シュレディンガーの繭 後編

「『現実』とは何だと思っている? 俺はそれを『自意識の相互認識』だと表現したい」
「自らの自意識だけでは、己が夢を見ているのか、現にいるのかの判断基準など何もない。故に、複数の相互認識が必要になる。俺は、お前という存在が自意識を持っていることを認識している。お前も、俺という存在が自意識を持っていることを認識している。それぞれの自意識の内実は分からないが、それをさまざまなサインから推測することは可能だ。他者の自意識を客観視する。それが現実認識の第一歩だ」
「フランス語で『私は誰だ?』という言葉は、『私は誰を追っているのだ?』という意味にも取れる。他者を追うことことが、自らを認識することに相当する訳だ」
「観測者が不在であれば世界は存在しない。しかし、観測者自身もなにかに定義されなければならない。観測者が観測していることを観測している観測者。その相互認識。現実とはそういう世界であり、それでしかない世界だ」
「しかし、これは違う」
「これは相互認識を必要としていない。ただ一方的に観測し、一方的に定義する。いいか? 対象が『自意識を持っているか否か』『自意識の内実がどうか』、もしかしたら『存在するか否か』すらも関係なく、ただ観測し、ただ定義するものだ」
「この中には世界が溶けて眠っている。全ての可能性と全ての真理を内包し、全てを超越している。おそらく、俺達が肉眼で見ている姿は三次元上に仮に結像したものであって、本来は多次元の存在だろう。時間も光もこれの前には意味をなさないものだ。時間も光も、神すらもこれに定義されるものなのだから」
「賢者の石、世界の卵、真理の書、モノリス、アカシックレコード、または子宮。これを表現する言葉は有史以来さまざまな物が作られていたが、俺はこう呼ぶ」
「絶対観測者」
「これは神を作る繭だ」


 キンタローの仮説に基づいて、『繭』は厳重に封印された。
 もはや人の手で触れてよいものではない。この先は真実、神の領域だ。くやしながら。
 研究棟を中心に半径3kmが立ち入り禁止区域とされ、本部施設の移設も余儀無くされた。その範囲内に通常の人間が三十分以上いると、精神崩壊、もしくは発狂することが分かったからだ。常人が世界の真実に近づくことの限界。そういうことだろう。
 その区域に立ち入られるものは、ごくわずかだった。現時点で確認出来ているのは、秘石の直系に当たるもののみである。『創造主』の直系ならば、『それ』を見るくらいは許されるらしい。
 絶対観測者は、孤独の空で眠っている。


