ユディトの恋

 最初に目がおかしくなった。あの人から目が離れない。どんなに遠くてもあの人の姿だけははっきりと見えた。ふと気付けば、いつも視界の中央にあの人がいた。
 次におかしくなったのは心臓。あの人が側にいるだけで、鼓動が早くなり過ぎて苦しくなる。声でもかけられようものなら、肋骨を折りそうなくらい大きく跳ねる。不整脈を起こしたように心臓が反乱を起こして、鼓動で流し込まれた血液に顔中の毛細血管が広がって、なのに脳は酸欠を起こしたようにくらくらする。
 自分はおかしいのだ、何かが壊れたのだ。薬のせいかもしれない、副作用があると言ってたのはこれかもしれない。胸が苦しくて、頭痛がして、わけも無く涙が出て、一日あの人の顔が見れないと鬱症状が出て、ほんのちょっとでも顔が見れると躁症状になって、どう考えてもまともじゃなかった。
 抱き締められてやっと気付いた。体中の力が抜けていく。関節が蕩けていく。体中の細胞が開いていく。薬を飲んだ時よりひどかった。自分が自分じゃなくなった。もしも今首を締められたら、何も抵抗できずそのまま縊り殺されてしまうだろう。
 体も、脳も、心も、すべてがどろどろに溶けて崩れていく。それだけで気持ち良かった。触れられた場所から失神するような甘い痛みが全身を走って、恥ずかしいほど達し続けた。
 好きなのだ。
 自分はこの人が好きなのだ。
 狂った自分の体に翻弄されながら、脳の片隅でそう思った。


 初めて褥を共にした相手は父の囲われだった。
 とは言っても、男ではない。女だ。父が普段寝所に連れ込むのは、自分とそう年が変わらない若い士官が多かったが、女性も囲っていた。
 だが、愛人ではない。愛人というよりは駒だ。女好きな将官の相手をさせてやったり、会合の場に引き出して色仕掛けめいたことをさせたり、そのように使うための駒としての女だった。
 そうではあっても、父の持ち物であることに違いはない。故に押し倒した。女の身と雖も鍛えられた軍人である彼女が、未だ訓練生でもない少年に易々と組み敷かれるはずはないのだが、彼女は抵抗らしい抵抗をしなかった。ただ、ほんの少し悲しそうな目をした。
 美しい人だった。薄茶の長い髪が爽やかで、聡明で慎ましく、ただ立っているだけでも悠然と微笑んでいるような、そんな人だった。細い銀縁の眼鏡をいつも掛けていて、ベッドに入る前にそれを外す仕草がとても色っぽかったのを覚えている。
 彼女は父と寝ていなかった。まだ母が存命のころだったから、女と寝るのは浮気になるとでも思っていたのかもしれない。しかし、彼女が父に捧げる忠誠は、恋人のそれよりも激しいものだった。全身で恋い焦がれ、全霊で添い遂げようとしているように見えた。決してそれが報われることはないのに、あの男の前で見世物のように扱われる身だというのに、彼女は何よりも父を愛していた。少なくとも、自分にはそう見えた。
「それは違います」
「確かに自分は閣下の持ち物です。道具です。玩具です。しかし、奴隷ではありません。そうではないのです」
「ええ、愛しています。誰よりも、愛しています。しかし、そうではないのです。そうではありません」
 彼女は自分に対しても軍人のしゃべり方を崩さなかった。彼女の愛する閣下の息子と寝ることは、彼女にとっては任務の一環だったのかもしれない。
 つまるところ、自分は最初から振られていたのだ。そのような関係が半年も続いたころ、彼女は父をかばって戦場で撃たれ戦死した。介錯をしたのは父だと言う。
 シンタローの初恋はそれで終わった。


 本来、軍において同性愛というものは、収賄と同じくらい排除するべき要因である。同性愛者の従軍を認めない軍も多いくらいだ。軍とは国家に忠誠を誓うものであり、厳正なシビリアンコントロールの下、正確な機械のように動くべきものである。そこに恋愛感情のような人間の一番湿った部分を持ち込まれては、回るものも回らない。
 しかし、ガンマ団においては、それが堂々と横行するどころか、公然のものとなっている。全ては、団の人員全てが総帥の私兵であることに起因する。
 団員が忠誠を誓うものは、国家でも故郷でも家族でもなく、赤の御旗と総帥のみである。その強大な軍事力を統べるのは一系の一族のみであり、彼らが持つカリスマ性だけが全軍800万を従わせるものだった。
 故に兵は総帥個人を崇めることとなり、そこにあるのは忠誠というよりも思慕に近いものとなる。また、国土もない軍において、故郷とは軍そのものであり、同胞は家族よりも強固な絆で結ばれることとなる。
 そのような状況において、恋愛感情は強力な士気統制となる。人は、恐怖よりも恋慕に盲になる。上官を守るために盾にならぬものはいても、愛人を守るために腹を切るものは大勢いる。
 かといって、奨励されていた訳ではない。痴話喧嘩で命令違反されたのではたまらない。しかし、部隊の副官や先任軍曹に部隊長の愛人を優先的に赴任させる程度は当然のものとなっていた。
 一つの部隊を動かすために有能な隊長が配属され、それに有能な副官がつき、その二人が互いを補い、守り抜き、生き延びるために結ばれる絆は、夫婦の比ではない。
 だからこそ、自分はなんでもした。なんでも、なにもかもをした。まず生き延びねばならなかった、登り詰めねばならなかった、選ばれなければならなかった。あの人と共にいるために、あの人のそばにいるために、あの人と死ぬために。


