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王子様と秋の空 [将棋]
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2012年3月21日

王子様と秋の空

 竜王戦合わせで棋士モノ第三部第一話。


 夏が終わって秋が始まるかと思いきや、すでに冬の肌寒さも襲ってくる。そういう微妙な時期だった。この頃合いに気を抜くと風邪を引くんだよなあ、などと思いつつ、新八はカレーの味を確かめる。この家ではおさんどんは弟子の役目だった。
「ぱっつぁーん。ぱっつぁんは外国行ったことあるぅ?」
 リビングから師匠のだらりと気の抜けた声が響く。
「ありますけどー。大分昔に父と一緒に韓国へ」
「あー、囲碁だったっけ」
 将棋は日本特有のゲームだが、囲碁は中国や韓国を始めとした東アジア全域で親しまれているゲームだ。当然、強豪もそちらに多い。
「じゃあ、パスポートのとり方って知ってる?」
「それは父がやってくれましたから……たしか都庁の方に申請センターがあるんじゃなかったかな? なんですか、銀さん。旅行でも行くんですか?」
「んー……ほら、竜王戦じゃん」
「ああ、第一局ひと月後ですもんねぇ。今年はローマでしたっけ」
「うん、そうなのよ」
「そうですよねぇ」
 ここでピタリと手が止まる。エプロンで濡れ手を拭き拭きリビングに首をつっこむと、銀時はノートパソコンの画面を覗き込みながらなにやらメモを取っていた。
「……なんで竜王戦が銀さんに関係あるんですか?」
「行くから」
 画面に集中し気もそぞろといった風情で銀時が答える。
「なんで行くんですか? 仕事ですか? 雑誌から依頼受けたとか……」
「ヅラが行くから」
 ヅラとは先日めでたく竜王戦挑戦者決定戦をストレートで勝利した桂小太郎棋聖のことである。
「……アンタ、ついてく気なんですか!?」
「? そうだけど?」
 うわ、当然って顔してる! なんでそんなこと訊くの? って顔してるぅ!

「やだー! やだー! 俺も行くぅ、イタリア行くぅぅ! ヅラと一緒にローマの休日するううう!!!」
「無茶を言うな、銀時。観光日は取材でぎっちりだぞ。とても休日などは取れない」
「桂さん、そういう問題じゃありません」
 桂さんに許可はとったんですか?→いや、まだだけど? というやりとりを得て、新八に電話で呼び出された桂は、リビングのソファの上で駄々をこねる銀時を軽くいなしながらカレーをむしゃむしゃと食べていた。
「新八くん、これは辛すぎないではないだろうか? もうちょっと玉ねぎなりヨーグルトなりを増やしたほうが……」
「神楽ちゃんの好みなんですよ。ああ、そうだ。神楽ちゃんが行けばいいじゃない、家族旅行って面目も立つし……」
「ヤーヨ。なんであのハゲオヤジと旅行しなきゃならないネ」
 ただでさえ激辛のカレーにココイチの十倍ソースをぶち込みながら神楽が答える。口の周りが真っ赤に腫れ上がっているのだがこれが良いのだと本人は主張する。
「駄目なの、俺が行くの! 俺がヅラと一緒に行くの! 俺がヅラのゲロ袋世話したり、新しいゲロ袋作ったり、スチュワーデスにゲロ袋持ってきてもらうように頼むのぉ!」
「なんで全部ゲロ袋の世話なんだよ!」
「最近のゲロ袋はジップロックみたいに密閉できるから貴重品入れに便利なんだぞ、新八くん。ところでヤクルトはあるかな?」
「ヤクルトなら冷蔵庫に……って、ヤクルトをどうする気なんですか、桂さん!」
「カレーに混ぜる。乳酸菌とカレーは相性がいいんだぞ。ヨーグルト然り、カルピス然り」
「アンタ、カレーにカルピス入れてんの!?」
