人は数学を『発明』したのではなく、『発見』したのだと言う。  数という概念がこの世の理として存在することを発見し、今もなお、その数の定理を探求し続けているのだと言う。そう言われると、因数分解も何やらロマンチックな代物に思えてくる。  数の世界を発見した人間たち。では、その人間たちの世界は何によって齎されたものなのか。  世界を定義するものは、どこからきたのか。  どこまでも、どこまでも真っ白だった。白すぎて目が痛い。そして、白すぎてなにも見えない。自分が見ているのが、空なのか地面なのかそれすらも分からなかった。右を向いても左を向いても、上を見ても下を見ても、ただただ白が広がるばかりだった。  怖かった。自分が立っているのかどうかすら分からない。下手すれば宙に浮いているのかもしれない。何も見えない、何も分からない。恐怖に耐え兼ねて『喉を震わせた』。世にも恐ろしい響きをもった音が出た。それが引き金になったかのように走りだした。いや、逃げ出した。  足元が妙に柔らかく、足首を搦め捕られて倒れる。顔から柔らかいものの中に突っ込む。冷たい。冷たく柔らかいものは、容赦なく口の中へと侵入してきた。苦しい、さらに喉が震える、恐ろしい音が聞こえる。ここからなんとか抜け出そうと、めちゃくちゃに手足を動かした。溺れもがいて、ようやく顔を上げる。  哭く。植え付けられた本能に従って、ただひたすら哭く。  ひとりぼっちにしないで。おいていかないで。ひとりはいや。さびしいのはいや。  あぁーーーー。あぁあああぁぁあAaAAAAaaaaaAaaAAAaaaaaaaaAAaaAaaaaaaaaAAaAAaaaaaaaaa  救命信号だった。はるか遠く、別の星、別の宇宙、別の世界へまで届くような、悲しく、苦しく、孤独に追い詰められた、弱々しい救命信号だった。  ミヤギは言葉が遅かったらしい。養い親に拾われた頃は五歳になっていたが、何一つまともに喋ることができなく、赤ん坊のように泣く以外できなかったと言う。  だから、ミヤギの『記憶』はいきなり小学校に上がった辺りから始まる。その頃になれば、人並みには口がきけるようになっていたらしい。人間は言語がなければ、古い記憶を保つこともできないのだ。  だから、『あの記憶』は夢か何かなのだと思う。幼いころに見たこわい夢をおぼろげに覚えているか、もしくはどこまでも真っ白に染まった雪景色が恐ろしくて、誇大解釈して覚えているか、どちらかなのだと思う。  真っ白な、寂しい思い出だった。 「ミヤギを借りていいか?」 「……またか?」 「不都合があるなら、また今度でもかまわない。急ぎの用ではないしな」  別に不都合はない。しかし、なんとなく気に食わない。シンタローは目を通していた書類を置いて、自らの片腕である(はずの)男の顔を軽くねめつけた。 「そんなになんの用があるんだよ」 「実験に協力してもらうためだと、前に言ったはずだが?」 「……いっつも実験の後は妙に疲れてるんだよなあ、ミヤギちゃん」 「性的な交渉はない」  変化球で様子を見ようとしたら、思いっきりど真ん中に投げ返された。 「……そういうことじゃなくてよ」 「違ったのか?」  はいそうですその通りです、となどと言えるか、この唐変木。 「精神的にも肉体的にも被験者に負担を掛ける実験だ。だからこそ、毎回おまえの了承を得ているのだが?」 「一体何やってんだよ、いっつも」 「実験計画書は提出してある」 「あんな専門用語だらけの細けえ字読めるか! 分かりやすくかい摘まんで説明しろ!」  キンタローが、半ば呆れたようなため息をはいて、やれやれと首を振る。非常に頭にくる。 「簡単に言えば、因果律をどこまで書き換えられるかの実験だ」 「はあ?」 「事象には必ず、『そうなった』原因がある。中国の蝶の羽ばたきが、ヨーロッパで竜巻を起こす。これを因果と呼ぶ。因果は逆転させることはできない。時の流れが逆行しないのと同じように、原因と結果は決して覆されるものではない」 「いや、それは分かるよ。