昨晩、急に訪ねてきたのだと言う。  深夜の新システム導入作業が終わり、結果として朝帰りになったキンタローが帰るなり目にしたのは、普段は自分が座っている椅子に腰掛け、もそもそとパンを食うミヤギだった。 「おかえりー、キンちゃん。何か食べてから寝る?」  全く普段どおりのグンマをキッチンに連れ込み、事情を聞き出す。なんでも、昨晩、急に訪ねてきたのだと言う。 「なんで急に来るんだ……!」 「落ちつかなかったんだってさ」 「それで、何故うちに……!」 「シンちゃん、出張でしょ。コージも一緒だし」 「トットリがいるじゃないか!」 「トットリ、アラシヤマと遊びに行ってるじゃん。忘れた?」  忘れてた。またいつものじゃれ合いが原因で本部内で小火を起こした二人組に対し、ペナルティとして遠方支部の清掃業務を命じたのはキンタローだった。あと半月は帰ってこない。 「じゃあ、部下のとこにでもなんでも……」 「あんま下と馴れ合うなって言ったの、キンちゃんでしょ」  自分たちは全員、急な昇進を迎えた立場だ。年上の部下も大勢いる。下手に下と馴れ合ってはなめられてしまう。ミヤギとコージには、特に口酸っぱく言っていたことだった。  キッチンからダイニングをのぞき込む。まだもそもそとパンを食べている。普段と比べて、明らかに覇気というか元気が無い。テンションが低い。 「別にいいでしょ、僕の友達なんだから」  よくない。実を言えば、未だにキンタローには人見知りの癖がある。外でならともかく、プライベートな空間に家族以外がいると、落ち着かないこと甚だしい。同じ屋根の下に他人がいるというだけで、安心して眠るということが出来ない。  グンマが呆れたようにため息をつく。 「……ほんとに、もー……赤ちゃんなんだから……」 「赤ちゃんとはなんだ、赤ちゃんとは!」 「大丈夫だよ、僕らもう出るから。キンちゃんは一人で寝てていいから」  その言葉どおり、10分もしないうちにグンマとミヤギは家を出た。普段は運転手の車で出るのだが、今日はミヤギの車で行くのだと言う。  無駄に広い家の中で、一人パジャマに着替え、もそもそとベッドに入り込む。  眠れない。  こうやって絡まれているのは、初めて見る。  時間は既に業務終了時間を過ぎている。システムの稼働状況だけ見て、すぐ帰るつもりだった。故に、一時間前に起きたばかりの寝癖も直していないし、ネクタイも締めていない。常に身だしなみに気をつけろという高松の躾からは外れているが、これくらいは許されると思う。30分ほどで帰るつもりだったのだ。  そう、すぐ帰るつもりだったのだ。その帰り際に変なものを見かけた。  ミヤギが絡まれている。  絡まれている、ように見える。絡んでいるのは古株の将官。確か『父』が学生のころから在籍している叩き上げだ。その古兵の彼が執拗にミヤギに話しかけ、その袖を引いている。ミヤギはというと、困り眉に愛想笑いを浮かべ、なんともあいまいな態度でなんとか逃げようとしている、らしい。  どうも普段と様子が違うので、状況が読めない。普段のミヤギなら意に添わぬことはなんでもはっきりと口にするし、上官や先達だからといって遠慮するようなことはしない。そういう気配りとは無縁の人間だ。こんなふうに、いつまでもだらだらと絡まれるようなことはない。  ……いや、ミヤギが断るよりも前に、別の人間が割って入る。普段なら。  ミヤギが少しでも困った顔を見せれば、どこからともなくその親友が顔を出す。騒ぎと聞けば野次馬に駆けつける大男が、その巨体の威圧感でミヤギを保護する。  そして……  現総帥の実質上の愛妾であるというだけで、誰も下手に手出しは出来ない。ミヤギにケンカを売れば、その後ろにいるシンタローにケンカを売るも同然だ。それでミヤギを苛めようとするやつがいるはずがない。  いるはずがない、のだが。  これはどう見ても苛められているだろう。  ミヤギの曖昧な断りに苛立った将官が、とうとう半ば無理やりその腕をつかんだ。急に、そして相当な力で掴まれたのだろう。ミヤギの体がよろめき、足がたたらを踏んだ。