「ヅラァ、一緒にハバネロソース取って来いヨ。それそれ、緑のやつ」
「神楽ちゃんんんん! もうダメだって! それ以上辛くしたら馬鹿になるって! てゆーかお前ら好き勝手に動くんじゃねーよ! 話があるって言ってんだろうがよ! 全員ここに座れええええええ!」
 ついにヒステリーを起こしテーブルを叩き出した新八に、全員渋々とテーブルにつく。
「えー……まず、銀さんが何故ついて行きたがるかですが……」
「心配だからに決まってんじゃん」
 当然のことだと銀時はふん反り返る。
 桂が体調面でそれほど丈夫な方ではないのは有名な事実だ。二日制の対局での成績がほかに比べて芳しくなく、スタミナ切れによる疑問手や詰みの見逃しをよく指摘されている。
 さらに、竜王戦第一局は海外である。しかも長時間フライトを強いられるヨーロッパ。現地につけばすぐさま世界各国のマスコミからの取材攻勢、そして二日間の対局。
もうこれだけで桂の負けは決まったようなものだというのが最近の下馬評だった。
 それでも竜王戦は七番勝負。一局落としても挽回はできる。銀時が心配しているのはそちらのほうだ。
 第一局は落としても構わない。しかし、帰国してからの他の対局や次の番勝負に影響が出てはならない。そのためには、そばでサポートしてやる人間が必要だ。
「……言いたいことは分かりますけどね。そういうのの為に立会人の棋士さんとかが同行してるんじゃ……」
「それは飽くまで対局の立会人だろぉ!? 俺は違うの、飽くまでヅラの体調のためだけについていくの! はっきり言ってレベル違うから、俺がヅラを気遣うレベルは海よりも深いから!」
「こんなこと言ってますけど……」
「……俺は有り難いと思うが?」
 桂の発言に銀時はガッツポーズを取り、新八は額を抑える。
「ほら見ろおおおお! 何が迷惑かけるなだ、俺とおめーじゃヅラとの付き合いが違うんだよ! ヅラのこと一番よく分かってんのは俺なの! ざまーみろー!」
「……いや、銀さんそうじゃなくてですね……」
「ついて来るのは構わないが、連盟のお偉方もみんな来るぞ? 大丈夫か?」
 ぴたりと銀時の動きが止まる。新八が心配していたのもそこだった。
 海外対局は将棋の世界普及のための一大イベントだ。会長以下連盟の重鎮達がこぞって同行し、取材や大盤解説に当たる。
 奨励会を脱走したまま、謝罪どころか一度も会館に顔を見せていない銀時がのこのこと顔を出せるところではない。
 どっと嫌な汗が銀時の背筋から吹き出す。
「来るんだったら、せめて会長と名人には謝りに行け。俺は庇わんぞ」
「……名人はおっさんだからいいとして……会長って……」
「鳳仙さんですよね」
「貴様、前に喧嘩売ったらしいな」
 売った。まだ桂と再会するより前の話だ。
「売ったけどぉ……でも、アレはぁ……」
「詳しい話を聞く気はない。どっちにしろ気まずい空気でギスギスされたら俺の胃が痛む。ついてくるならさっさと謝ってこい。今日なら会館にいるはずだ」
 ヤクルトを入れたカレーをかき混ぜながら、淡々と桂が言う。
「ああ、あとな。旅費は自分で持てよ」
「? そんくらい当然だろ。バカにすんな。俺だってこう見えて……」
「俺はファーストクラスとスイートだからな」
「……なんでええええ!?」
 はっきり言って連盟から出る旅費はけち臭い。飛行機は良くてもビジネス、悪ければエコノミーだし、ホテルの部屋はさすがにシングルではなくても精々ツイン程度だ。竜王戦が開かれるのはその都市の超一流ホテルと決まってるのだから、致し方ないことかもしれないが。
 そのくらいなら一緒に行ける、というのが銀時の皮算用だった。
「坂本が金を出すから」
