2010年2月14日
雪と錆猫
銀桂、一応バレンタイン。一応。
クリスマスはスタンバるのに、バレンタインはスタンバらないのか。
スーパーで特売になっているであろう製菓用割りチョコを求めて、しくしくと雪の降る中を銀時は歩いていた。マフラーに丹前まで着込んできたが、やはり寒い。今こそが冬の盛りだろう。
日が落ちて久しい街は、すでにチョコの儀式を終えたであろうカップルが今夜の一戦を控えて浮き足立っている。あーあー、よござんしたねえ。幸せでいいことですねえ。ハッピーホワイトバレンタインでございますねえ。
知り合いの女衆からはなんとかもらったものの、そのような甘ったるい儀式は取り交わしていない(もしくは、取り交したくない)。なんとかそこに持ち込めるであろう相手は、終ぞ来やしなかった。
絶対、どこかにスタンバってると思ったのに。玄関先か、窓の下か、建物の裏か。折を見て家の周りを巡回したのだが、結局見つからなかった。
スタンバれよ! こういう時こそスタンバれよ!
マフラーの中で吐いた息は一瞬熱く布を湿らせ、すぐ濡れて冷える。
もういいや、どうせあいつはそうなんだ。全く空気が読めないか、過剰に読みすぎて変な行動に出るかの二択なんだ。糖分に期待していたわけじゃなし、後日、埋め合わせを要求すればいい。積もり始めた雪をざくざくと踏みしめ、銀時は神社への石段を登り始めた。例年特売を行うスーパーは、この神社の裏を抜けた方が近い。
ばさり。目の前の石段に雪の塊が落ちてくる。誰かが上段より蹴り落としたのだろう。この寒い日に参拝客が来るほど流行っている神社ではない。ふと視線を上げるとひどく肌寒そうな格好が目に入った。
雪の日だというのに下駄も履いていない。体は羽織も道行も来ておらず着流しの袷一枚だ。番傘の柄を握る手は冷えて赤く染まっていた。
その手の細さと濃藍の袷はひどく見慣れた、そして今日一日待ち焦がれたものだった。
「……何やってんの、ヅラァ。風邪引く、って、オメーは引かねえか。バカだから」
「おお、銀時。久しいな」
番傘をちょいと上げると、なにやら白い塊を抱えた桂の立ち姿がすべて見えた。垂らし髪の先は雪に濡れて凍っている。官憲に追われ雪の中を隠れでもしていたのか。
「で、何してんの」
「何してる、というより、半分用が終わったので帰るところだ」
そう言って腕の中の塊をゆする。石段を二つ三つ駆け上がり覗き込むと、中には布に包まれた毛玉が丸まっていた。
猫だ。体の大きさからして一歳にはなっていないだろう。サビ猫というのか、黒い毛の中に茶赤の毛が混じり、一見するとどこが頭でどこが尻なのかもわからない。白い布、おそらく桂の羽織に赤黒い染みが点々としているのを見るとケガをしているようだ。
ひゅう、ひゅう、と弱々しい呼吸がかすかに聞こえる。
「……どうしたの、これ」
「昼過ぎにホウイチ殿に神社へ呼ばれてな。行ってみれば縁の下にこの子がうずくまっていた。おそらく車に跳ねられでもしたのだろう」
なんとか引きずり出して病院へ連れていってやろうとしたのだが、人間を信頼していないのか半狂乱で暴れ、余計に傷が開く状況だったらしい。仕方なくそのまま数刻ばかり待ったつい先ごろに、ホウイチが縁の下から猫の首を銜えて引っ張り出し、桂の足元に横たえた。すでに息はか細く、暴れる力も残っていない。
にゃあ。太く短く、ホウイチが鳴いた。
暖かいところへ連れていってやれと。そう言っているのだと理解した。
「ほら」
桂の指が猫の首を掻く。首の毛は一部ハゲて薄くなっていた。
「首輪のあとだ。元飼猫なのだろう。あんなに暴れたのは捨てられた不信感だったのだな」
そのままさりさりと顎の下を掻くと、猫は無意識なのか小さく喉を鳴らした。
「だが、最後くらいはもう一度、人の側にいさせてやってもよかろうよ」
では、急ぐから、これで。そう言って石段を降り始めた桂を、銀時はそのまま追った。
「どうした? どこかに行くのではなかったのか?」
「いいよ、もう。一度はボス猫名乗った義理があるんだ、子分が死にかけてるのをほっとけるかよ」
丹前を脱ぎ、それで桂の抱えた猫をもう一巻き覆う。桂の肩に掛けても結局はこうなるはずなのだから、同じことだ。
桂の小さな隠れ家は、火鉢を起こしてやかんを火にかければ、あっという間に暖まった。シュンシュンと音をたてるやかんから湯たんぽに湯を移し、それと一緒に猫を布団でくるむ。
布団から小さく漏れた顔や前足を、桂は丁寧にお湯で絞った手ぬぐいで拭いていた。
「見ろ銀時。きれいな子だ」
小さな頭にツンと尖った鼻面。耳は大きくピンと立っていて、ときおり薄く開く瞳は深い琥珀の色だった。