 臭い。『仕事』のあとはいつもそう思う。なんで人間の臓物というのは、あんなにも臭いのだろう。皮膚を切り開いた瞬間にむわっと立ちのぼってくるあの臭気には、三年近くやってきた今でも慣れない。
 シャワーを浴びた後の自分の体を、くんくんと嗅ぎ回す。どこかに匂いが残ってないだろうか。あのいやらしい臭気が、どこかにこびりついていないだろうか。どれほどしつこく洗い流しても不安が消えず、何度も確かめるように肌を嗅ぐ。
「ミヤギ」
 突然後ろから声をかけられて、びくんと背筋が跳ねた。振り向いて、ようやく自分がシンタローの部屋の前を通りかかっていたことに気付く。
 ドアから、シンタローの不機嫌そうな顔が覗いている。最近のこの人は自分と二人きりの時は、滅多に笑わない。いつもは朗らかに人を引き付けるような笑顔をしているのに、ミヤギと二人だけになると、むっつりと不機嫌な顔になる。何か怒らせるようなことをしただろうかと不安になった時もあったが、最近はただ単にこれが普通のことなのだと納得している。
「大浴場にでも行ってたのか?」
「え、うあ、はい……」
 Tシャツ一枚の軽装にバスタオルを引っ掛けたミヤギの姿を見て、シンタローがまた不機嫌そうに問う。
「頭濡れたまんまじゃ、風邪引くぞ」
「うえ、あ、後で乾かすべ」
 納得はしていてもやはり戸惑う。いきなり怒りだすんじゃないかとどうしてもびくついてしまう。そんな怯えた態度がさらに彼を不機嫌にさせているのかもしれないが。
「入れよ、乾かしてやるから」
「え、え、あ、え……」
 戸惑っている隙に腕を引かれ、部屋の中に連れ込まれた。
 次期総帥特権か、通常の二人部屋よりもはるかに広いシンタローの個室は、いつも整然と片付いている。ベッドの端に腰を下ろし、これまた通常の部屋にはついていない洗面室からドライヤーを持ってきたシンタローに背を向ける。
「お前、体強くないんだから、こういうところに気をつけろよな」
「はあ……すんません……」
「怒ってるわけじゃねえよ」
 じゃあ、なんだろう。ぶっきらぼうな言葉からは、『迷惑をかけるな』というイントネーションしか受け取れない。
「ほら、頭下げろ」
 言われるままに首を前に傾ける。髪を煽る熱風と頭皮をかきまぜるシンタローの固い指先が心地よい。ほう、と息をつくと、体から力が抜ける。
 今日もするんだろうか。
 シンタローの指に身を委ねている自分を自覚するとともに、ふと思った。
 するんだろう。そういうつもりなのだろう。いつもミヤギの都合や意志などおかまいなしに、シンタローはミヤギを組み敷く。
 でも、ミヤギはそれが嫌ではなかった。乱暴で無愛想で、シンタローが何を考えているのかいまだよく分からないが、ミヤギはそれが嫌ではなかった。
「はい、おしまい」
 耳元で鳴っていた轟音が止まる。ぽんと頭を叩かれて、こんなものをいつまでも身につけていたら体を冷やすと、濡れたバスタオルを取り上げられた。
「茶でも飲むか?」
 問いかけに首を振る。喉は渇いてない。
「じゃ、上着貸すから。早く戻れよ」
「え?」
 意外な言葉に思わず声が出る。
「え、って何だよ。そんなかっこでうろついてるのがおかしいんだよ」
「そうでねぐって……あの、スンタローさん、その……」
 しないのか、などと聞けるはずがない。まるで期待していたような、そうされるのが当たり前だと思っているようなはしたないこと。それでもシンタローは、ミヤギの素振りから何か察したらしい。
「だって、おめー、疲れてるじゃんよ」
「ふえ?」
「疲れてるよ、クマ出来てんぞ。顔色悪いしよ。早く帰って寝ろよ」
 不機嫌そうだ。追い出すかのように上着を投げ付けられる。やっぱり何を考えているのか分からない。
「……寝込まれたら、気分よくねえよ」
 なにを考えているか分からないから、いつも不安になる。
「あの、オラならだいじょぶです」
「は? なにが?」
「そんな疲れてねえです。だいじょぶです。そっだら、寝込むとか、そげな……」
「だってお前、こないだ入院したじゃんよ」
「そう、だども、でもあれがら調子よぐって、だから、その……」
「だからじゃねーよ。早く戻れって、風邪引くぞ」
「そうでねぐって……あの、あの……」
 きゅう、と胸が痛くなるのは、怖いからだろうか。
「オラは、スンタローさんに、してもらいたいです」
 不安で、怖くて、怯えてしまうのだ。自分ひとりの頭がおかしくなってるだけだとしたら、どうしよう、と。
「……やっぱ、お前、わけ分かんねえ」
「え!? あ、すんません、その……!」
 もふ。
 なにかと思ったら、上着を頭からかぶせられた。
「責任とらねえからな」
「ふぁい?」
「風邪引いて教官に怒られたって、俺は知らねえからな」
 上着の上から押さえ付けられて、頭が下を向く。暗い布で遮られた狭い視界の隅に、シンタローのつま先が見えた。
「……はい、だいじょぶ、です」