「よお」
「……ベタベタ触るんじゃねえよ」
 いつものように『ミヤギ』に会いにいくと、そこには自分と同じ顔の人間がいた。秘石の直系と言えば、こいつほどの直系はいまい。『青』の人間以外で唯一『繭』に近付くことを許された人間。今は、床に何やら機材を広げ、観測データを取っているようだ。
「触らないって。触ったら溶けちまう。試すには分が悪いからな」
 実際、封印作業中に三人が『繭』に誤って触れ、溶けて飲み込まれている。
 ジャンは計測結果らしきものが映し出されているディスプレイをじっと覗き込んだかと思うと、ガリガリと頭をかきむしった。
「駄目だな、こりゃ。もう哲学の領域だ」
「わかんのか?」
「いや、詳しくは高松やキンタローのところに持って行くけどな。大体のところは。とりあえずこれが、既存の物理学も量子力学も子供の手習いにするようなもんだってのは分かる」
「……わかんねえよ」
「んーとな。この中にはものすごい量のエネルギーが渦巻いてる。えーと、10の79乗分の1秒単位で宇宙開闢と収縮を繰り返している状態に匹敵するとかいってたかな? つまり、この中ではものすごい数の宇宙が生まれては死んでいる。そうするとだな、この中のカクリツってのは、俺達が思っているようなカクリツってのとは基準が違うんだな。巨視的トンネル効果って知ってるか? まあ、何億年と壁に体当たりし続けていれば、何かの拍子に一回くらい壁を擦り抜けられるかもしれないってことになるんだけど。それがこの中では当然に起きることなんだな。宇宙が生まれてから死ぬまでに一回起こればすげえってことが、一秒に何百億回以上と繰り返されているわけだから。もちろん時間の流れも違うし。えーと、だからな。魚が鳥になったり、男が女になったり、人が木になったり、水がワインになったり、処女から子供が生まれたり、そういう『起こるはずがないけれど、宇宙の一生に一回くらいは起こってしまうかもしれない、ものすごい奇跡』が、この中にはうじゃうじゃものすごい数で詰まっているわけだ」
「……よくわかんねえ。つうか、ものすごいが多過ぎだ」
「細かい数字苦手なんだよ。なんて言ったけなあ。これの『前身』は、そのものすごいカクリツが言霊を媒介にして、『世界を壊さない程度に』抑制されて顕現したもの、とか言ってたかなあ」
「前身ってなんだ」
「怒るなよ、俺が言ったんじゃない。だからな。これを元に戻すってことはな、何兆何京って宇宙ぎゅーって固めて人の形に戻すようなことだってさ」
「だから、諦めろってか」
「そうは言ってないだろう、怒るなよ。ただな、ものすごく難しいよ。まだ俺らは、この地球上から三万キロ飛び上がるだけでも大仕事なんだ。肝臓一つ、完全に再現はできない。それで、こんな神様より偉いものどうにかしようってのは、愚行ってやつだ」
「これはそんなもんじゃねえ」
 そんなものではない。そんな大層なものではない。なかなか背が伸びなくて、何やらせても鈍臭くて、そのくせやる気だけはあるから始末に負えなくて、誰に対してでも真っすぐ目を見て話して、だからよく誤解されて、でも本当に意識してる相手とはうまく目を合わせられなくて、そういうところが可愛くて、だから。だから、あの時、
「これはミヤギだ。それ以外のなんだってんだ」
「……そういうところだけは、本当、羨ましいよ」
 分析結果は改めて報告する。そう言い残して、ジャンは機材をまとめて出て行った。
 『繭』。その姿を表現するには、光の塊、としか言いようがない。
 それ自体が強く発光しているわけではない。直視しても、別段眩しくはない。直径は大人が手を広げたくらい。ほぼ真円に近いが、楕円の形をしていることもある。時折、ふわりふわりと揺れ動く以外は、ただ中空に浮かんでいるだけのそれは、まるで光を抱え込んでそのまま留めているような、そんな姿だった。
 みんな、これを見て『泣いている』という。どこが泣いているのか、シンタローにはさっぱり分からない。しかし、誰も彼もがこれが『泣いている』と言う。
 そういえば、昔からそうだった。
 時折ミヤギは、何の前触れもなく堰を切ったように泣き出す。何で泣いているのか、何が悲しいのかさっぱり分からなくて、おろおろと慰めることもできず、捨てるように放ったらかしたり、他人に押し付けたり、殴りつけたこともある。
 よく愛想を尽かされなかったものだ。自分を理解しようとなどかけらも思わぬ男に、よく今までついてきてくれたものだ。
 だからこそ。今度こそ。
 シンタローは理解してやらなければならない。
 ミヤギがこんな姿になるまで泣いた理由を。


 キンタローの眉毛がねじ曲がっていた。
「アレの存在がバレた」
「……なんでだよ」
 極秘事項のはずだ。箝口令が敷かれていたはずだ。
「レコーダーにひとつ盗聴器が仕込まれていた。囮用にと一年前放置することに決めたやつだ。そこから漏れた」
 あの『悲鳴』。そして、その後のガンマ団の不可解な動き。
「誰だよ、放置するなんて決めた奴は」
「俺とお前とミヤギだ」
 作戦室主査と総帥と本部警備主任。当たり前すぎる回答だ。
「分かったよ。で、どうする」
「……どうしたいんだ?」
 何故そんなことを聞く。
「あれを学術的に発表するか? 公開して共同研究者を募るか? しらばっくれて知らぬ振りをするか? どうする?」
「俺に聞くなよ、そんなこと」
「お前に聞かずに誰に聞く」
「発表って馬鹿か? ミヤギをモルモットにして解剖させろって? 隠し通せるならとっくにやってるだろ、お前なら」
「じゃあ、どうしろというんだ」
「それをお前が考えろよ!」
「あれはな! 俺達の手に負えるものではないんだと、何度言えば分かる!」
 またか。結局そこに行き着くのか。
「はっきり言うぞ。あれの軍事的利用価値は絶大だ。絶大すぎて、所持してるとバレたら危険極まりない。パワーバランスどころじゃない、世界の根幹法則を揺るがすものだ。まともな人間なら、埋めるしかない代物だ」
「だからっ! あいつはそんなんじゃ……!」
「兵器になるのは、ミヤギ自身が望んだことだ」

