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胸騒ぎレッドカーペット [将棋]
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2013年2月12日

胸騒ぎレッドカーペット

 せっかく原作が桂幾&銀桂展開なので棋士モノ第三部第二話。そういう話。


 スペイン広場でジェラート。
 お約束だ、お約束通り過ぎる。とはいえども、少女の頃からの憧れというものはいくつになっても捨てられるものではない。こんなオバさんになっても、だ。
 どうぞアン王女、というジェラート売りの軽口に照れ笑いとグラッツェを返し、幾松は屋台を離れた。ローマに降り立ってからまだ半日というのに、すでに5人の男性からプロポーズを受けている。この国に生まれていれば女やもめを十年も続けていなかったに違いない。
 まあ、断ったのは自分なのだけれど。
 広場の中央に目を向ける。普段は和服姿しか目にしないから、カジュアルなジーンズにジャケットという姿が新鮮だ。そして和服では気付かないその痩躯が際立つ。
 それでも十年前に比べれば背も伸びた。女の子みたいに薄っぺらかった肩も張って、大分男らしくなった。
 別に、オトコノコからオトコになったのネ、みたいな感慨はないけれど、歳をとったのだなあ、ということは感じる。
 何をしてるのだろう。長考している時に見せるような真っ直ぐな眼差しで石畳を見つめて……
 ふとその細い腰が折れ、そろりそろりと足を踏み出し、ころんっとコケた。その先で鳩がバタバタと飛び立つ。
 ……鳩、捕まえようとしてたな、桂くん。
 前言撤回。何も変わっちゃいない。
「桂くーん? だいじょぶ……っと」
 手が塞がっている。このままでは手を引くことも出来ない。ジェラートを口に押し込もうとした幾松の脇をすり抜けて、疾風のように桂に駆け寄る人影。
「おい、大丈夫か? 突き指とかしてねえか?」
「ん? ああ、大丈夫だ」
 助け起こし、服の埃を払ってやる。石畳に突いた手をまじまじと見つめ、よし、と頷く。
「……出番ないわね、あれは」
 副業のラーメン屋の常連でもある銀時の甲斐甲斐しい姿に、幾松は一気食い予定だったジェラートを改めて一口だけ頬張った。

 幾松が将棋を始めたのは遅い。
 早い結婚をした夫が奨励会に在籍していた。その影響だ。結局彼は年齢制限で退会するより先に病でこの世を去り、幾松の手元には義父の残したラーメン屋と亡夫の残した将棋盤だけがあった。
 じゃあ、どっちも私が蹴りを付けてやろうじゃないの。
 人は彼女のことを女傑と呼ぶ。
 女手一つでラーメン屋を切り盛りしながら、暇を見つけては隣の将棋道場に通った。麺を茹でながら常連と脳内対局したこともある。
 いくまっさんなら女流狙えるんじゃね? と言った味噌ラーメン常連が銀時であり、もしも育成会に入ってみたいというなら師匠になる、と申し出てくれたのが醤油ラーメン常連の桂である。