 眩暈に襲われた。元天才棋士の兄弟子、今は一大将棋教室チェーンの社長。もじゃもじゃ眼鏡こと坂本辰馬。最近は奨励会受験のための予備校めいたことまで始めたらしい。
「え? 借りたんですか?」
「そうじゃない。来年から俺があいつの会社のイメージキャラ? CMタレント? そんなものをやることになってな。契約金の一環というかそんなものだ」
 テーブルに突っ伏す。なにこのハードル。プライドと金の両方が必要とか、男の器の全てが要求されてるに等しいんですけど。
「とりあえず、パスポート取るのはそれからにしたらどうだ」
 肩を軽く叩く桂の手が銀時にとっては地獄まで落とされる重さに思えた。

 お妙には『金なら貸さねーぞ』と一言で断られ、日輪には『イタリアまでのファーストクラスにスイートルームなんて、そんなお金があったら一回女流棋戦が開けるわあああ!』と泣かれ、月詠から差し出されたしわくちゃの万札3枚はさすがに受け取れなかった。恥を忍んで電話した京次郎には『はっはっは、面白い冗談じゃ』と一笑の元に切り捨てられたし。
 と、なると、最後の頼みの綱はここしかない。携帯の電話帳からではなく、公衆電話のハローページで調べた代表番号をダイヤルする。呼び出し音は一回半しか鳴らなかった。
『はい、快援コーポレーションです』
 取り澄ましたハスキーボイス。
「……辰馬、いるぅ?」
『なんじゃ、また金借りにくるのかこの穀潰しめが』
「またじゃねーし! 一回こっきりだし! すぐ返したし!」
『いくらいるんじゃ。3000円か、5000円か』
「俺を今日の飯にも困ってる人みたいに扱うのはやめてぇ! 辰馬出せよ、辰馬!」
『……はいはい、わしじゃー。陸奥ぅ、あんまり苛めんでやっとおせ』
「ほんとだよ……マジやめてよ……」
 有能さと将棋の強さと美人ぶりは認めざるを得ないが、そのドSさだけはいただけない。一番借り易そうでありながら、最後まで連絡しなかったのはそのためだ。
『久しぶりじゃの、金時ィ。竜王戦か?』
「おう、久しぶり。……話早いじゃねえか」
 桂から話が回っていたのか、お得意の早耳か。銀時は背中をガラスにくっつけ、町並みから視線を逸らした。
 借金の算段を弟子の前でするのは恰好がつかない。銀時はすっかり数を減らした公衆電話に篭り、携帯から電話をかけていた。人に聞かれたくない話をするにはうってつけの場所ではなかろうか。
「……いくらくらい必要なの?」
 まずそれが分からない。海外に行ったこともなければ飛行機に乗ったことすら殆どないのだ。
『コミコミ400万ちょいかのー』
 ブフッ。変な息が鼻から漏れる。
「年収じゃねえか! なにそれ、そんなに掛かるの!?」
 精々が100万くらいだと思ってた。
『やめとくがか?』
「…………」
 ただ同行したいのではない。桂の体調をフォローするために行くのだ。ならば、飛行機の席もホテルの部屋も同じでなければ意味がない。
『実はの、わしが行こうと思って予約してた切符があるんじゃが、別の仕事が入ってキャンセルしようと思ってての。譲ってもええんじゃが……』
「……向こう二年、講師のただ働き。これでどうだ?」
『そんなええよー。出世払いしてくれりゃあ』
「いや、出世する予定ねぇし」
『出世してもらわにゃ困る。でなきゃ貸せん』
 声色が変わる。これは坂本が何かを企んでる時の声だ。
「どゆこと?」
『来年のアマ竜王を取るっちゅーなら貸してやる』
 思わず携帯を強く握った。スピーカーに圧力がかかりピギッと耳障りなノイズを発した。
『うちの所属っちゅーことで出てもらう。アマ竜王の賞金だけじゃもちろん400万には足りんが、本戦をいくつか勝ち進めば対局料が入る。そうじゃの、準々決勝まで行けば収支合うじゃろか。どうじゃ?』