それとミヤギが……」 「彼の能力であれば、その因果律を書き換えることができる」 「……ああ」 「そのものの存在を、限定的にと雖も完全に『書き換える』ことが可能だ。この『書き換え』がどこまで有効なのかが分かれば、運用範囲は現在の個人任務の枠を越える」 「じゃあ、筆だけ借りとけよ」 「勿論実験済みだ。結果として、彼自身以外での使用では、因果律を『書き足す』範囲に留まることが分かった」 「どう違う」 「他者による使用では、対象の『自我』が必ず残ってしまう。自我の上に書かれた文字の属性が追加されるだけで、根本的な『書き換え』には程遠い。対象の自我の根本的『書き換え』、それに伴う物質的変化を起こすレベルの『使い手』は、現時点では彼しかいない」 「…………」 「まだ仮説なのだがな。あの能力は筆単体にあるのではなく、彼自身が持つ能力の一部が筆という形で顕在化してるのではないのだろうか。筆という『道具』の形になっている故、条件さえ満たせば他者にも使用可能なだけであり、本来の能力すべては彼自身に起因する。そう考えれば辻褄はつく。そして、これが正しかった場合……」 「弘法筆を選ばず、ってか」 「そうだ。彼自身が能力全てを使用できれば、あの筆に限定されずに能力の使用が可能となる。そして逆もしかり。完全に因果律の書き換えを行うことができるもの……それがペンなのか、なんらかの演算機械なのかは、まだ分からないが……その実現が可能になる。因果律を書き換えることが出来るということはだな、物質を変換するだけではない。全ての事象を操ることが出来るということだ」 「まだそんなことが出来るのかどうかもわかんねえんだろ」 「だから実験を行っている。どうも彼自身の中に能力の行使に対する心理的ブレーキがあるようだ。簡単にできるであろう事に対しても、『出来ない』と答えることがままある。それらを解除することから行っている段階だ。投薬もある程度併用しているので、弊害はあるだろうが協力してほしい」 「……苛め過ぎないようにな」 「感謝する」  そういって柔らかな絨毯を踏む足音が、扉から出て行った。ふと机の上の書類に目を向けると、ちょうどあの整った筆跡が目に入った。  その筆で、相手に『死』と書けば、全部方がつくのではないか。  何度目の演習だったろうか。戯れで言った言葉に、あいつは首を振った。  そげなことは出来ねんだべ。そういうのは無理なんだべ。  試したことはあるのか、というと、無いと言う。仮に成功したとして、その字を消して、相手が生き返るという保証が無い。実験用動物を借りるのもなんとなくいやだ。そのうち、実践で試してみる。しかし、『多分できないと思う』。『そうなっているはずだ』。そう言って、笑ってごまかした。  幾度となく同じ部隊で実戦を共にしたが、ついぞ『死』という文字を書いたところを見たことがない。あれが心理的ブレーキというやつだろうか。  だとすれば。  その心理的ブレーキとは、人間性そのものではないだろうか。  シンタローはかすかに眉をひそめた。苛め過ぎるなとは言っておいたが、一度様子をみた方がいいかもしれない。  予想よりもきつい光景だった。  ガラスの向こう側で、実験準備を施されているミヤギが寝ている。カウチのような椅子の上に、さまざまな観測機器やベルトをつけられて横たわるミヤギは、拘束されているように見える。実際、万が一の場合に暴れ出さないよう、手足がカウチに固定されていた。ヘッドギアは顔の上半分を完全に覆い、呼吸器が轡のように食い込んでいた。以前の実験で、舌を噛み切ろうとしたことがあるらしく、その対策だと言う。 「……聞いてねえぞ」 「計画書とレポートは出してある」  平然と答えるキンタローの横顔をねめつける。 「苛めるなって言ったじゃねえかよ」 「本人の同意の上だ。意味もなくしている訳ではない。自傷行為に及ぶこともあるからな、彼自身のためでもある」  自傷行為をさせるような実験をしているのは、どこの誰だ。  実験許可を出した後、シンタローはミヤギを呼び出した。