転びかけてミヤギの視線が彷徨う。不安の色もあらわに、まるで助けを求めるかのように。  手間がかかるな。 「おい、ミヤギ。何をしている」  お節介だ。『グンマの友達』に対するお節介である。  もつれ合っていた二人が、ぱっとこちらに振り向いた。 「車の用意をしておけと言っただろう。こんなところで何をしている」  キンタローの姿を認めた将官が、舌打ちをしてミヤギの腕を離す。自由になるや否や、ミヤギは小走りにキンタローまで駆け寄った。 「……ごめん……」  謝るな。なんだそのおびえた顔は。  うつむいたまま、キンタローの顔を見ようとしないミヤギに眉をしかめ、視線を上げて将官を一瞥する。荒れた歩調で、立ち去る後ろ姿が見えた。 「……行くぞ」 「……ん……」  ミヤギはやはりキンタローを見ないまま、あごを引いた。  話は車内で聞けばよかろう。 「し、しごと」 「……そんな業務命令は出てないはずだぞ」 「ちが……ちがう。その、むかしの……しごと」  なんだかさっぱり要領を得ない。もともと話上手だとは思ってはいなかったが、これほどまでにボキャブラリーが少なかっただろうか。  ミヤギに運転させるつもりだったのだが、何故かキンタロー自身がハンドルを握っている。ミヤギの手の震えがいつまでたっても止まらなかったためだ。無理やりその目をのぞき込んだら、眼球も微細運動を繰り返していた。しかも、急に近くで顔を見られたせいか、ひぃ、と小さな悲鳴を上げて後退りした。駄目だ、これは。  後部座席に逃げ込もうとするのを、助手席に座らせるだけでひどい苦労だった。 「昔っていつだ」 「ご、ごねん……? ん、や、ろくねん……ななね、ん……」  相当前だ。6〜7年前というと…… 「卒業したばかりだな」 「ん、んだ……あ、いや、え、うん……そ、そう……」  分かった。この変な喋り方の正体が見えた。  こいつ、いつもの方言を一切使っていない。一旦、頭の中で翻訳でもしているのか、つっかえつっかえ吃音交じりの慣れぬ標準語で喋っている。だから、何を言いたいのかさっぱり分からない。 「そんな時期に、何の仕事だ」 「……言えない」 「なんだと?」 「……ま、じっく……さま、が……」  溜め息をついた。 「総帥権限はすべてシンタローが引き継いだ。俺はそのシンタローから、留守中の全権を委任されている。つまり、マジックが口止めしたことは、俺が解除出来る。言え」 「でも……おこる、かも」 「一々怒るか。話の内容より前に、お前のその喋り方に切れそうだがな」  何を考えているのか。今までも何回かは、差し向かって話したことはある。その時は、わざわざこんな喋り方はしていなかった。何故、いまさらこんな真似をするのか、さっぱり分からない。 「……ぃろ……」 「ろ?」 「わ、わい……わいろ?」 「賄賂!?」  何を言い出したかと思えば。突拍子もない台詞に、思わず驚いて大声を上げてしまった。 「ちが、あ……! よ、よぐ分がんね……その、おら、ううん、お、おれ……おら……ほんとうはどういうのか……しらない、から……」  しまった、怯えさせた。さらに喋り方がうっとおしくなる。  ちらりと横目でミヤギを表情を確かめる。ダッシュボードの一点をじっと見つめていた。まるでそこに何かの救いでも求めるかのように。 「収賄に関わってたのか、お前」 「ちが……あの……あ……」  必死で何か別の表現がないか探してるのだろう。標準語で。せいぜい悩めばよい。 「おこら、ない……? か?」 「だから。何をだ」 「ぐ……ぐんま、と……こたろ、さま……」  なるほど。 「……なるほど、分かった」  つまり、後継者選びだ。  一族の特徴をほとんど持たないシンタローを次期総帥と認めさせるには、それなりの裏工作があった、ということだ。  当時はまだ乳飲み子だったコタローや、秘石眼の発現に至っていなかったグンマまでかつぎ出して、御家騒動をやらかそうとしたものがいたのだろう。いや、いたのだ。  ミヤギは、それを裏からまとめるための『賄賂』が自分の仕事だった、と言った。