 やっぱり違う。
 何か違うのかはよく分からない。でも、確実に違う。苦しくても痛くても、あの、押し潰されるような苦しさとか、引き裂かれるような痛みなどとは全く違う。甘く、神経をじんわりと侵すような感じがする。
 ああ、嬉しいんだ。
 求められる苦しみが、与えられる痛みが、嬉しくて嬉しくてたまらない。自分がここにいていいと許してもらっているようで、嬉しくてたまらない。
「……痛いか?」
 思わず上げたうめき声に、心配そうに問いかけられる。違う、そうではない。痛いけれど、痛いだけではない。だから、だからもっと。
「もっと、酷く、して、ください」
 途切れ途切れに吐いた言葉は、次の瞬間、声にならぬ悲鳴に変わった。


 ドアから出てきた満面の笑顔は、瞬時にどす黒い落胆の表情に変わった。そうまで分かりやすい反応をすることはあるまい。
「ミヤギな、今日は俺の部屋に泊まらせるから」
「……分かったっちゃ」
 だからなんだよ、その不満げな声は。
「明日の授業も俺の部屋から行かせるから、カバンよこせ」
 返答もなくドアが一旦閉まり、しばらくして、わずかに開かれた透き間から、にゅっとカバンを引っ掻けた腕だけが突き出される。
「……じゃあな。おやすみ」
「おやすみだっちゃ。ごゆっくりお楽しむがええが」
 閉まろうとするドアに足を突っ込んで止める。無理やり顔を突っ込み、不機嫌を通り越して怒りかけているトットリの顔を至近距離で睨みつける。
「あのさ、俺、お前に何か悪いことした?」
「……別に」
「だよな、してないよな。じゃあ、なんでそんな対応されなきゃなんねえの? 嫌いか、俺のこと」
「…………」
 そこでの無言は、認めた、ということだろう。
「言いたいことあったら、はっきり言ってくんねえと困るんだけど」
「…………」
 どこまでもだんまりを決め込むつもりらしい。俯いて、不貞腐れている。
「あのさ、あんまり俺を怒らせるとさ……ミヤギちゃん、いじめちゃうよ?」
 きっ、と、面をあげてシンタローを睨みつける。いつもの幼い表情とは全く違う、きつい目だった。
「出来んじゃん、そういう顔。なんでミヤギちゃんの前でそれが出来ないのかね」
 他の誰かのもとに行くのが嫌だと。自分だけのものでいてほしいと、なぜ言えない。
「ミヤギくんが……」
「ミヤギちゃんが?」
「ミヤギくんが、あんたのこと、好きだから」
 心底悔しそうに声を絞り出す。口に出すのも嫌だというふうに。
「それは認めるんだ?」
「……僕は、ミヤギくんが幸せなら、それでええ……」
「へー、ふーん、そーぉ」
「だから、だからもしも、あんたがミヤギくんを泣かすなら……」
「勝手に決めつけんなよ!」
 思わず声が荒くなった。トットリの目に、わずかに怯えが混じったように見えた。
「俺はそんなことはしねえ、そんな風にはならねえ。嫉妬すんだけならともかく、勝手に俺を悪者にすんじゃねえよ。お前が負けてんのはな、俺のせいじゃねえ、お前のせいだ!」
 トットリのその目に浮かんでいるのは、怒りと嫉妬と怯えだけではなかった。悔しさや無力感や、憎しみや焦り、人間の負の感情が渦巻いてるような目だった。シンタローは、その目を正面から見据えた。それに立ち向かい、打ち倒さねばならぬという奇妙な使命感があった。
「人のせいにしてえなら、黙って端っこから恨んどけ。でしゃばってくんな!」
 乱暴にドアを閉める。ドアの向こうで彼が泣くのか暴れるのか、それは知ったことではない。それは自分のせいではない、あいつ自身の責任だ。自分の力と欲望と怒りをコントロールできない、彼の責任だ。
 何か物音が聞こえる前に、足早に部屋の前を去る。
 自分は、そうならない。俺は、ああならない。そんなことはしない、したくない。
 自分を慕ってくる人間を悲しませるなど、切り捨てるなど、そんなことはしない。
 それは卑劣な人間がやることだ。他人を利用し、弄び、飽きた玩具を投げ捨てる、人の心をもたぬ人間がやることだ。
 自分はそうならない。そんな人間にはならない。
 父のようにはならない。彼女を利用し、弄び、最後は自らの手で殺した、あんな男にはなりたくない。