実験協力は完全に任意であり、嫌ならば協力することはない。過ぎたことをしているようであれば、すぐに申し出るように。ミヤギは一通り話を聞いて、いつも通りけろりとした顔で答えた。 『だども、実験は役に立つんだべ?』 『別に殺される訳でもねえし、痛い訳でもねえし。オラにしか出来ねえことなら、オラがやるしかねえべ』 『大丈夫だべ。寝てるだけだがら。リフレッスタイムだとでも思っていってくるべさ』  だというのに、様子を見にきてみればこれだ。脳波計は確かにリラックス状態であることを示しているが、これは半分以上投薬の効果によるものだ。強制的にレム睡眠状態に持っていき、外部信号で人工的に夢を見させる。夢の内容はいろいろだ。過去の戦闘記憶、生い立ち、心的外傷、原体験……さらには前世。それらによって、能力とそれに関する心理的な制約を明文化する。  要約すると、無理やり精神の暗部やトラウマほじくり返して、頭の中を解剖するわけだ。実際、己の目で見て、嫌というほど分かった。  いくら普段から何も考えてないような天然阿呆のミヤギでも、このような目にあって『なんでもない』わけがない。痛くないと言っても、直接体を傷つけられることがないだけで、疲労やストレスは相当なもののはずだ。 「……脳波は安定したな。それでは始めるぞ」  キンタローの声と共に、助手がスイッチをひねった。コンピュータ上で構成された光学信号が、ミヤギのつけたヘッドギアの内側で点滅しだすのが見て取れた。しばらくはなんの変化もない。まんじりとせず、シンタローはガラス越しにミヤギの様子を伺った。  不意にミヤギの体が撥ねた。痙攣を起こしたように、背筋が反り返る。手足の指が広がっている。喉がうごめき、声を上げているようだが、呼吸器に阻まれてうなり声にしか聞こえない。 「今回は初任務の内容だ。記録に残っている部分から時系列を割り出し、記憶野から情報を引き出している。おそらく彼が、その能力を初めて『実用』した記憶だ。心理的制約の大部分がここで構成されたと予想される。成功すれば、かなりの進展が……」  キンタローのお題目は、耳を右から左へと通り過ぎていった。モニタ上に血流や脳波から分析されたミヤギの情動が文章化され、次々と流れて行く。  拒否。  恐怖。  嫌悪。  責任感。  孤独。  恐怖。  恐怖。  恐怖。  焦燥。  恐怖。  恐怖。  恐怖。  恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。 「止めろ」 「何?」 「今すぐ止めろ。やめろ。さっさと止めろ」 「少し待て。いまやめると記憶の混乱が……」 「うるせえ、バカ! さっさとやめねえか、この唐変木!」  怒鳴りつけて、シンタローは助手を押しのけ、ヘッドギアのスイッチらしきものを無理やりオフにした。背後で怒鳴るキンタローを無視し、計測室から実験室に繋がるドアを力任せに蹴りやぶる。ミヤギが横たわるカウチまで駆け寄り、観測機器やベルトを引きはがし、ものによってはちぎり捨て、ヘッドギアと呼吸器をはぎとった。ヘッドギアの下のミヤギの目は、恐怖に見開いていた。瞳孔が開ききり、ボロボロと涙をこぼしている。 「ミヤギ! おい、ミヤギ!」  ぱしぱしと頬を叩いて、呼び戻す。少しずつミヤギの目に意識が戻ってきた。 「……あ、すんた……ろ……」 「ああ、そうだ。分かるか? おい、大丈夫か?」 「すんたろ……さん」  昔の呼び方だ。キンタローが言った通り、記憶が混乱しているらしい。 「シンタローさんじゃねえだろ。おい、しっかりしろ……」 「だいじょぶ、だいじょぶだべ……」  震える指がシンタローの袖をつかむ。 「おら、だいじょぶだべ……おら、なんでもするから。がんばるから。へいきだべ。だいじょぶだべ」  初任務の時の記憶。ミヤギが初めて人を殺した時の記憶。 「がんばるから。なんでもするから。だから、だから、おらをおいてかねえでくんろ。だいじょぶだから。なんでもするから」  ミヤギが初めて感じた『恐怖』。 「おいてけぼりはやだ。