、ずっと昔の、初めて出会った、あの日の、笑って、  ずっと、ずっと、変わらずに、ずっと、  両手が伸びる。まるで自分のものではないような感覚だった。何かもっと、自分より大きなものにゆっくり腕を吊り上げられている、そんな感覚だった。  両手が、ミヤギの、白い喉に、  違う。 「……辛くなかったか?」  何度も触れた頬だった。いつもの手に吸い付く感触。自分の両の掌にすっぽりと包まれた、白く滑らかなミヤギの頬。 「大変だったろ? こんなにいっぱいさ。そういや、よく倒れてたもんなぁ」  ゆっくりゆっくり、慈しむように、愛しさを込めて、何度も何度も、 「頑張ってたんだなあ、お前」  この世界で最も汚らわしいバケモノのかおを撫でる。 「うん。スンタローと一緒だって決めたがら」  抱き締めた肩を、ひどく細く感じた。あの頃の小さなミヤギと同じくらいに、細く脆く感じた。 「スンタロー? どした?」  逃げ出せない、そんなことは出来ない。 「な、どしたべ? だいじょぶけ?」  本当は気付いていた、とっくに気付いていた。 「なんだべぇ、いきなり変な笑い方してぇ。びっくりすたぁ」  自分の足の下は、死体で作られた道だ。そこを望んで歩いたのは自分だ。 「スンタロー? ……すんたろ?」  それを踏み越えて、どす黒く汚れて、それでも前に、一歩でも先に、何かがあるのだと、踏み潰して、傷つけて、傷つけられて、殺して、殺されて、 「……泣いてんのけ?」  俺たちは、俺たちの死体を踏んで生きてきたのだ。  こいつを壊したのは、俺だ。  こいつにその道を信じさせたのは、俺なのだ。 「あの時はね、さすがに止めようと思ったんだけど」  両手を上げ、こう、首を……きゅっ! と。グンマがその所作を真似る。  そりゃそうだ。いくら書庫と言っても、防犯カメラくらいはある。忘れてた。頭に血が上ってたのだ。ということは、一人でやってたあんなことやこんなことまで見られてたのか。うわあ、いやだ。 「僕だってやだよ、弟のオナニーなんか見てもおもしろくないよ!」  ラブシーンはさすがに映像を切ったらしい。 「……シンちゃんがよかったならいいんだ。僕はそれでいい」 「お前、知ってたわけ?」 「知ってたわけじゃないよ」  何かしている、のは気付いていた。ただ、同じように『何かしている』人間は他にもいたので、とりわけおかしいとは思ってはいなかった。  肝心なところを知ったのは、自分もつい最近である。 「冷静じゃん」 「……まあ、似たようなことはいっぱいあるからね」  そうだ。いっぱいあることだ。実にありふれたお話だ。  身寄りのない子供が悪い大人に攫われて、嬲り物にされ、玩具にされ……ぐちゃぐちゃの肉の塊と化し、捨てられなかっただけ、まだマシなほうだ。あまりにもありふれた悲劇である。いちいち同情していては立ち行かない。  だから、同情はしない。ただ受け入れるだけだ。 「じゃ、そろそろ行くわ」 「……ねえ、本当に行くの?」 「行くもなにも。見合い相手待たせちゃ悪いだろうがよ」  ぴらぴらっと一葉のスナップ写真を振ってみせる。 「大丈夫だよ、これ、ミヤギちゃんが持ってきた話だから。焼き餅焼いたりしねーって」 「でもさ、その……その子が……」  決して愛されることはないと解り切っている、そんな女が哀れであると。  グンマの眉が泣き出す寸前の形に固まる。 「よくある話じゃねーか。愛のない政略結婚なんてさ」  泣いている最中の形にまで歪んだ。  泣けばいい。自らの罪深さを覚え、泣けばいい。 「安心しろよ。俺が守ってやる。コタローが帰ってこれる場所も、お前が家族と暮らせる場所も、兵たちが食っていける場所も……ミヤギが生きていける場所も、俺が守ってやる」  とん、と胸の一点を叩く。心臓の真上。 「それが俺の命で、俺の傷だ」  ごめんね。  グンマが言ったのはそれだけだった。それでいい。グンマはそれでいい。  それは俺には許されぬことだから。  