 頭がぼーっとする。いつの間にか額に濡れタオルが置かれていた。絞りが中途半端だったのか、耳元に垂れてくる水滴がくすぐったい。遠くでドアが開く音がする。
「起きたか」
 遠くなかった。せいぜい五歩の距離だった。逆光で黒く塗りつぶされた顔を見上げる。
「……はい」
「すげえ熱出てんだもん、お前。トットリには、俺の部屋で休ませとくって言ったから、ゆっくり寝ておけ」
「はい……すんません……」
「俺のせいじゃねえからな。さっきも言ったけど。お前がしてくれっていったんだからな」
 黒い顔が、ほんのわずかに拗ねた表情を浮かべる。
「はい……ありがとうございます……」
「……礼を言われても困るんだけどよ」
 戸惑ったような答えに、口元が緩む。
 恐らく熱は、先程飲んだ解毒剤の影響だ。『薬』が抜け切らぬうちに体が高ぶったので、過剰に反応しているのだろう。心配されなくても、翌朝には元に戻る。
 でも、心配してもらったことがうれしい。自分のためにタオルを濡らして、ベッドを譲ってくれたことがうれしい。
「ありがとございます……すんたろーさん」
「いいから。寝とけ、さっさと。俺はあっちのソファにいるから、何かあったら呼べな」
「え、あ……」
 一緒に寝ないのか。
「やーだ。我慢できねえから!」
 照れを噛み潰したようなシンタローの顔に、くすりと笑う。


 ********


 最初はそんなつもりじゃなかった。あの瞬間まで、そんなつもりではなかったのだ。
 上級生がミヤギを狙っている。そういう噂を聞き付けた。予想より遅かったと言っていい。入学初日にレイプされたっておかしくないようなタイプだ。今まで持ちこたえたのは、自分やトットリたちの存在だろう。
 それが今になって噂が持ち上がるということは、相手はそれなりに本気だということだ。
 大っぴらに話すようなことじゃない。月一の倉庫整理当番。級長の権限を利用して、ミヤギと自分だけにした。トットリやコージの耳に入れたら、喧嘩沙汰になり兼ねない。
 忠告だけしてやるつもりだった。気をつけろと。お前のその無駄に愛らしい顔や生白い肌は、変な輩をおびき寄せるのには十分なんだぞと。
 整った顔、白い肌。ようやくまともに身体ができてきたのか、棒のようだった手足には、しなやかな肉がついていた。
 ……今忠告したとて、こいつを狙う輩がいなくなるということはないだろう。いくら注意していても、上級生に力づくでこられたらそれまでだ。
 整理棚の番号を確かめているミヤギの横顔を見る。ぽけっとした白痴めいた表情。ゆるく開いた口元が妙になまめかしく見えた。
 ……こいつを守ってやりたいなら、もっと違う方法を取らなければいけない。もっと根本的で、分かりやすい……
 視線に気づいたのか、こちらを振り向く。照れたような、はにかんだ笑みを浮かべる。
 確信した。
 こいつは自分を拒否しない。
 腕を掴んで引き寄せた。何が起きているのか分からない、ぽかんとした表情。そっと顔を包んでこちらを向かせるつもりだったが、そうは行かなかった。短い柔らかな髪を引っつかむようにして強引に手繰り寄せ、噛み付くように唇を吸った。
 腹の奥で、なにがぐるぐると渦巻いていた。熱く、黒く、飢えた、押さえ込めばそれだけで気が狂いそうになる化け物がそこにいた。
 そいつが脳を急き立てる。
 早く食らえと。今すぐ食らってしまえと。
 早く。
 早く。
 早く、早く、早く! どす黒い焦燥感が脳から思考能力を奪って行く。既に自分の中枢は腹の底の化け物に奪われていた。
 なんと言ったのか、よく覚えていない。あれは脳で考えた言葉ではないから。腹の化け物が、俺の口を借りて言った言葉だから。
 でも、ミヤギの答えは覚えている。
 いやじゃない。いやじゃない。
 シンタローさんなら、いやじゃない。
 身体の一部分がショートした。
 のしかかって、体をまさぐる。手が汗で滑って、バッグルが外せない。人がくる。カギがかけられない。自分の部屋より近いから。それだけの理由でミヤギとトットリの部屋に飛び込んだ。ロックした上にチェーンをかけ、閂まで下ろした。ベッドの前にへたりこんだミヤギ。すでにレイプされた後のような、乱れた服と自失の顔。ゆっくりこちらを見上げる。何かを言いかけて唇を開いた。
 何も聞きたくなかった。何か聞いたら、怖くて、もう二度とこいつの顔を見れないと思った。突き飛ばすように二段ベッドの下の段に押し込んだ。見るものもいないというのにカーテンまで締める。一瞬で二人分の体温にむせ返る棺桶のような密室。吐息の一つ一つが湿度と温度を上げて行く。
 もう何も分からなくなっていた。
 貪りあった。唇を吸い、舌を絡め、息ができなくなるほど深く口づけた。肌を遮る服を脱ぐ。なんでこんな物が邪魔をするのか異様に苛立った。一瞬も離れたくなかった、1センチでも深くつながりたかった。熱い肌。細い手首。酸素が足りなくて目眩がする。目眩はどんどん深くなり、脳に達し、視界がどんどん狭くなって、まるで世界が歪んで行くような、もう、もう何も分からなく、






