2008年4月 4日
戦って、戦って、戦って×∞……そして野垂れ死ね!!!
『カフェ・ド・鬼』第三話はこんな話。
攘夷四人の中で、一番『鬼』に近いのはヅラだと思う。
何度もしつっこくOP見てたら、なんだか泣けてきた。
やっぱ、銀魂は過去に『戦争』があったというのが、キツイ。
バトルじゃなくて、戦争。国家の主権、民族の尊厳、人の生存権利、すり潰されていくニンゲン。それを守り通せるか、否か。
どう考えても負けると、死ぬと分かっていても、人が武器を手に死地へ進めるのは、一人死ねば一人生きられるかもしれないと思うから。そんな論理は間違っているんだけど、間違っていてもそれを選ばざるを得ない。
銀魂世界では、地球と天人に圧倒的な格差があり、地球人なんて毛の生えてないサル以下の存在だったはずなのに、辛うじて幕府が残っており自治権が認められているのは、最後の最後まで侍たちが抵抗したためだと思っているのですが。
ドライバー編なんか、すごくアレだよね。天人にとっては、地球人なんてドライバー以下の存在であるってのがすごく残酷な話だよね。家畜人ヤプーだよね。
攘夷戦争ってのは、そういう相手からなんとか自分たちの主権を守り通そうとした、そういう戦争だと思っているのですが。
多分、ヅラの中では、その『戦争』がまだ続いている。泥を啜って血と肉の中を這いずり回って、一歩進めば何かがよくなる、一歩進めば誰かが守れる、もはや妄執であるそれに囚われたまま生きている。
銀さんから見れば、自分がその地獄に置いてきてしまったように思える。
高杉から見れば、何故、自分と同じように絶望してくれないのか分からない。
もっさんから見れば、ものすげーいたたまれないかもしれない。
でも、ヅラはそれが当たり前だと思っている。だって戦争だから。負ければ、何もかもを失うから。
ヅラの、身内と女子供、弱い生き物にはとことん甘く、敵とどうでもいい大人には徹底して厳しいって言うのは、そこに起因するのかな、と。
戦う力を持たぬもの、守るべきものと、戦えるのに戦わないもの、倒すべきものの区別がはっきりしている。『思想を持たないものなど、嫌いようがない』ってのもな、きっぱりしているよな。
大富豪とリア杉に、『まつえーんとこのヅラは、なんか怖い』と言われて、『怖くないよー!』と抵抗してみたのですが、うん、怖いなこれは。
- at 04:23
- in 落描