つまり…… 「……おかしな仕事をさせてしまったな」 「い、いい……そんなつもり、じゃ、ない……」  ミヤギは人身御供として差し出されたのだ。 「それに……よくある、こと、だった」  再びその横顔を見る。冗談抜きで何かの作り物のような顔だ。……使えるものはなんでも使うあの人物が、これほど使い勝手が良さそうな道具を放っておくことはないだろう。事実、なかったのだ。実に有用に利用したのだ。 「しかし、昔の話だ。いまさら持ち出されても関係無いだろう。もうとっくに目的は果たされている」  シンタローの就任は、もう一年以上も前だ。 「…………」  戸惑う気配が伝わって来る。たっぷり一分以上かけて、ミヤギは言葉を選び、恐る恐る口を開いた。 「むかし、でもない」  それだけか。 「どういうことだ」 「……こないだ、も」  思いっきりブレーキを踏み込む。タイヤが自分の肉を削られる痛みに悲鳴を上げ、急激なGにミヤギが『ぅぁ』と変な声を漏らした。  この間も。  脱走兵の復任。幹部の大幅な入れ替え。そして、新総帥の就任。 「……誰の命令でだ」  怒気が籠もっていたのかもしれない。怯えたミヤギの声がさらに細くなり、さらにたどたどしくなった。なんとか聞き取れた要点だけをまとめてみる。  誰の命令でもない。自分の独断である。  そう言われた。  この組織とて、一族の一存だけで動いている訳ではない。上層部は一枚岩ではなく、今回の動きに反発する勢力もいる。昔のように自分に便宜を計ってくれるなら、その勢力を抑えるのに協力してやる。悪いようにはしない。それほど酷いこともしない。昔と同じことをもう一度やるだけだ。  すべて、自分の独断である。そうした方がいいと思った。昔からそうで、勝手な判断で動くなと、よくシンタローに叱られたものだ。だが、そうするべきだと思ったし、誰の迷惑にもならないし、事実、独断で動いてよかったと思っている。  ミヤギの言い分は以上だ。  実に愚鈍な言い分である。反対勢力がいなかった訳ではないが、無視してごり押しが出来る数であったし、そいつらに対して工作するにも、もっと他にやりようがある。誰か一人を人身御供に差し出し由とする。マジックならともかく、シンタローが同意するとはとても思えない対策だ。  しかも、家族を除けば、大切な存在の五本の指に入るであろう人間を。 「……誰に」 「わがんね」 「……何人に」 「わがんね」 「何故だ」  数も数えられない訳ではなかろうに。 「みて、ない…ときが……めかくし……されて、た……とき、が……」  溜め息をついたつもりだった。実際、口から吐き出されたのは、有り余る怒気が排熱されたかのような炎の息だった。  つまり、先程の手や眼球の震えは、その時の恐怖感のフラッシュバックだ。視界を、そして恐らく手足の自由も奪われ、何人もの男に輪姦された恐怖が甦ったのだろう。  あの将官、実直な男だと思っていたが、評価を変えた方がいいかもしれない。 「何回、あった」 「……え、と……」 「昔のことはいい。『帰ってきてから』何回あった」  おろおろと、必死で指折り数えている。 「たいいん、した、あと……三回くらい……」  まあ、そんなものだろう。一回だけならあれほど執着されることはないだろうし、多くに渡れば…… 「そのあとは……おぼえて、ない。かぞえて……ない……」  つまり、覚えているのは三回で、それ以降は数え切れない。 「……何故、今まで言わなかった!」  思わず大声が出た。ミヤギが身を庇うように背を丸める。お前のために怒ってやっているというのに、なんだその態度は。 「トットリは! お前のナイト気取りじゃなかったのか!」 「……トットリは、しってるけど……なんも言わねえべ」  何故だ。 「おらが、いやだって、いってない、から」  一瞬天を仰いだ。そして、地を見つめる。なるほど。例え輪姦されるような境遇であっても、それが本人の意思選択による結果なら、口出しはできない。いかにも『犬』の思考回路だ。 