 射精がすめば、後はどんどん頭が冷めていくばかりだった。
 暗いのは、ベッドのカーテンを締め切っているから。臭いのは、汗をかいたから。暑いのは、二人分の体温がこもっているから。息が上がっているのは、セックスしたから。俺の下で寝っ転がってるミヤギが馬鹿みたいな顔で惚けているのは、こいつが先にイったのに俺が強引に続けたから。
 尻だけでイくとは思わなかった。初めてのはずなのに。痛がりはしたけれど。
 ミヤギの目に正気が戻ってきた。俺の視線に気付く。そのまま、じーっと、ぽけーっと俺の目を見てる。
 何を言おう。どうしよう。どうしたらいいんだろう。おろおろしているなどと悟られたくない。
 とりあえず、一発ポカリと叩いてみた。
 いてっ、と声を上げて、頭をさする。こちらを見上げて、えへらと笑った。

 敢えて言うなら。
 俺はこの時、こいつに恋をした。
 それで全てが許された。

 そう思っていた。


 *******


 学内メールで次の『仕事』の予定が届いた。一時期はかなり減っていたのに、最近になってまた増えた。別に構わない。あれは仕事だから。
 手首に痣が残っている。あの気色悪い肉塊どもがつけたものではない。シンタローが手加減を誤ってつけたものだ。こんなに強く握り締めるほど、自分を抱き締めてくれた。この痣を見るたびに、あの甘い痛みと甘い苦しさが蘇る。
 だから平気。見も知らぬ男のペニスをなめるのも、生理的嫌悪感を催す醜怪な老人に痴態を振る舞ってやるのも、何もかも平気。
 あんなのはセックスじゃない。
 本当のセックスはシンタローさんがしてくれるみたいなもの。熱くて苦しくて、嬉しくて嬉しくてたまらないもの。
 だから平気。
 あれは仕事。
 自分の内臓で遊ばせてやるのも、相手の内臓を引きずり出すのも全部仕事。将来、シンタローさんの役に立つための仕事。
 シンタローさんの味方をしてくれる人をもてなして、シンタローさんの邪魔をする奴をバラバラにする。それを今からもやっておく、これからもずっとやっていく、そういう仕事。
 大丈夫。自分には大切なものがある。たくさんの友達、唯一無二の憧れの人。好きな人。大好きな人。だから怖くない。何も怖くはない。勇気をくれる。喜びをくれる。生きる意味をくれる。
 何一つ、恐れるものなどあるものか。


 旧東棟はこのあいだ取り壊しが決まった。立ち入り禁止のロープをまたぎ、古ぼけてリノニウムタイルがところどころ剥がれた階段を上る。三階西トイレ。以前は真夜中の病室なんて指定もあった。いまさら驚かない。
 洗面台に寄りかかって、相手を待つ。遅い。どんなやつなのだろう。
 いつもは相手の詳細が書類で確認できるのだが今回はなかった。昨日メールが届いて今日という急なスケジュールだったし、用意できなかったのかもしれない。いつもなら『仕事』のある日はどこからともなく高松が現れて、身体のチェックや薬の投与を行うのに、それもなかった。
 ……おかしいな。大抵、監視役が一人や二人、先に来ているはずなのに。誰もいないなんて。どうしたんだろう。
 がこん。
 入り口のドアが開いた。そちらを振り返る。
「うわ、マジで来てるよ」
 ……あれ? なんでクラスメイトや先輩がここに?