ひとりぼっちになんのはやだ。すててかれんのはやだ。だいじょぶだから。なんでもころすから。すんたろさんとはなれんのはやだ。いっしょにいる。いっしょにいるんだべ。なんでもするから。だいじょぶだから。だいじょぶだから」  カタカタと震える肩を抱き締めた。 「分かった。分かったから。一緒にいてやるから、落ち着け。な?」  子供のようにミヤギが何度も頷く。シンタローも子供を寝かしつけるようにその頭を撫でた。  ミヤギの初任務がなんだったか、シンタローは知っている。公式記録での初陣は士官学校卒業後の後方支援だが、実際は在学中の研修任務だ。総帥同行での暗殺任務。それすらも表向きの表現。  スナッフビデオのモデル。まだ第二次性徴の兆しが見えるか見えないかの見目麗しい少年が血に塗れ、涙をこらえながら人間の腹を切り裂き、吐きながら内臓を引きずり出す。その手の趣味の人間にはたまらないだろう。そして、その手の趣味の人間はたいてい腸の腐り切った金持ちや権力者と相場が決まっている。  資金集めかつプロモーション用ビデオなわけだ。高額でビデオを売り付け、さらに高額でモデルを愛玩する権利を売り付ける。知った時には吐き気がした。人間の醜さに絶望すら覚えた。  しかし、自分がやっていることも似たようなものだと気付いた。  同じように人を殺すことを命じ、セックスを強要する。全く同じだ。蔑むべきは自分だ。  ミヤギはその恐怖に耐えてきた。孤独への恐怖で、心と体を踏みにじられる恐怖を塗りつぶし、ひたすらシンタローに縋った。ミヤギを踏みにじった者の一人であるシンタローに縋っていた。  故にシンタローはミヤギを手放すことが出来ない。ミヤギを踏みにじることを分かっていて、踏みにじることをやめることが出来ない。  それが己の選んだ道である。それがミヤギと自分が選択した生き方である。 「起きたか」  ベッドの上で目を覚ましたミヤギはまだ半分夢の世界に行っているらしい。ぼんやりと不思議そうにシンタローの顔を見ている。 「大丈夫か? 気持ち悪くないか?」  頭を撫でながら問うと、こくりと頷く。 「もうあんな実験やめろ。次言われても断れ。あんなんで貴重な部下潰されちゃ、たまんねえ」 「……だども……」 「断れ。俺も許可しねえ。あんなん打ち切りだ」 「……分がった」  シンタローの真剣な表情に、ミヤギは素直に頷いた。 「毎回あんなことやってたのか」 「うん」 「なんで言わなかった」 「……別に、言うこともねっかな、て……」 「怖かったんじゃねえのか?」 「…………」 「怖かったんだろ? なんで言わなかった。あんなことしてるって知ってりゃ、許可なんか絶対しなかったぞ、俺ぁ」 「……役に立ちたかったんだべ」  気まずそうにミヤギがもごもごと呟く。 「オラはなんも出来ねんだがら、そんくらい役に立たねばいけねんだべ。そんくらいしか出来ねんだべ。オラが我慢すればええんだべ」 「キンタローか」  シンタローの厳しい声色に、ミヤギは押し黙る。 「キンタローがそう言ったのか。お前は役立たずなんだから、モルモットくらいなってみせろって、そう言ったのか」 「違う」 「嘘つけ」 「違う。オラが実験してけろって頼んだ。オラが思いついた」 「怒るぞ」 「嘘でねえもん。オラが考えたんだべ」  意固地になったのか、ミヤギは頑として譲らない。 「……分かった。だけど不許可だ」  布団に沈む頭を軽く撫でた。 「お前は役に立ってるよ。お前がいなきゃ駄目だ。お前でなきゃ出来ねえ事がたくさんある。逃亡者扱いされてたお前ら復帰させんのに、俺がどんだけ苦労したか忘れたワケじゃねえだろうな」  こくりと頷いたのを確かめ、シンタローは腰を上げた。明日の会議は出れたらでかまわないことを告げて、病室を出る。  実験棟から執務室へ向かいながら、次第に腹が立ってきた。命令系統上、ミヤギの上には自分しかいない。正真正銘、あれの命も肉体すらも、身も心も自分だけのものだ。ミヤギは自分の命令で、生きもするし死にもする。他の人間がミヤギにそれを与えることは出来ない。