「……本気で言ってんの?」
『出来んか?』
 アマ竜王はその名の通り、アマ名人と並びアマチュア最強を決める棋戦だ。優勝者および上位者にはプロと同じ竜王戦への出場権が与えられる。もちろん対局料も同じように出る。
 竜王ドリームなどという言葉が生まれた由縁だ。新人棋士どころか、一介のアマチュアが将棋界最強の座を掴む可能性を秘めている。それがアマ竜王であり、竜王戦なのだ。
 ……出来るか出来ないかで言えば、多分出来る。長年の真剣師生活で棋風は荒れているが、棋力自体は衰えていないつもりだ。事実、竜王挑戦者である桂と自分の棋力はほぼ互角。無理な話じゃない。
 しかし、これを受けるということは、一度逃げ出した棋界に再び戻れ、ということだ。
 もう一度、将棋の表舞台に戻る。
 考えさせてくれ、と言おうとして口を噤んだ。坂本のことだ、今日がキャンセルの締め切りだとでも言葉を繋げるだろう。そういう男なのだ。
 ぎりりと脳が痛んだ。掌が嫌な脂汗をかいている。口の中のツバを飲み込むとねっとりしたえぐみが残った。
「……楽な話で助かるわ」
『ほぉかほぉか。なら、チケットは明日にでも家まで届けさせる。パスポートは自分で用意しとけぇ』
「ああ、分かってる。じゃ、俺、まだ行くところあるから」
『おー、それじゃあのー。金時ー』
 プツン、と通話が切れた。
「……金時じゃねーって」
 一言呟いて、ずるずると床に滑り落ちた。頭を抱えてしばし呼吸を落ち着ける。
 もう一度、戻る。あの場所へ。あの世界へ。師匠に『向いていない』と言われたプロの世界へ。
 戻らなければいけない。桂の側にいるとは、そう言うことだ。
 そうしなければならないのだ。
 バンとガラス壁を叩いて己を鼓舞した。まだ仕事は半分以上残ってる。

 坂本が受話器を置いて振り返ると、応接セットで盤を挟んでいた陸奥と晋助が面を上げた。
 先日から晋助はここの教室の奨励会受験コースに通い始めている。本気でプロを目指し始めたのと、桂にこれ以上負担をかけたくないという二つの目的の合致である。
「これでええかの?」
「……上出来じゃねえの?」
 すぐに盤に目を戻し晋助はポツリと呟いた。
 銀時がローマに同行したがっていると言う話を坂本に伝えたのも、同行の条件としてアマ竜王戦出場を出すように提案したのも晋助だった。そうしなければ許せない。そう言った。
「てめえだけぬるま湯に浸っといてヅラの周りうろちょろしようなんざ、問屋が許さねぇってことさ」
「晋坊は厳しいのー」
「ロハで貸してやるつもりだったのか?」
「いんにゃ。プロになって返してもらおうかと」
 くくっと晋助が小さく唇を歪める。
「どっちでもええきに、早く変わっとおせ、頭。わしじゃ坊の相手は務まらん」
 こつこつと陸奥がテーブルを指で叩く。坂本がソファにつくのと入れ替わりに、陸奥は事務机に戻っていった。
 盤面は二手しか進んでいない。それでも陸奥が進めた定跡の一手を晋助の一手が崩し始めていた。
 陸奥はアマ五段以上の実力がある。おそらく女流棋士の中に入ってもタイトルを争えるだろう。それを今の段階でここまで追えるとは。坂本は黒眼鏡の下で目を細めた。

 徒歩でも30分は掛からない。しかし最後に来たのは5年前になる。千駄ヶ谷の商店街を通り抜け、神社の境内をつっきると細い坂道がある。一見すれば、そこが日本の棋界の中心地とはとても思えない地味な建物。
 将棋会館。
 奨励会も対局もタイトル戦も、すべての将棋はここを中心に行われる。ここがあの9×9の中心。
 もう二度とくることはないと思っていた。
 一つ大きく息を吸う。吐く。自動扉に向かって一歩踏み出した。