「あー……こりゃ美猫さんだな」
「うむ。モテただろうな」
「メスなの?」
「ああ。腹の傷を検分した際に」
傷がどうなっていたのかは何も言わなかった。桂の羽織の汚れ具合を見れば、おおよその検討はついた。今は血を落とすために水たらいに浸されている。
人の身には暑いくらいの室温だった。汗ばんだ銀時は長着を脱いで丸める。桂の凍った髪は溶けて、ぽたりぽたりと雫を垂らしていた。それが畳に染み込むのを意にも介さず、桂は小さな前足をそっと何度も撫で摩っている。
「俺が見てるから、お前風呂行ってくれば?」
「いい。後で行く」
見届けるまで。きっと厠にも行かないつもりだろう。
「頭冷えるぞ」
「大丈夫だ、これしきで風邪を引くような鍛え方はしておらん」
「お前のソレは鍛錬じゃなくて体質だって。……そういう問題じゃねえよ」
もう一枚、きれいな手ぬぐいを湯で絞る。それで濡れた桂の髪を包むように拭いた。手ぬぐいが水気を吸って冷たくなれば再び湯で絞り、なんども繰り返してようやく髪がぬくもりを取り戻したころに、ぐるりと小さく形のいい頭全体を布で包んでやる。これで多少はマシになるだろう。
「すまない」
「いえいえ、どういたしまして」
身動ぎもせず銀時に任せていた桂が、短く礼を言った。こっちがなにを考えているかなど、こいつには分かりきっているのだ。分かっているけど、応じるとは限らない。しかし、疎ましがることはない。
厄介な相手だ、と、改めて銀時は思う。
……なぁん。
小さく猫が鳴いた。桂は身を乗り出し、思わず銀時もそれに続く。
なぁん、なぁん。
力なく布を掻く前足を思わず手に取った。小さく冷たい肉球にぎゅうっと力が入っているのが分かった。
なーう。なぁーう。
何かを呼ぶように猫の声が甲高くなっていく。同時に肉球に篭る力がどんどん強くなる。かすかに爪が出て肌に刺さった。
うなされているかのような、切羽詰った声と小さな力。もう片手で頭を撫でると、何度も何度もこすり付けてきた。
なーーん。なーーーん。
「……なぁーぉ」
桂の口から、人によるものとは思えない猫の鳴き声が漏れた。優しく語り掛けるような、やわらかい声。
なあああぁぁーーーーーん。
そしてそれに応えるように猫が大きく鳴くと、ふつりと小さな前足から力が消えた。
亡き骸はまだ布団にくるんだまま、火鉢の側に置いてある。雪が止んだら埋めてやるのだそうだ。
銀時と桂は、同じ掛け布団の中に包まってじっと膝を抱えていた。ずいぶん昔にも、こんなふうに夜を過ごしたことがあった。
「……お前、猫語マスターしてんじゃねえよ」
「一度は喋っていたからな。貴様は覚えてないのか」
「覚えてねえよ。つーか、覚えるなそんなもん」
もぞりと腰を動かし、桂の身体を後ろから抱きかかえる。顎を肩に乗せ顔の位置を合わせれば、その目がじっと猫を見ているのが分かった。
「なんて言ったの」
「あの猫がな、『どこに行った、どこに行った』と鳴くものだから」
布団の中で、桂の手が銀時の指を握った。大きさは全く違うのに、その感触はあの猫が銀時の指を握ったものと酷く似ていた。
「『ここにいる』と答えた」
「……あっそ」
猫がするように桂の頬に自分の頬をこすりつける。すっかり乾いた手ぬぐいが落ち、まだ若干の湿り気を帯びたしなやかな髪が銀時の頬を撫でた。
「今日、バレンタインだったんですけど」
「そういえばそうだったな」
「お前は半日、別のとこでスタンバってたわけね」
「そうなるな」
「別にいいけどね」
雪はまだ降っているのか、窓の外はしんと静まり返っている。火鉢がはじける音とやかんの蒸気だけが四畳半の小さな長屋に音と熱をもたらしていた。
「雪、深夜まで降るってよ」
「マジでか」
「マジで。結野アナが今朝言ってたもん」
「では、埋めてやるのは朝だな」
「いいよ、提灯くらいあるだろ。今夜のうちに埋めてやろうぜ」
「だがな」
「で、その後はうちにお風呂に入りにきなさい」
すでに冷えた肌は十二分に温まっている。桂も銀時も汗ばんですらいた。
「……不謹慎だぞ、銀時」
「そーゆー想像したお前が不謹慎ですぅ」
細いうなじに額を擦り付ける。雪解けのキンと刺さるような水の匂いに、桂の汗の匂いが混じっていた。
あの猫は多分自分で、そして桂だったのだ。
どこに行ったのだと泣いて、ここにいると言われてようやく眠れる。
きっとあの猫は、自分たちだったのだ。
銀時は桂の背中をぎゅうと抱いた。あの猫が指を握り締めてきたのと同じ強さで、ぎゅうと抱いた。
- at 23:50
- in 小咄