 確かに自分は、あいつが好きじゃない。どちらかと言えば嫌いだ。あのへらへらした顔を見るとぶん殴りたくなる。
 だからと言って、こういう卑劣な真似で憂さ晴らしするほど嫌いな訳じゃない。しかも自分が主催ではないなんて、つまらないにもほどがある。主催する気もないけれど。
 アラシヤマは授業中に回されて来た手紙を、もう一度見直した。23時より開催。南無阿弥陀仏。今頃、小汚いトイレの床に押さえ付けられてるころだろう。
 供養のつもりで一回拝んで、ごみ箱に捨てようとした。
 その時たまたま通りかかったクラスメイトにそれを渡したのは、仏心という他はないだろう。たまには善行を積むこともあるのだ、自分も。


 ガンガンガンガンッ!
 ノックという範疇を越えたその音に、シンタローはげっそりしながら、一度脱いだ訓練服の上着に腕を通した。早めに寝るつもりだったのに。もう風呂だって入った。
「はいはい、起きてるよー」
 ドアを開けて一瞬びびる。目に入ってきたのが人の顔でなく、訓練服の胸章だったからだ。
「シンタロー!」
「……なんだ、コージか」
 学寮にここまででかい奴は一人しかいない。年上のクラスメイトの顔を見上げる。
「なんだよ、課題は見せねえぞ」
「そんなんじゃあらせんわ! これ見ろ!」
 顔の前に一枚の紙が突き付けられる。学寮の売店で売ってるGマーク入りのノートの切れっ端。汚い字で何やら書き付けてある。反射的に受け取って目を通す。
「……なんだコレ」
「見たまんまじゃろが!」
 確かに。見たまんまだ。なんだよ、レイプパーティってさ。そのセンスはどうなんだよ。
「われ、先にいっとれ! わしはトットリ呼びに……」
「待て。呼ぶな。流血沙汰になる」
 あいつなら絶対刃物くらいは持ち出す。どんな理由があれ、学生間のリンチは懲罰房ものだ。
「そんじゃ、管理官を……!」
「間にあわねえよ……!」
 シンタローは部屋を飛び出した。23時10分。まだ間に合うかもしれない。
 まだ、あいつを助けられるかもしれない。


――マジでお前、ウリなんかやってんの?
――あのメールで来たってことはさ、マジなんだろ。うわ、すげえ。そんな風に見えねえのにさあ。

 なんで。どうして。
 絶対秘密だと。秘密の任務だと。そう言われてたのに。

――ビデオとかさー、見たよ。すげーエロいことしてんのな。
――俺らにもやってよー。代わりに秘密にしとくからさー。

 いやだ。なんで。
 あれは任務で、仕事で、だから、だからこそ。
 こんな、こんなのは。

――ふざけんじゃねえぞ、てめえ。坊ちゃんには股開いても、俺らには駄目だってか。
――超幻滅。可愛いなーと思ってたミヤギちゃんが、坊ちゃんに媚売って、ウリまでやってたなんてさー。

 違う。違う。そんなんじゃない。
 お前らは誤解をしている。あれはそうじゃなくて。

――じゃあいいよ。あのビデオ、学校中にばらまいてやるよ。
――愛しのシンタローさんはショックだろーなー。嫌われちゃうかもなー。

 違う。そんなことをしても意味がない。
 お前たちは何がしたいんだ。

――ムカつくんだよ。馬鹿のくせに、媚売って、上に尻差し出して、愛人の座獲得して生き残ろうってか?
――お前の将来設計、全部ぶっ壊してやるよ。ここにいられなくしてやる。

 ……敵だ。
 こいつらは敵だ。
 自分を、自分を潰そうとしている。

――逃げんなよ! おらぁ!
――そっち押さえろ!

 やめろ。離せ。敵だ。こいつらは敵だ。
 こいつらに負けたら、こいつらがいたら、

 シンタローさんと一緒にいれなくなる。

 無我夢中だった。渾身の力で暴れた。のしかかってきた奴を思いっきり蹴り飛ばし、次の瞬間、左のこめかみを踏み付けられた。

 敵だ。敵だ。こいつらは敵だ!
 いなくなれ。あっちいけ。
 お前らなんか、お前らなんか消えてしまえ!