 それを、それを言うか。俺の前でそれを言うか。

「……そんなわけねえだろ」
「そのはずだ。あいつはお前のためなら、自ら進んで兵器になったはずだ」
「そんなの、聞いたわけじゃ」
「認めろ。あいつがお前のためにこれまで何をやって来たか。あいつはお前のために、世界の法則すら書き換えたんだ」
「そんなの、そんな……」
「あいつは、お前のために、脳も内臓も作り替えて、化け物になることすら受け入れたんだ。認めろ」
「分かってるよ、そんなこと!」

 分かっている。分かっている。そんなこと、とうの昔に知っている。

「……お前じゃねーかよ」
「なにがだ」
「お前じゃねーかよ、あいつをあんなんにしたのはよ。あいつを本当の化け物にしたのは、お前じゃねえかよ」
「ああ、そうだ」
「それなら、それなら」
「俺がやったんだ。『お前自身であるこの俺』がやった」

 ひゅぐ。変なふうに喉が鳴った。

「俺がやったんだ。あいつは、俺のために、はらわた引きずり出してまで化け物になることを選んだ。俺は見ていた。見ていたんだろう」
「……見てたよ」
「だからだ。だから俺がやった。俺が作り替えた。俺が、あいつを、化け物に作り替えたんだ」

 これは、己で己を呪う言葉だ。己で己を名付け、己で己を規定する観測行為だ。

「現実を受け止めろ。あの化け物を殺すのか埋めるのか、お前が決めろ」

 俺が出て行った。俺が部屋を出て行った。
 どさりと椅子に腰を落とす。現実を認識するため、脳が高速情報処理を行っていた。
 あれは化け物だ。あれは俺が作った化け物だ。
「……ひぐ……」
 知ってたんだ。そんなこと、とうの昔に気づいていた。
「ひっ……ひっ……」
 だからこそ。だから。だから、絶対に。
「ひぃっ……ぅあ……うあぁぁ……」
 思い出す。きれいな顔、柔らかい笑み、白い手、暖かな体温。なにもかも、自分に与えられたもの。
「うぁぁぁぁ……うわぁぁぁぁ……!」
 だからこそ、絶対に、自分はミヤギを手放せなかったのだ。

 久しぶりに泣いた。己が失ったものと、己の愚かさを呪って、シンタローは久しぶりに泣いた。


 キンタローは足早に廊下を歩いていた。
 背後を振り切るように。振り返らぬように。何かから逃げ切るように。逃げ出すように。
 そうだ。あの化け物を作ったのは俺だ。
 好奇心から手を延ばし、いたずらに弄び、玩具にして作り替えたのだ。
 それがどんな意味を持つのかも知らずに。
 自分が何をしているのかも知らずに。
 あれは神を作る繭だ。神をも殺す繭だ。神殺しの繭。
 世界を殺す繭。
 自分が作った。
 この世の悪徳という悪徳にまみれた存在を。
 この世の無垢という無垢を集めた存在を。
 人が手に触れてよい領域ではなかった。
 踏み込み、荒らし、穢してよい領域ではなかった。
 自分が恐ろしかった。
 ただの好奇心から、あのようなものを作ってしまった自分が恐ろしかった。
 自分は深淵に魅入られていたのだ。

 気をつけろ。深淵を覗き込むときは、深淵もまた覗き込んでいる。

 自分は深淵を深淵だとも知らずに、石を投げ、踏み荒らした。
 恐ろしかった。怖かった。
 何かに魅入られてしまうというのが、これ程怖いものだなんて知らなかった。
 あいつは、魅入られてしまったのだ。
 俺の半身は、深淵に魅入られた。
 深い、深い闇を愛し、また深い闇に愛された。
 闇の深さと同じだけの深い愛に囚われた。
 底のない沼のように。
 寿命を終え、事象の地平を踏み越える巨大な星のように。
 その闇が深ければ深いほど、深く魅入られ、溺れてしまったのだ。
 そこはもはや人の手の届かぬ、外なる神々の領域。
 光も時間さえも捉えて離さぬシュバルツシルト半径の奥深く。
 世界すら飲み込むその深淵に囚われた。
 怖かった。
 怖かったから逃げ出した。
 キンタローは、夕陽を飲み込む闇から逃げるように廊下を駆けた。


 それは逢魔が刻だ。
 陰と陽が、人と魔が、全と無が交じり合う時間。
 交じり合わぬものが交じり合う時間のことだった。


――いつから、こっだら泣くようになったんかなあ、スンタローさんは。
 前からだよ。ずっと前からだ。
――前からかい。
 そうだよ。我慢してただけだ。泣きたいのこらえて意地張ってただけだ。
――今はしてねえのけ?
 ……したくなくなる時があるんだよ。
――そっか。そんならな、オラとかの前だけにしとけな。示しさつかねっがら。
 最初からそのつもりだよ。
――あまったれだべな、スンタローさんは。
 甘えてます。甘えさせてもらってます。
――そんでもええがら。あまったれでええがら。
 いいから?
――スンタローさんはスンタローさんのまんまでいてくんろ。
 どういう意味だよ、それ。