だから、他人に弄ばれるのは我慢がならない。自分が知らぬうちにあれをいいように扱われたのに我慢がならない。コージはこれを称して『独占欲』と言った。非常に近いものではあるのだろう。そんな自分の中の稚気をシンタローは隠さなかった。何とでも言えばよい、あれが自分のものであるのは揺るぎない事実だ。  執務室の中に踏み入れた瞬間、憮然とした顔でソファに座っていたキンタローに光撃を放った。  質量を伴った光の固まりを、キンタローは予想していたかのように同じように光を集めた片手で受け止める。対消滅。軽い衝撃だけが二人の髪を揺らした。 「テメエ、勝手なことしやがって」 「だから……計画書は出していたはずだ」  ため息をつくキンタローの横を通り過ぎ、荒々しく自分の椅子に腰を下ろす。 「もう二度と許可しねえからな。この実験は打ち切れ、いいな?」 「あのな、シンタロー。これはガンマ団のみならず、科学にとって……」 「中止だ」 「…………」  やれやれと言うようにキンタローは首を振って、執務室を出て行った。非常に頭にくる態度だ。……これで本当に諦めればよいのだが、自身の天邪鬼振りを知っている身としては、己の半身がどういう態度に出るか、少し不安な部分がある。 「……まあ、大丈夫だろ」  ミヤギにも断れと強く言っておいた。ならばそれほど心配することはないだろう。シンタローは机の上の書類に手をかけ始めた。  最大の誤算は、ミヤギの頑固さを見誤っていたことだろう。ミヤギが恐れるのは、自らが傷つくことではない。分かっていたはずだが、見誤った。ミヤギが恐れていたものは。  当時、ミヤギの握力は学年でワースト10に入った。入学が早めだった上に早生まれが重なっている。この年頃の少年にとって、一年の年齢差は大きい。しかも、14歳になった今も成長期が来ていないのか、ちんまりした華奢な体躯のままだ。身長で言えばトットリとそうは変わらないのだが、入学前から修行していた彼とは基礎体力が全く異なる。  体力測定は目安に過ぎないという説明は何度も受けているが、負けず嫌いのミヤギは納得が行かないらしい。暇があればグリップを握っている。 「あんまりやり過ぎると骨に悪いって言うぜ」  そう忠告すると、ミヤギはむくれた顔をしてグリップをポケットに仕舞った。 「まだ背も伸びてねんだから、無理するなよ。先は長いんだから焦ることねえって」  カリキュラムは最低四年、しかし五年六年かかる者も珍しくはない。ローティーンで入学し、20歳前に卒業する者が大半であることを考えれば、ミヤギにはまだ五年近くの猶予がある。卒業までこぎつければ、の話だが。 「……だども、オラ、また叱られたし……」 「褒めたり慰めたりする教官は、ここにゃいねえって。気にすんなよ」 「ちゃんと握力がねえとな、ナイフのグリップが悪ぐなるって。狙ったところがちゃんと切れねえって」 「いつ生身切るんだよ」  そう言ってシンタローはげらげら笑った。数年先の地獄など、人類滅亡と同じくらい遠い未来の出来事だと思っていた。講習で使用される人工義体は『人の形をした肉の塊』でしかなく、それをいくら切りつけたところで、人殺しの練習だという気分すら沸かなかった。  ミヤギは照れ臭そうに笑っていた。既にこの狭い箱庭にいる誰よりも多く、物言わぬ肉塊を切り裂くことを命じられた指で、玩具のようなアーミーナイフの背を辿っていた。  それから、しばらくたってのことだと思う。狭い二段ベッドの下の段で、何度も天板に頭をぶつけながら、その細い体を貪った。嫌がらなかった。染めた頬に喜んでいるのだとすら思った。切なく吐かれる息も、暑苦しさに首筋に浮かぶ汗も、全て飲み込み、食いつくしてやるつもりだった。  閉塞し歪んだコミュニティの中で、思春期の青い衝動が歪んでいくのを、シンタローは肌で感じていた。歪み、渦巻いたどす黒い欲望のいくつかが、あの細い体に、白い肌に、金色の髪に、可憐な顔立ちに触手を伸ばしているのが分かった。誰かに食われる前に自分が食ってやる。