 無我夢中だった。左手は完全に押さえ込まれた。残った右手で、一番年かさのやつの胸を押し返す。

 消えろ。
 それだけを思った。


 旧東棟三階西トイレは中から施錠されていた。とは言っても結局はオンボロの木造ドアだ。コージの体当たり一つで、あっけなく錆び付いた蝶番は吹き飛んだ。
「ミヤギ!」
 あまりの呆気無さにつんのめったコージの巨体を押しのけ、シンタローは狭いトイレの入り口に体をねじ込んだ。多少の陰惨な光景は覚悟していた。血も流れてるかもしない。ミヤギはひどい有り様になってるかもしれない。それくらいは覚悟していた。
 なんだ、コレ。
 薄汚いトイレの床には、血は一滴も流れてなかった。
 ただ、訓練服が落ちていた。上着から、ベルトから、ズボンからブーツまで。服務規定どおりの訓練服が合計四セット。
 まるで抜け殻のように。それを着ていた人間が、服だけを残して蒸発してしまったかのように。ぺたりと床に、訓練服が四セット落ちていた。
 ミヤギは? 一瞬気づかなかった。三つ並んだ洗面台の下。一番奥のパイプの裏っかわ。かくれんぼをする子供のようにそこにうずくまり、すがりつくように錆付いたパイプを握り締めていた。膝の辺りが吐瀉物で汚れている。また吐いたのか。
「……ミヤギ、大丈夫か?」
 ゆっくりと歩み寄り、側に膝をつく。顔をのぞき込む。青ざめた顔でぶるぶると震えていた。前髪で隠れて目許が見えない。蹴られたのかこめかみに痣があった。上着のボタンは半分以上千切れ飛び、下のTシャツも襟口が引き裂かれていた。
 ただ、それ以上のケガや着衣の乱れはない。
「どうした? なにがあった? 大丈夫か、なんともないか?」
 訳が分からない。このトイレに窓はない。足音に気づいた奴らが、逃げ出した訳じゃないだろう。
「ミヤギ、黙ってちゃわかんねえよ。どうしたんだ? あいつら、どこ行ったんだ」
 俺とコージでぶっ飛ばしてやる。そう言おうとした。
「……シンタロー」
 背後から呼びかけられる。何だ、今話を聞いてるところだ。床の訓練服をゴソゴソいじってたコージを振り返る。
 コージが手元で一着の訓練服を広げた。きっちり首元までボタンがかかった上着。その胸にはっきりと書かれている。この字の持ち主は知っている。こんなきれいな漢字を書ける奴は、教官を含めてこの学校に一人しかいない。
『消』
 ざあっと血の気が引く音がした。脳が急速に状況を理解した。余りにも非現実的なこの状況を、はっきりと理解した。
「あいつらが悪いんだべ!」
 悲鳴を聞いた。悲鳴のような声だった。
「あいつらが、あいつらがオラを追い出すって! 学校さいれなくするって! あいつらが悪いんだべ、あいつらが悪いんだぁ!」
 ミヤギの目は正気を失っていた。余りにも大きな恐怖に押し潰され、恐怖のまま理性を手放した目だった。
「あいつらがオラを追い出すて……ここさいたら駄目だって……そっだらことなったら……オラ、どこにもいれなくなる……どこにも、どこにもいれなくなっちまう……」
 錆び付いた排水パイプを握り締める手に、さらなる力が籠もる。爪はとっくに真っ白で、錆び付き毛羽だった金属で皮膚がざりざりと削れる音が聞こえるようだった。
「シンタローさんと、シンタローさんと一緒にいれなくなる……ここさいれなくなったら、オラ、オラもう、シンタローさんと……」
「ミヤギ、お前……!」
 だから、こいつらを消し去ったのか。こいつらを殺したのか。
「オラ、スンタローさんがいればいい!」
 一際大きな叫びだった。心の底から噴き出したような、必死の訴えだった。
「こんなやつら、こんなやつらいらねえ! 消えちまえばいいんだべ! オラ、スンタローさんがいればいい! ほかの奴らなんかいらね! オラと、オラとスンタローさんの邪魔する奴らなんか、消えちまえ! いなくなっちまえ! みんな、みんな、全部いなくなっちまえ! スンタローさんが、スンタローさんだけがいれば……!」
 余りにも、余りにも必死な、重い、魂の根底からのような叫び。
 重すぎる。重すぎて、怖い。
「ミヤギ、駄目だ!」
 パイプからその手を剥ぎ取る。手を握って、ミヤギの目を正面から見た。涙にあふれ、瞳孔が開ききり、焦点はまるで合ってなかった。その目を正面から見据えた。シンタローの最後の勇気だった。
「ミヤギ、駄目だ。そんなこと言ったら駄目だ」
 違うだろう。こいつが求めているのはそんな答えじゃないだろう。
「いなくなっていいとか言ったら駄目だ。消えていいやつなんかいない。そんなこと決めつけたら駄目だ。俺以外何もいらないなんて、そんなこと言ったら駄目だ」
 そうじゃない。これは逃げだ。
「だって……だって、すんたろーさんと……」
「俺はここにいる。お前もここにいる。コージも、トットリもここにいる。誰もいなくなっちゃ駄目だ。いいのか? コージもトットリも消えてもいいのか?」
 ふるふるとミヤギの首が振られる。少しずつ、目に正気の色が戻ってきた。
「それなら、駄目だ。俺以外いらないとか言ったら駄目だ。そんなこと言わなくても、俺はどこかいったりしないから。約束する。お前を一人にしたりしない。だから、そんなことを言うな」
 嘘をついた。大きな、取り返しのつかない嘘をついた。それ以外に方法がなかった。
 ミヤギの口が大きく開かれる。ひゅうと息を吸い込む音がする。一瞬遅れて、大きな泣き声が響き出した。