「しんたろ、には……ばれて、ね……ない、と、おもう……だって……」 「分かった、もういい」  言わずと分かる。シンタローは、基本的に自分に都合のいいようにしか物事を見ない。シンタローの目の前でさえにこにことしていれば、裏で何をやってようが知りたいとすら思わないだろう。 「困るんだ、そういうことは」  声の根が震えているが、おおむね冷静に聞こえるであろう。ゆっくりと噛んで含めるように、言葉を紡ぐ。 「そのような真似は、困る。収賄が公然事実となったら、指令系統に支障が出る。緊急手段の必要悪としてならばともかく……日常化されるのは困る」  奇麗事でもなんでもなく、正直な意見だ。収賄は戦略的に使われるからこそ効果を発揮するのであって、日常的な便宜供与のように使われたら、いざと言う時に困る。  自分の身体が収賄に値する価値があると自覚しているなら、なおさらだ。軽率な行動はやめてほしい。 「……分かったか?」 「……わか、った……」  こくりと小さく頷く。素直でいいことだ。 「その……わるかった、はんせ……して……」 「怒ってる訳じゃあない。結果としてはいい方に転がってるんだ。ただ、独断で行われたのが困るというだけで……」 「しん、しんたろ、には……あの……」 「言わない。言ったってどうにもならないだろう。別に犯人捜しをする気もない。お前がきっちり対応してくれればいい話だ」 「わか、た……ありがとう……」 「……礼を言われる事でもないんだがな」  そこまで話して、ようやくキンタローは車のギアに触れることが出来た。今日も泊まって行くのかと思ったが、宿舎で降ろせと言うミヤギの言葉に従い、士官宿舎の入り口に寄せる。  車から降りたミヤギは、手を振る訳でもなく、別れの挨拶をする訳でもなく、小さく頭だけ下げるとそそくさと小走りに立ち去ってしまった。再発進したバックミラーには、もう姿も見えない。  妙な感じだった。あんなにしおらしいというか、おとなしいミヤギを見たのは初めてだった。借りてきた猫というより、怯えた小動物のような振る舞いだ。  そんなに怯えられるような顔をしていただろうか。  不機嫌がすぐ顔に出るのは直した方がいいと言われ、気をつけていたつもりだったが、配慮が足りなかったかもしれない。それでも、あれほどまでに怯えられる覚えはないのだが。  数日後だった。  研究棟ではなく、本部の自室で戦略図と睨み合いをしていた時だ。ノックの音がした。 「……どうした」 「これ。スンタローから」  ミヤギが自分の携帯電話を持って立っていた。液晶画面には保留中の文字が点滅している。シンタローの側近四人の個人回線には、それぞれ別系統のセキュリティが組まれている。時と場合によっては、本来の暗号回線よりも信頼度が高い。  ミヤギがはキンタローに携帯電話を手渡し、廊下のソファを指さすと早々にドアを閉めた。外で待ってるから、電話が終わったら渡せ、ということなのだろう。  会話もない辺り、まだ怯えられていることが分かる。キンタローは溜め息というほどではない小さな息を吐いて、保留解除を押し、携帯電話を耳に当てる。 「もしもし?」 『よ。元気か?』  ノリが軽い。順調でトラブルがない、ということだろう。 「なんの用だ」 『大したことじゃねえんだけどな』  実際大したことじゃなかった。半分以上世間話だ。メインの用件は、会談での懸案事項を下調べしておいてくれ、ということだけだ。わざわざミヤギの回線を使ったのは、盗聴の動きが活発なのでそれを避けるためと、ミヤギに用があったついでに話しておこうというだけらしい。 「……仲がいいな」 『仲いいぞ? 俺たちラブラブだからな』  自分で言うな。 「俺は嫌われているようだがな」 『ああ、そうなんだよな』  ……なんだと? 『嫌われてるよな、お前』 「何故そんなことが分かる。そう言ってたのか」 『見てりゃ分かるよ。あいつ、お前と二人きりになりたがらねえもん』 「嫌われるようなことをした覚えはない」 『してるって。お前、俺とどつきあってたじゃねえか』  つまり……ミヤギの中ではいまだ自分は『敵対者』なのだ。 