 いつの会話だったか。それともそんな会話を交わしたことなどなかったか。
「……どっちだったっけな」
 蛍光灯の強い光に目がかすむ。あのまま寝てしまったらしい。時刻は日付を塗り替え、もうしばらくで夜明けを向かえる。シンタローはまぶしげに眉を細めた。
 夢だったのだろうか。
 夢でもよかろう。いかにもあいつが言いそうなことだ。
「俺のまんまで、ってどういう意味だよ……」
 俺は俺だ。いつだって、俺自身のつもりでいた。
「……そうだったっけ?」
 そうでもなかった気がする。自分が誰なのか、何をすべきなのか、見失ったこともよくあった。というか、最近、極め付けのがあった。なんせ、俺だと思ってたものが俺じゃなくなって、俺じゃないものが実は俺だと言われて、それも俺じゃなくて俺が本当は何だったのか結局よくわかんなかったのだ。思い返すと、ちょっと現実のこととは思えない。
「……俺って、何だったっけ」
 頭がもやもやする。泣きつかれて寝るなんて真似をしたせいかもしれない。何が現で、何が夢だったのか。それは……何を基準に決めるのだろう。この目に痛い光が、夢の産物ではないという証拠はあるのだろうか。
 ないのだ、そんなものは。ないから、ないからこそ。
――スンタローさんはスンタローさんのまんまでいてくんろ。
 絶対観測者。
 存在するか否かすらも関係なく、ただ観測し、ただ定義するもの。
 俺が何者でもなかったのだとしたら、俺に名前をつけたのは恐らくあいつだ。
「……そっか。そうだな」
 ならば、俺がお前を観測し、定義してやろう。
 お前をこの世界に、現実へと引き戻すために。
 シンタローは再び訪れたまどろみを受け入れた。


「で、どうする?」
「なにが?」
 あれから一晩が経ち、腫れぼったいシンタローの目に、大体の推測をつけてキンタローは口を開いた。
「あれのことだ」
 名前を言うのも忌まわしい。その名は、狂気を呼ぶ名だ。
「バレてんだろ?」
「ああ」
「どこまで」
「……超エネルギー体である、ということまでだろうな」
 それ以上は調べようがないはずだ。シンタローが眠そうに目許をこする。やる気がなさげな態度に、いささかの不安を覚える。
「そっか。んじゃ、俺らが知っていることと大差はねえな」
「……そういうことになるな」
 仮説段階のものはいくつかあるが、どれも推測の域を得ない。高松は何かを掴んでいるようだが、まだ話せないの一点張りだ。
「そんじゃ、あらかた話しちまおう」
 …………はぁ?
「なんだと?」
「話しちまえって言ってんの。うちの団員が一人、事故でああなっちゃいまして、現在元に戻す方法を研究中ですって」
 あくび交じりにシンタローが言う。開いた口がふさがらない。何度かパクパクとあごを動かし、ようやく声が出た。
「……お前はバカか!?」
「なんでだよ」
「バラしてどうする!」
「バレてんだろ?」
「あのな、所持を確認されたことと、所持を認めることは全く意味が違うぞ!?」
「分かってるよ、そんくらい。なめんな」
 分かっているなら、分かっているなら何故、どうして。
「じゃあ、何故だ! お前、あれを何だと思っている!」
 何故だ? 何故か? 決まってる。そんなこと決まってる。
「あれは俺のものだよ」
 世界の法則も何もかも知ったことか。
「あれは俺のものだ。お前がどう言おうが、世間がどう言おうが、あいつは俺のものなんだ。俺の側にずっといて、俺がずっと守ってやる。そう決めたんだ、そう約束したんだ。それを認めて、何がおかしい」
 何であろうがかまうものか。それが世界を食いつぶす化け物であっても、生けるものすべてを消し飛ばす兵器であっても同じことだ。自分はあれと共にあると決め、あれと共に歩んできたのだ。それの何がおかしい。
「……お前は……」
「あん?」
 なんだよ、その殴られたみてえな顔は。
「お前は、一体なにをするつもりだ」

「あのな、このすっとこどっこい。よく見てろよ」
 シンタローは勝ち誇ったような顔で、ニヤリと笑った。

「俺はな、世界を守るぞ」

End.

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