そう思った。  よく知りもしない上級生にトイレの床で輪姦されるより、自分にベッドの上で抱き締められた方が、ミヤギにとっても幸せだと思った。自分の手がついたと分かれば、無茶をするような奴もいなくなるだろう。次期総帥と修羅場を繰り広げる勇気がある者などいないのだから。  人助けしている気分になっていた。無邪気に懐いてくる笑顔を見て、その全てを自分が与えてやっているのだという気になって、歪んだどす黒い欲望をその体の中に吐き出した。  今思えば、自分が押し倒すよりも前に輪姦されたことなど、何度でもあるのだろう。自分達子供の性欲などよりも数倍どす黒い、泥のような欲望に何度もその身を食い荒らされたのだろう。  あとから知ったことだが、他人のお手付き程度では収まらない奴はかなりいたらしい。逆に、自分に迷惑がかかるというのを脅しに強要した輩もいたと言う。  あの頃からミヤギは、その体に溺れるほどの欲望を注ぎ込まれていた。底無しの泥の中に首まで押し込まれ、あえぐように息をしていた。それでもミヤギは美しかった。肌はさらに透き通るようで、髪は昨日よりも輝くようで、笑顔はどんどん無邪気になるようだった。  欲望を食らって、ミヤギはより美しくなっていった。それはさらなる欲望を呼び、濁った泥を浴びせられ、そしてまた美しくなっていった。  誰よりも多く、その欲望でミヤギを穢したシンタローには分かる。これはそういう生き物だ。他人の吐き出す欲望を食らい、自分の栄養素に変えていく生き物だ。獣の排泄物や虫けらの死体を食らって、美しく咲く花だ。それを全て、息をするように無自覚に行う無垢な生き物だ。  それが後天的に身につけた生き抜くための手段なのか、先天的に知っていた生きるための本能なのか。どちらかと言えば、シンタローは本能だと思っている。甘い体臭や吸い付くような肌は、ミヤギが餌を誘い寄せ捕らえるために持って生まれた飾りなのだ。  そして今日もそれを欲望で穢す。  そうしなければ、ミヤギが飢えて死ぬから。  吸い付くような肌は十代のころと全く変わっていない。傷ついたことも数あるはずなのに、ミヤギの肌には傷痕ひとつ、しみひとつなく、薄暗い夜の中で仄かな燐光を放つようにシンタローの目を喜ばせ、濡れて絡み付くように指を喜ばせる。  貪るように、その全てに噛み付く。歯を立て、吸い立て、舌で辿る。その度に細く高く上がる声は、食い殺される兎の断末魔に似ている。  ミヤギは自分がしてきたことを、これっぽっちも後悔していない。それどころか異常であるとすら思っていない。それらの価値観は全て薬で上書きされた。人格崩壊の寸前まで麻薬で精神を溶かされ、生きた人間を解体する手順を、男を喜ばせる手管を、腸に刃を突き立てる快楽を、腸を貫かれる悦楽を刷り込まれた。  今のミヤギの心が生きて行ける場所はここしかない。表面上は正常に生活ができているようでも、やはりその心は狂っている。刷り込まれた価値観が壊れそうになると、拒絶反応を起こす。嘔吐し、気絶する様を何度も見た。  ミヤギの世界は『ここ』しかない。今はシンタローが作り、支え、与える、この狭い世界だけがミヤギの世界だ。  覚悟はとうに出来ていた。この小さな世界で、この哀れな生き物の身を食らい、食らわせ、貪りあって擦り切れるまで生きて行くのだ。ある意味、楽園ですらあると思う。  ミヤギは、最後まであの『島』に情を持たなかった。あそこは自らが生きる場所ではないと知っていたのだろう。だからこそ、あの『島』に戻ることが出来ぬ今、この楽園を守ることは意味があることだと思った。今にもくずれそうな蜜細工の檻を必死になって守ることは、意味のあることだと思った。  ミヤギの脆弱な檻を壊すのに、その行為は十分すぎた。  その日の昼過ぎ。正確に言うと、三月十四日午後二時二十三分四十六秒。  完全防音のはずの研究棟第三実験室から、本部中に響く『悲鳴』が上がった。  本部の敷地内300ヘクタールに渡り2480箇所に設置された音声レコーダー全てが『完全に同じ時刻に』『完全に同じ音量で』記録していたその『音』は、人間の言語で表現するなら、『悲鳴』としか言いようがなかった。  