「和解したじゃないか」 『身内ではな。公式じゃ、お前、行方不明だったのが見つかったことになってるしな。でも、あいつらにゃ通用しねえよ。あいつらにお前を許容する理由、ねえからなあ』  ない。確かに。謝罪をしたこともないし、自分がいることがミヤギたちの有利になったこともない。  いや、むしろ自分がシンタローの側近位置に着いたことで、ミヤギたちの出世が頭打ちになったのだ。本来、今の自分がいる位置はあいつらの誰かのポジションだったはずだ。 『気付いてたと思ってたけどな。ま、あいつらも上を立てることくらいは心得てるから、何も言わねえだろうけど、あんまお前のこと気に入ってないと思うぞ。気をつけとけよ』 「どうやってだ」 『それくらい自分で考えな、ガキじゃねえんだから』  ミヤギに代わってくれ。液晶の通話時間表示は手渡された時点で三十分を過ぎていたはずだが、まだ喋ることがあるのか。ドアを開け、廊下をのぞき込むと、所在なさげにソファに座っているミヤギがいた。キンタローの顔を認めて、一瞬眉をひそめた。 「代われ、と」  そう携帯電話を差し出すや否や、弾かれたように立ち上がったミヤギは素早く電話を手に取り、耳に当てた。 「シンタロ? うん、うん……ん、分がってる。でな、あの資料だけどな……」  声が違う。弾むような瑞々しい声色。会話から推測するに、コージとも入れ替わりつつ話しているらしい。自分と喋っていたときは、近くにいるなどと一言も言っていなかったが。  半分談笑交じりだ。過去の思い出話に内容が飛ぶこともある。自分とて、彼らとの日々を覚えていない訳ではないが、思い出話をしたことは一度もない。一度も。  自分は彼らに認められていないのだ。『シンタロー』としての価値を、認められていない。  彼らにとっては、未だ自分は『簒奪者』なのだ。  ようやく電話が終わった。通話を切り顔を上げたミヤギは、キンタローが未だ自分を見ていることに気付き、再びわずかに眉をひそめた。  なるほど。あのおかしな喋り方の正体が分かった。あれは警戒の印だ。『敵対者』に弱みを握られ、拿捕された囚人の態度だったのだ。知らず知らずに眉間に皺が寄っていた。 「……F9号作戦の資料をまとめておけだって?」 「……んだ」  会話を盗み聞きされたことに対する不満を、一切隠していない表情だ。 「四年前の任務だな。確かに、今回の作戦地域と重なるか」 「そっだな。役に立つこともあっかも知れねえから……作戦参加者がまとめたほうがいいしな」  そうだ。あの作戦の担当部隊は当時シンタローが率いていた特務小隊だった。 「そんじゃ、オラ、もう行ぐ……」 「あれは『俺』も参加していた」  ミヤギの目がぐっと見開き、眉がひん曲がる。何を言ってるんだ、こいつ。そう言いたげな表情。 「手伝おうか?」 「……いい」 「遠慮しなくていい。ちょうど一段落したところで……」 「邪魔すんな」  邪魔だ。お前は不必要だ。お前はいらない。  お前など、誰も  反射的に手が動いていた。辛うじて拳を握るのはこらえた。  襟首を掴んでそのまま壁に押し付ける。喉を締めようとしたが、それを遮る形で手首を掴まれた。いい反応だ。普段の間の抜けた態度とは大違いだ。力任せに体ごと壁に押し付けると、苦しげに、ぐぅと呻いた。  それでも、その目は自分に屈しない。吊り上がった眉の下から、鋭い瞳がまっすぐキンタローを睨みつける。 「……何故、そんな目で俺を見る」  そんな目は、ほかの奴らにはしないだろう。 「俺に何か言いたいでもあるのか」  いつもはバカみたいにへらへら笑っているくせに。あの嫌われ者すら、お前に笑顔を向けられているというのに。 「俺が気に入らないなら、はっきりと言え!」  何故、自分にだけは、笑ってくれない。 「うるせえ。嫌いだ、おめえなんか」  涙の代わりに拳が出た。  身動きが取れぬ状態でまともに食らったパンチに、ミヤギが崩れ落ちる。その頭を床に押し付け、馬乗りになろうとしたところを、下から蹴り上げられた。胸に真っすぐ入ったそれにむせる。  一切手加減のない蹴りだった。