礼服という奴はやたら装飾品が多い。勲章やら階級章やらがジャラジャラくっついているが、ぶっちゃけ自分でもどれが何やら分かっていない。2/3以上、総帥就任時に無理やり押し付けられたものであるし。はっきり覚えているのは、初めて部隊を率いた時にもらった突撃銀剣くらいなものだ。大抵の兵士が最初にもらう恩給付きの勲章。それ故、最も誇らしい勲章でもある。  その古ぼけた銀色のピンを、ミヤギが丁寧にシンタローの襟元に刺す。妙に嬉しそうに見えた。  ああ。よくよく思い出せば、こいつも同時に受勲されていたのだ。思い出の品なわけだ。 「あとはー……SPN金鷲章と、大公印とー……」 「……まだあんの?」  ミヤギの手の中のメモを見てげっそりする。全部つけたら、総重量が1kgに達しそうだ。 「仕方ねえべさー。男前にしてかなきゃな、お見合いなんだしなー」  ずっしりと重い純金のメダルを胸に留める。 「未来の嫁ごさ、惚れさせてくるべ」 「決まった訳じゃねえけどな」  最近になって、見合い先の周辺国がきな臭くなってきた。今回の会談次第で、同盟破棄も有り得る。  つまり、その時点で見合いは破談だ。  ただでさえ、そのような形で人生を弄ばれる女だ。もう一つくらい、自分が我が儘差し込んでも構うまい。 「出来れば、オラは決まってほしいンだけんども」  あの国との同盟締結は、ミヤギの複任後、初の大仕事だった。思い入れは深い。 「……少しは嫉妬してくれねえかな、ミヤギちゃん」  こうまでぐいぐい別の女との結婚を薦められると、さすがに悲しくなってくる。 「しとる。安心してけれ」  くすりと笑って、ミヤギはプラチナの刺繍が入ったリボンを手に取った。これが最後だ。 「だども、スンタローが浮気すんのはよくあることだべ」  ミヤギは器用に、リボンをシンタローの髪に編み込んでいく。本来は袖に縫い付けるものだが、もはや袖の布地にそんな余裕はない。仕方なく、髪飾りとして身につけている。苦肉の策だ。 「ま、上手くいきゃ、次からはオラが浮気相手になるんだども」 「……すいません。本当に色々すいません……」 「あっはっはっはっはっは」  ケラケラ笑って、ミヤギが編み終えた髪から手を離す。そのまま、腕がシンタローの首に絡み付いた。 「恋人つってくれたんが、愛人に変わるだけだべ。そんだけだ」 「愛人ねえ」  コージ曰く、恋とは手に入らないものを慕うことであり、愛とは手の中のものを慈しむこと。  なるほど。 「愛してるぜ、ミヤギちゃん」 「……ん」  かすかに首を傾ける。心得たもので、同時にミヤギもかすかに首の角度を変えた。唇が重なる。  今こそ自分は、全てを手にいれたのだ。この世で最も美しいものと、この世で最も汚いものを手にいれた。だからこそ、だからこそ。  唇が離れる。 「じゃ、いくか」 「ん」  そっとミヤギの手を取る。特別に誂えた白い軍礼装は、ミヤギによく似合う。  では行こう、決してこの世では結ばれぬ我が花嫁よ。  今から一人の娘を蹂躙しに行こう。  戦車の車輪で轢き、駿馬の蹄で踏みにじろう。  君のために、最も野蛮なる道を進もう。  君がその血塗られた道でしか生きていけないのなら、  君を手に入れるには血塗られた道を生きるしかないのなら、  僕は望んでその道を進もう。  この世のありとあらゆる欲望を剣に乗せ、  この世のありとあらゆる悪徳を切り裂き、  その汚れた血を全身に浴びながら踊ろう。  僕の背にすがる君の手は菩提樹の葉だ。  それだけが僕を人間足らしめるものだ。  もはや僕はそれで十分だ。  僕は望んで化け物になろう。  人でありながら人でなく、  全てを踏み潰し、全てを食いつくし、  僕と君は果てることなく血と愛欲を貪り合い、  ただひとつ信じるものを行う。  ヴァルハラに続く英雄の道へ。  高潔にて清廉。正大にして決然。自らの信じる正義を大義をもって為す、英雄の道へ。  総帥専用艦『戦女(ヴァルキュリア)』、就役。