「ん? 珍しいところで会うじゃねえか」
「っ……なんだよー……」
 全身に張り詰めていた緊張が一気に解けた。見知った顔に出会ったせいだ。
 玄関ホールの掲示板を前にしてメモを取っていたのは顔馴染みの服部だった。奨励会を三段で退会したあとは将棋関係のフリーライターをやっている男で、真剣師の取材だとかで幾度か付き合いがある。同じプロをドロップアウトした者として不思議と気が合う男だった。
 対局スケジュールのチェックをしていたのか、使い込まれた手帳にボールペンを挟み懐に戻す。
「お前さん、一生こっちに足を向けることはないとか言ってなかったか?」
「……事情が変わったの」
 ブーツのつま先でゴリゴリとアキレス腱を掻く。右方のエレベーターと左方の売店を交互に見る。どちらから行けばいいのか。
「なんの用だ? 呼び出しなら、俺が呼んできてやろうか?」
「んー……えーっと……」
 じゃあ、会長呼んで来て、とは言いにくい。
「……お前、竜王戦のローマ、行くの?」
「ああ、取材記事依頼されてるからな。エコノミー症候群が怖いが行ってくるよ」
 俺はファーストクラスで行くんだぜー、いいだろー。と、軽口を叩く余裕はなかった。
「お前さんも行くんだろ?」
「あー、うん……って、え?」
 何で知っている。
「もっさんから聞いたよ。今回のクライアントだからな」
 ピラと差し出された名刺には、快援コーポが発行している雑誌の嘱託記者の肩書きがついていた。
「吉田松陽永世名人、最後の弟子。ついにプロへの道へ。面白いじゃねえか、ドキュメントでも書かせてもらおうか」
「……やめて、お願いだから」
 本当に用意周到な男だ。完全に銀時の逃げ道を潰しに掛かってる。
 いや、それでも逃げることは出来るだろう。将棋を全て捨てることが出来れば。桂と二度と会わないことを選べば。
 どちらも出来ないのだ。出来ないからここにいる。そして、もう二度と逃げることは許されない。
 ピーンと音がした。エレベーターが開く。銀時も服部もそちらを振り返った。お疲れ様です、と服部が如才なく頭を下げる。銀時はまだ動けなかった。
 白髪の初老、と言うには多少年がいった男が二人。両者とも強面で歌舞伎町界隈にいればかたぎにはとても見えない風体だった。
 薄茶のサングラスにどっぷりと重たげなダブルスーツの男は松平片栗虎名人。吉田が生きていたころは好敵手と呼ばれ、何度か顔を合わせたこともある。もう一人、芸術家めいた長い総髪を後ろに撫でつけ見るからに高級そうな和服に身を包んでる男は、
 将棋連盟会長、鳳仙。
 正直、嫌な思い出しかない。吉田とは最後までそりが合わなかった。名人位を持ったまま病に倒れた吉田に対し投げかけた侮辱は、今でも思い出すだけで腸が煮えくり返る。さらには数年前の日輪の独立事件を巡り、非公式に対局をしたこともある。
 てめぇが仕切ってる盤だけが将棋じゃねえ。棋士が全部てめぇの手下だと思ってるなら大間違いだ。
 そう啖呵を切ったのだ。
「おぉう? 懐かしいなぁ、その白髪頭。吉田ンとこの坊主じゃねえかぁ」
 禁煙など知ったことかとばかりにぷかぷかタバコを吹かしながら、松平は無遠慮に銀時に近づき、ぐしゃぐしゃと頭をかき回す。相変わらずでかいオッサンだ。
「どうしたぁ。いまさら奨励会復帰かぁ? そりゃあちょっと無理があるぜ?」
「……お久しぶりです、名人」
「おぅおぅ、かしこまっちゃって。服部ぃ、てめぇこいつ知ってンだろ? どういう風の吹き回しだ?」
「さあ? 俺からはなんとも」
 ひょいと肩をすくめて見せる。分厚い前髪の下で目が笑ってるのは明白だった。
「松平、行くぞ。そいつはもはや棋界に関わりない男だ。放っておけ」