人が発声できる範囲をはるかに超えた周波数、世界中のどの言語とも類似性をもたない発音。無理やりソフトウェアにかけて文章化したログは、文字化けとしか思えなかった。  ただ意味するところだけは伝わってきた。これは『悲鳴』だ。悲しく、寂しく、不安と孤独と恐怖に押し潰され、狂気の淵に面したものの『悲鳴』である。  そのあまりにも悲痛な叫びは、本部内に文字通り震撼を齎した。80%以上のガラス類が割れ、計器類は観測記録上あり得ない数値を叩き出し、数百人の団員が失神、昏睡。以後数週間にわたって幻覚幻聴を訴える者は80人に及び、発狂に至った者すらいた。  本部全体にこれだけの被害を与えた『悲鳴』の発生源である第三実験室の惨状は、言葉に表しがたい。実験に立ち会った15人の内、6人が即死、3人は脳死、死を免れた者も全員が発狂に至った。  被害を免れたのはキンタロー、唯一人だった。計測機器も全損したため、現場の様子は彼の事後聴取に頼るしかなかったが、この状況では幻覚の可能性が非常に高いため、信憑性は薄い。しかしながら、彼の発言と事件直後に現場に駆けつけた者の発言を統合すると、以下のようになる。  再実験を申し出たのは、外ならぬミヤギ自身だった。総帥の認証が降りていない実験を行う訳には行かないと拒否したが、本人の強い希望により、逆行催眠によるメンタルチェックという名目での実験が執り行われた。実験開始は午前11時。前回中断された初任務時の記憶に加え、士官学校時、入団時の記憶までさかのぼったが、該当するような記述は発見できなかった。被験者の体力の損耗具合を見た上でキンタローは実験終了を申し出たが、ミヤギ本人がそれを拒んだ。  どこまでも溯れ、と。それが見つかるまで、続けてほしい、と。  実験続行が決断され、逆行が幼児期に差しかかった時点のことだった。  ミヤギを拘束していた機器類が全て弾け飛んだ。同時に計測機器が火を吹き、実験室と観測室を隔てる耐爆ガラスが全て吹き飛んだ。キンタローは、それに巻き込まれて3人の上半身が、1人の右半身が吹き飛ばされるのを目撃した。  そして、声を聞いた。耳から聞こえたのではなく、脳に直接『音』としてぶち込まれたようだった、と言う。世界中のどの言葉でもない言葉。別の星、別の宇宙、別の世界から届いたような、それでいて意味だけは痛いほど伝わってくる言葉。  ひとりぼっちにしないで。おいていかないで。ひとりはいや。さびしいのはいや。  その声が止んだ時、観測室内に自分のほかに動く者はいなかった。飛び散っていたはずの肉片は、すべて白い粉末状のもの……塩へと姿を変えていた。五体満足でいる者も、気を失ったのか床に這いつくばり、ぴくりとも動かない。  実験室の中央で、ミヤギが座り込んでいた。いや、彼は『ミヤギだったモノ』と表現した。実験室の四方を覆っていた厚いコンクリートは球状にえぐり取られ、その『球の中心』にミヤギは『座っていた』。座って、しくしくと泣いていた。  聴取官がその時の様子をより詳しく聞こうとしても、キンタローは答えなかった。『言葉では表現できない』というのが理由だった。  少なくともその時のミヤギは、人間の形ではなく、この世のなにものにも似ておらず、それでも『座って、しくしくと泣いていた』と分かったのだと言う。 「あれは化け物だ。でなければ、悪魔か天使のどちらかだ」  吐き捨てるように言ったその言葉で、聴取書は締められている。  事件は内々に処理された。不思議なことに、あの『悲鳴』は敷地外には全く漏れなかったらしい。同時刻に正門まで10mのところで検問を行っていた守衛は、そのような声は聞こえなかったと言う。  あの悲鳴は、ガンマ団の『世界』の中だけに響いた声だった。  繭だ。  シンタローはそう思った。一通りの検証を終えた後、現場に通されたシンタローはそう思った。  繭だ。  白い、柔らかい、雪のような、繭だ。  ミヤギは繭になっていた。