完全に『敵』に対する動きだった。涙ににじんだ視界に、その姿が映る。鋭い視線、怒りに燃える瞳。揺れる頭をかばいつつ、滑るようにキンタローの体の下から抜け出す動きは、しなやかな獣のようだった。  きっとこのガンマ団に、彼にこのような蹴りを食らったものはいない。これほどの早さで逃げ出そうとされるものもいない。  自分をレイプしようとする相手にすら、愛想笑いを浮かべていた。彼をまるで深窓の姫君かのように扱うあの男は、彼のこのような姿を見て見ぬふりしているのだろう。  この場所で、この小さな世界で、彼に敵意を向けられているのは、自分だけだ。  ミヤギがドアに手をかけた瞬間、ポケット内のリモコンのスイッチを押した。緊急ロックがかかり、ミヤギの体に電気ショックが走る。 「ぐっ……!?」  弾き飛ばされた体が、無様に床に転がる。這いつくばったまま、小さなうめき声を上げてもがいている。手足が痙攣して、起き上がれないのだろう。  感電死するほどではないが、普通の人間なら失神は免れないレベルだ。立てないにしろ、意識を保っていることは称賛に値する。伊達に彼もガンマ団総帥の側近なのではない。 「……苦しいか?」  胸のつかえを飲み込み、ミヤギの顔を見下ろす位置に立つ。 「妙な抵抗をするからだ。命があるだけ有り難く思え」  そうだ。自分がその気になれば、彼を殺すことなど簡単なのだ。それが分からぬ訳でもないだろうに。 「俺に敵意を見せるな。反乱分子とみなす」  うつ伏せに倒れたままのミヤギの顔は見えない。小さく痙攣し、もがいているだけだ。 「俺は、総帥の全権委任を受けている。俺の言葉は総帥の言葉であり、俺の行動は総帥の行動だ。分かっているのか?」  金糸に包まれた頭蓋に、爪先をかける。 「俺を、シンタローだと思え」  そのまま、サッカーボールを転がるように爪先で蹴る。ミヤギの顔が、ゴロリと上を向いた。  その目は未だ変わる事なく、燃えるような敵意に満たされていた。 「……その目で俺を見るな!」  反射的にその頭を蹴り飛ばした。ミヤギは悲鳴も上げず床を転がり、背中を調度品に打ち付けた瞬間にだけ、小さなうめきを漏らした。  何故だ。あれだけ脅したのに、何故従わない。  シンタローには、従順な子犬のように、親を亡くした子猫のようにすがりつくくせに、何故自分に従わない。自分は、シンタローと同じはずなのに。  手足を投げ出して倒れるミヤギの姿は、力無くかよわく、ある意味扇情的にも見えた。  ワイシャツの襟に手をかける。そのまま、思いっきり引きちぎった。 「……ひっ、う!?」  初めてその目に怯えめいたものが浮かんだ。しかし、それは一瞬で塗り替えられた。 「何のつもりだ!?」  肩を押さえ付け、上着をはぎとる。 「こないだのことで、弱みでも握ったつもりになってんでねえだろうな!?」  まだショックが抜けていない手足で必死に抵抗する姿は、滑稽ですらある。 「誰が好き好んであんなことすっと思ってんだべ! 勘違いすんでねえぞ!」  頬を一発張り飛ばした。それでも抵抗をやめない。それでも瞳の敵意は消えない。組み敷かれながらも、真っすぐにキンタローを睨んでいた。 「シンタローのためだ! シンタローさんのため以外で、誰があんなことすっか!!」  うるさい! ガリッ!  キンタローの左手に、がっちりとミヤギの犬歯が刺さっていた。おもわず口を押さえようと伸びた手に、ミヤギは何の躊躇いもなく噛み付いてきた。  ギリギリと白い歯が食い込む。口の端からは狼を思わせる、ふーっ、ふーっという荒い息が漏れていた。  食らいつきながらも、その目はキンタローを睨むことをやめない。真っすぐ、燃え上がるような、純粋な瞳で、  お前なんか、嫌いだ。 「……痛い」  血が出ている。指先がしびれている。 「やめてくれ。痛い」  ミヤギの顎に込められた力は、一切揺るがない。 「悪かった。謝る。もうしない。だから、離してくれ」  痛い。つらい。悲しい。 「ふっ……ぐ……」  嗚咽をこらえることができなかった。 