 一瞥すらくれず、鳳仙は玄関ホールを出て行こうとする。表には黒塗りのタクシーがドアを開けて待っていた。
 関わりない。そのつもりだった。将棋から逃げて、それでも将棋を捨てられず、自分を自由だと言い張り、まともじゃない盤にばかり向き合ってきた。
 それを間違っていたとは思わない。思いたくはない。
 それも全て今の一手に繋がっているのだと信じている。
 でなければ、勝てない。
 渇いてひりついた咽喉を振り絞る。
「おい、エロジジイ」
 ぴたりと鳳仙が足を止めた。
「ローマ、俺も行くから。よろしく頼むぜ」
「……何をしにくる」
「下見だよ。来年は俺が挑戦者で行くからな」
 わずかに振り返った。鋭い流し目の眼光が銀時に突き刺さる。
 かかとが上擦る。逃げ出してしまいたい。全てなかったことにしたい。
「出来ると思っているのか?」
「ヅラに出来ることが俺に出来ねえわけねえだろ?」
 鳳仙の表情は読み取れなかった。読み取るほどの余裕はなかった。
「好きにしろ」
 そのまま鳳仙は自動ドアを抜けタクシーに乗り込んだ。松平もそれに続く。
 ふっと緊張が抜けた。そのまま床にへたりと座り込む。完全に膝が笑ってた。
「……お前さん、本当に要領が悪いねぇ」
「……要領よけりゃこんなことやってねえよ」
 凝り固まった拳を開けば、びっしょりと濡れそぼってた。
「なあ」
「ん?」
「パスポートの発行って何時まで受け付けてんのか知ってる?」

「あの坊主は強いぜぇ? 知ってんだろ?」
「さぁ、どうだったかな」
 タクシーの中ではタバコが吸えず手持ち無沙汰な松平がポケットチーフをこねくり回しながら呟けば、鳳仙は嘲笑交じりで突き返した。
「対局したんじゃねえのか」
「あんなものは対局とは呼ばん。茶番という」
 背もたれに押し付けた肩甲骨をぐいと動かし、背筋を伸ばす。
「本当の勝負とはあんなものではない。あやつはそれが分かっていない」
 思い出して再び嘲笑を浮かべる。鳳仙の元から離れようとする日輪を背に庇い、必死に立ち向かってきた真剣師。負け犬の脱落者がとあざ笑えば激昂して噛み付いてきた。
 てめぇが仕切ってる盤だけが将棋じゃねえ。棋士が全部てめぇの手下だと思ってるなら大間違いだ。
「あのような了見でいる限り、あやつは負け犬よ」
「……そう言ってやるなぃ。若者には悩みが多いんだよぉ」
「ローマに来る? よいことだ。見せつけてやればいい。本当の対局とは、勝負とはどういうものかをな」
 棋士が盤面に掛けるものがなんであるか。それを知って、そして打ちひしがれればいい。
「桂と同じ芸当が出来るわけがなかろう」
 鳳仙はにたりと笑った。

「……起きたか?」
「ん……」
 ゆったりとしたリクライニングシートは桂の細い体をすっぽりと包んでいた。成田を発って8時間。フライトはまだ数時間残っている。窓の外は真っ暗な夜空だった。
 銀時は静まり返った空間を乱さぬよう静かに呼び出しボタンを押し、アテンダントに水と軽食を持ってくるよう頼む。
 ファーストクラスの居住性はさすがに大したもので、桂に乗り物酔いらしき症状は現れなかったが、気圧変化だけは避けられなかったのか頭が痛いと横になっていた。
「夕飯食ってねえだろ。果物頼んだから。そんくらいなら食えるだろ?」
 わずかにリクライニングを起こし、寝乱れた襟元を調えてやる。桂はされるがままだった。ぼうっと熱を孕んだ眼差しで銀時の一挙一動を見ている。その視線に気付き、急に気恥ずかしくなった銀時は自分のシートに背を戻した。
「……寝てないのか?」
「あ?」
「銀時は、寝てないのか」
「ああ、うん……眠くないから。平気だから」
 そう言って、照れ隠しのようにサイドテーブルにおいていたパスポートを手に取る。真新しい赤い表紙が読書灯にぼんやりと照らされている。