 うわあぁぁぁぁん。うわああぁぁぁん。

 ぼろぼろ涙をこぼしながら、幼児のように大声で泣くミヤギを抱きしめた。俺が泣かせたのだ。恐怖に踏みにじられ、ぎりぎりでそれに打ち勝とうとしていたミヤギを、自分が突き落とした。それを誤魔化すためだったら、コージがいるこの場でキスだってセックスだってしてやろうと思った。
 大声を出しすぎたのか、ミヤギの呼吸が引き攣れてきた。こいつには過呼吸の気がある。意識を失いかけたミヤギをコージに任せた。コージはミヤギを軽々と抱き抱え、落ち着いたら部屋に戻すと言ってトイレを出て行った。
 シンタローは床に落ちた訓練服を拾い集め、その全部に『消』の字が書かれていることを確認した。いつものように水に濡らせば消えるかと思ったが、消えない。石鹸をつけてごしごしとこする。消えない。もっと強く洗えば、もしかしたら。
 誰のだか分からない訓練服を古ぼけた洗面台で洗いながら、シンタローは泣きたくなった。
 誰かを悲しませたくないだと? 切り捨てたくないだと? そんな卑劣な真似をしたくないだと?
 馬鹿を言うな。
 悲しませたくないのは、悲しませることに耐えられないからだ。切り捨てたくないのは、切り捨てる勇気がないからだ。卑劣な真似をしたくないのは、自分が卑劣だと認めたくないからだ。
 さっきミヤギに言った言葉が、卑劣である以外の何だというのだ。
 ミヤギは切り捨てられたのだ。俺のために。俺のために、他の全部を切り捨てていいと、そう言ったのだ。
 俺はそれに耐えられなかった。その重さに耐えられなかった。俺と世界の価値を同等だと言われ、自分がその価値に足る人間だと認められなかった。
 だからそれを否定した。もっともらしい言葉を並べて、説き伏せ、騙し、混乱させ、責任を逃れた。
 ミヤギの思いを切り捨て、悲しませたのだ。
 卑劣な。なんという卑劣な。
 彼女は父のために死んでもいいと言い、父の前で死に、父に殺された。
 俺はできない。自分のために死ねと言い、その死を目の当たりにし、その死を受け止めてやることなど、今の俺には到底できない。
 悔しかった。無力な自分に頭に来て、力のあるやつが妬ましくて、そんなやつが存在することに怯えて、自分を脅かすものが憎くて、そんな感情に振り回される自分に焦って、悔しくて、泣くほど悔しかった。
 泣いた。取り壊しが決まった旧東棟、その三階西トイレ。ひびの入ったオンボロ洗面台で、誰のだか分からない訓練服を洗濯しながら、シンタローはボロボロと泣いた。
 自分の弱さが、死ぬほど悔しかった。


 結局、あの字は落ちなかった。いざとなったら親父に頭下げて何とかするしかあるまいと思ったが、その必要はなかった。
 本当に消えていたのだ。
 名簿から名前が四人分消えていた。斜線で消されていたとか、修正されていたとかではない。
 最初からいなかったかのように、そんな奴は存在しなかったとでも言うように、名簿から四人分の名前が消えていた。学籍番号も四人分詰まり、いつの間にやら自分のIDカードの番号が書き変わっていたのにはぞっとした。
 それ以上にぞっとしたのは、翌朝コージに見せられた例のメモだ。その紙は間違いなくあのノートの切れっ端だったが、そこに書かれていた字はきれいさっぱり消えていた。鉛筆の跡もなかった。
 コージは苦い顔であの後のことを語った。泣き止んだミヤギはそのまま気を失い、再び目を覚ました時には何も覚えてなかった。『なしてコージがオラをひざ枕してんだべ』と、全く普段と変わらぬ調子で言ったミヤギが正直恐ろしかったとコージは言う。こいつでもなにか怖いとか思うのか。
「……で、われはどうなんじゃ?」
「何が?」
「覚えとるんか」
「覚えてるよ」
「アラシヤマは覚えとらんそうじゃ」
 あのメモを見ていたはずのアラシヤマは、授業中にあのメモを受け取ったはずのアラシヤマは、そんなものは知らないと答えた。
「どうする?」
「どうするったって……」
 訓練服はまとめてトイレのタンクに突っ込んだ。取り壊しの時に発見されるかどうかは運次第だ。多分、発見されないと思う。
「なかったことにすりゃいーんじゃねーの?」
「なかった……ってな、シンタロー……」
「そうしようぜ。そうしたほうがいいって」
 何もなかったことにしよう。
 ミヤギを傷つけようとする悪意も、それに抗ったミヤギの叫びも。
「なかったんだよ。何もなかった」
 自分の卑劣な約束も、何もなかったのだ。シンタローはそう呟いた。

End.

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