「ひっく……ひっ……うぅ……」  キンタローが泣き出すのを見て、ようやくミヤギが顎をゆるめた。解放された手を、胸元にかばう。痛い。痛い。 「……なんでだ」  のしかかっていたキンタローの肩を不機嫌そうに押しのけ、のろのろとミヤギが起き上がる。まだ痺れが抜けないのだろう、自分で自分の体を引きずるような動きだ。 「なんで、俺を嫌うんだ」  血が混じったツバを床に吐き捨て、打ち捨てられていた上着を拾い、袖を通す。代わりに、シャツの残骸と共に首に纏わり付いてたネクタイを投げ捨てた。 「なんで、俺に優しくしてくれないんだ」  壁に手をつきながら立ち上がり、ドアロックを自分のIDカードで解除する。そのままミヤギは部屋を出て行った。  その間、ミヤギの目がキンタローを見ることはなかった。背を丸め、すすり泣いていた彼には伺い知れぬことだったが。 「どしたの、その手?」  包帯に巻かれたキンタローの手を見て、グンマが目を丸くする。 「……噛まれた」 「何に?」 「……動物に」  グンマがため息をつく。実は、グンマは軽いケガには冷たい。工場に入り浸っているせいだろう。小さなケガは本人の不注意のせいであるので同情には値しない、という価値観らしい。 「変なかまい方したんでしょ? ああいうのは考えが読めないんだから、下手に手を出さないの! 窮鼠猫を噛むっていうでしょ!」 「……すまない」  そして、動物も嫌いだ。かなり嫌いだ。 「何の動物?」 「何、て……」 「犬? 猫? さすがに馬や牛じゃないだろうけれど」  敷地内の自然公園には、結構な種類の動物が生息しているが、そこまでバラエティ豊かではない。 「シンタローに……懐いている……」  なんか飼ってたっけ? グンマが頭をひねっている。 「他にも、懐いてて……みんなに可愛がられていて……白い、きれいな……」 「本部の方じゃ、そんなの飼ってんの?」 「……だから……俺も……」  同じように、受け入れてくれるものだと。 「つまり、仲良くしようとしたら、振られて噛み付かれたんだね?」  仲良くしたかった。ただ普通に、笑ってくれればそれでよかった。 「……あーもー。キンちゃん、それくらいで泣かないのー。ほら、こっち来て!」  シンタローやトットリやアラシヤマや、他の誰にでもそうであるように、自分を受け入れてほしかった。自分に優しくしてほしかった。 「俺だけ……駄目だったんだ……」  自分の声が半べそ声になっていた。情けない。ほとほと情けない。 「ほかは……みんな……なのに……」  自分にも優しくしてもらいたかった。シンタローのために身を削るように、シンタローに明るく話しかけるように、シンタローに寄り添うように、自分にも優しくしてもらいたかった。あんなに優しくしてもらえるシンタローが羨ましかった。 「俺だけ……嫌われたんだ……」  嫌いだと言われた。邪魔だと言われた。お前などいらないと言われた。嫌われた。嫌われた。 「……ショックだった?」  左手にグンマの手が重なる。わずかに傷がうずいた。 「嫌い! って言われて、ショックだった?」  頷く。びっくりした。地獄に落ちるような悲しみだった。 「でもね、それは仕方ないから。キンちゃんだけじゃないよ、他にもその子に嫌われてる人はいるよ。キンちゃんが悪いわけじゃないから」  ゆっくりとグンマの暖かい手がキンタローの手を撫でる。ゆっくり、何度も、優しく、柔らかく。 「みーんな大好きってわけにはいかないよ。みんな同じだけ好きだったら、みんな同じだけ嫌いだってことと同じだもんね。そんなことあるわけないよね。だから仕方ないよ。悲しいけど、仕方ないって」  何故、自分は、他の優しい手を求めたのだろうか。何故、求めてしまったのだろうか。 「びっくりしたよね、痛かったよね。大丈夫だよ、キンちゃんは悪くないから。次はさ、もう少し優しくしてあげるようにしなよ。そしたらその子も、もうちょっとキンちゃんを受け入れてくれるかもよ?」  ね? と、グンマが小首をかしげる。頷くと、いい子いい子と頭を撫でられた。  明日になったら、ちゃんと謝ろうと思った。