 逆効果だった。桂がクスリと笑う。
「また見ていたのか」
「……だって知らなかったからさぁ」
 成人前に着の身着のままで家を飛び出した銀時はこの年になるまで公的な身分証明書というものを持っていなかった。原付の免許も携帯もヤクザから買った飛ばしモノだ。
 だから戸籍謄本を取りに行って驚いた。
 いつの間にか、自分の苗字が『吉田』になっていた。
「……いつから?」
「貴様が出て行ってすぐだったかな……いつでも戻ってこれるように、と」
 銀時は自分の坂田と言う姓が誰から受け継いだものなのかもよく分かっていない。母のものなのか、父のものなのかも知らない。誰も教えてくれなかったし興味もなかった。不都合だってなかった。あの家にいた人間は全員ばらばらの苗字で、それでも家族として暮らしていた。だから出て行くこともたやすかった。自分ひとりがいなくなるだけだから。あの家族は『同じ家に住んでいる』から家族なだけで、それ以外のつながりは盤と駒だけだったから。
 吉田と自分を繋ぐものはそれだけではなかった。それ以外のものを、吉田は自分に与えてくれていたのだ。
「先生は……貴様が将棋を指すのを嫌がっていたからなぁ」
「そうだな……」
 何度も何度も、君は向いてないプロにはなれないと言われた。思い返せばそれは全部正しかったわけだ。
 これからも正しいとは限らないけれども。
「うらやましいな」
「は? 何が?」
 先生に対局のたびにけちょんけちょんにけなされていたことか、昇級のたびに首を捻られていたことか、残留のたびにそれ見たことかと得意げな顔をされたことか。
「俺も、いつか先生の養子に入れてもらうつもりだった」
 銀時のパスポートを目を細めてまぶしそうに見つめる。
「名人になって……先生と一緒に萩に帰って……父と母に会って……そしたらお願いしようと思ってた」
 吉田は生涯独身だった。隠し子がいると言うこともないだろう。桂の実家の病院は今は姉の夫が継いでいるらしい。
 本当に桂はそう思っていただろうし、きっと吉田もそのつもりだったのではなかろうか。
「もう、無理だが」
「……ごめんな」
「何がだ?」
 自分だけが先生の名前を受け継いで。先生から貰ったものを一番ないがしろにしたのは自分なのに、自分だけが先生から一番大きなものを受け継いだ。
「気にすることはないさ。先生がお決めになったことだ」
「そうだけどさー……」
 アテンダントがミネラルウォーターの瓶とグラス、それに葡萄の入った器を持ってきて桂のサイドテーブルに並べる。桂は唇を湿らすように水を含み、葡萄を一粒二粒摘んだだけで満足そうに背もたれを倒した。
「寝るか?」
「ああ、もう少し……」
 毛布を胸元まで引き上げてやり、読書灯を桂の顔に掛からない角度に直す。ふと気付いた。
「そうだ。そんならヅラが俺の養子になればいいんじゃん」
「……何の話だ?」
「だからさ、俺吉田じゃん。ヅラが俺の籍に入ればヅラも吉田じゃん。ヅラじゃなくなるけど」
「ヅラじゃなくて桂だがな。……なるほどな」
「な? いいアイデアだろ?」
「いわゆる結婚というやつだな」
 一瞬時が止まり、そしてボッと銀時の顔に火がついた。
「え、いや、あの、そういうつもりじゃなくて……」
「覚えておくよ。受けるかどうかは別だがな。おやすみ」
 くすくす笑いながら、桂は毛布に潜る。言い訳の機会もなく銀時は沈黙するしかなくなった。
 自分のシートを倒しながら銀時はため息をついた。奇妙なタイミングでプロポーズをしてしまった。これではあのことを伝える機会はもうないだろう。
 お前も先生の籍に入っていれば新婚旅行だったのに、だなんて。