2012年7月28日
ヅラさんはヅラさん以上でもヅラさん以下でもない。
いやあ、大江戸温泉物語すごいね。なんだよ温泉芸者ヅラ子さんって。なんだよ公式グッズが女装姿しかないって。どういうことなんだよ。訳分かんねーよ。
いや、分かるんだよ。分かるのが訳分かんねーよ。
人間の、いや、生物の自己の基本である性別という要素を取っ払ってもヅラさんというキャラクターが確立する、その、なに、なんだ。キャラ立ちというか、メンタルというか、もう存在自体が訳分かんねーよ。
昔、ヅラさんが下ネタやっても痛々しさがほとんどないのは、ヅラさんのアイデンティティが下半身にはないからだと思ってましたが、そこから年月を重ねて、もはやあの人のアイデンティティに「性別」も「人類」もないことが分かっちゃってるわけで。
もう、あの人は「自分」の確立に「自分である」こと以外を必要としていないわけで。
何なの、そのメンタルの強さ。完成形なの、ヒトとしての完成形なの。
まあ、そんだけ強くなった理由はやおい脳ではいくらでも思いつくわけですが、そんなの飛び越えてるわけですよ、もうあの人は。
自分一人で生きていくのに、自分以外の存在は本当に必要としていないわけですよ。
自分以外の誰かと関わるのは、あの人の人生ではなく、趣味だ。
やおいとか女装男子とかは、いわゆる「アイデンティティの移項」「生き物としての役割と精神としての役割の相違」ってのが面白みとしてあると思ってるんですが、ヅラさんというキャラを突き詰めるとそんなものではあの人を語れないわけですよ。
だって、あの人、誰かと関わることで揺れるようなメンタルしてないもの。そんくらいで変わるようなヤワな生き物じゃないもの。
つまりね、もうヅラさんを描くのにカプという概念はいらないんじゃないかなって。そんなものは足枷にしかならないんじゃないかなって。
ヅラ受け同人界は、もう一つ上のステージに進むことを要求されてるんじゃないか。
そう思うのですよ。
そういう感じなので、まだ夏コミの本が決まってません。もう一冊の新刊のスマプリマジョリーナ本作業しながら、表紙ラフ切っては捨て、表紙ラフ切っては捨てしてます。
何かは絶対出すのでお許しを。