 今でもラーメン屋は続けている。女流棋士の収入だけでは生計は立ち行かない。週に何度も臨時休業が入る不義理な店だが、理解ある常連に支えられ何とかやってこれた。
 今回も竜王戦海外対局の同行という一週間掛かりの大仕事に、快く送り出してくれた。これが幾松の女流棋士としてのキャリアにつながるはずだ。
 ……それだけなわけじゃないけど。残ったジェラードのコーンを口に押し込める。
「らいじょぶ?」
「? 何がです?」
「さっき。転んでたじゃない」
「ああ……」
 未だ広場の真ん中にボケっと突っ立ってる桂に声をかける。一応は師匠に当たるのだが、五つも年下な上に、桂が高校生時分の頃からの付き合いだ。今更敬語で畏まるような仲でもない。
 ぼんやりと手のひらを見る桂の顔を覗き込む。
「時差ボケ?」
「そう……かな? 時差というのがよくわからないが」
「疲れてんのよ。あんた昔っからもやしっ子だし」
「幾松殿までそういうことを」
 軽く唇を尖らし、白く凍った頬に赤みがついた。
「銀さんにも言われた?」
「でなきゃ、あいつがイタリアくんだりまで来るわけがない」
 桂の視線の先を追うと、銀時は広場の外れで竜王と立ち話をしていた。割りと砕けた雰囲気だ。
「娘さん預かってるとか言ってたっけ」
「そのくせ、顔を合わせるのは二年ぶりだそうだ。ふざけた奴だ」
「桂くん、告られたんだって?」
「……何故それを?」
 あらやだ、すごい顔。
「聞いたから。本人に」
「なんで言うんだ。本人が」
「さあ? 牽制してるつもりなんじゃない?」
 肩をすくめて、オーバーアクションのハリウッド女優のようにおどけてみせる。
 桂は笑ってくれるかと思いきや、ふざけてる何を考えてるんだ恥ずかしいとイライラ呟くばかりだった。
「やっぱアレね。棋界のイケメン王子のモテっぷりは違うわね」
「モテません」
「知ってるわよ。あんた、好みがおかしいのよ」
 やっぱり笑わない。いつもの無表情に仏頂面が加わり始めてる。それでも少しずつ表情に生気が戻ってきた。
「元気でた?」
「あんまり。過去の辛い思い出が蘇りそうだ」
「大丈夫、あんたそんくらいで崩れるメンタルしてないから」
「幾松殿に何が分かる」
「拗ねないでよ」
 おーい。後ろから声をかけられ振り向く。服部だった。
「お二人で一枚いいかい? せっかく風光明媚なローマだってのに、他はヤクザみてえなオッサンばかりでさ。華がほしいんだ」
「……変な週刊誌とかに売らないでしょうね?」
「よしてくれ。こちとら将棋一筋でやってるんだ」
 仕方ないわね。幾松は軽く髪を撫で付け、カメラを構えた服部の指し示す位置に足を動かした。
「ほら、桂くんも」
「あ、はい」
 軽く腕を引く。やっぱり大きくなった。

「やっぱり美人さん同士ってのは絵になるなあ」
「……知らねーよ」
「妬いてんのかい?」
「妬いてねーよ!」
 銀時が竜王に向かって唾を飛ばす。
 生まれて初めて踏んだ異国の地。空港でいきなり肩を叩かれたと思ったら、『おい、神楽ちゃんからお前がホモだってメール来てんだけどマジか』だ。こんな思い出、いらない。
「あれだろ? あの子ら昔付き合ってたんだろ? おじさん、棋士の皆さんのことはよく知らねえからわかんねえけどさ。どうなってんの?」
「あーあーあー、知りませーん! きーこーえーまーせーんー!!!」
 竜王。通称・星海坊主。
 長年闇社会の伝説だった流しの真剣師であり、五年前、唐突にアマ竜王位を獲得。そこから竜王戦本戦を一気に駆け上がり、初のアマチュアからの竜王位獲得に至った。そこから四期、竜王位を防衛し続け永世竜王への王手をかけている。まさに竜王になるために生まれてきた男である。
 銀時にとっては駆け出しの真剣師だった頃に世話になった恩人であり、『おじさん、ちょっとプロの世界見てくるから神楽ちゃんの世話頼むわ』と娘を押し付けられたろくでなしのオッサンである。
「いやー、お年ごろになってく神楽ちゃんをいつまでもお前さんに預けとくのは心配だったけど、ホモなら安心だわ。今回お前さんが来たのも、いくまっちゃんとヅラくんの焼けぼっくいに火がつかないように……」
「ちげえよ! 幾松が来てるだなんてこっち来て初めて知ったよ! 来てよかったヤバかったと思ったけどさ! いや、そうじゃなくてさ!」
 ガリガリとブーツで石畳を引っ掻きながら銀時は言い訳じみた言葉を重ねる。
「大体、プロの世界覗いてくるわって何年居座ってんだよ。なげーよ、長すぎるよ。さっさと娘迎えに来いよ育児放棄してんじゃねーよ」
「うーん、永世とったら引退するつもりだったんだがな」
 パンとズボンの埃を叩きながら、星海坊主がうんこ座りから立ち上がる。
「プロの世界見るっつってもなあ。おじさん、結局プロの友達なんか一人も出来なかったし。他の棋戦もなんか居心地悪くてサボってばっかだし。第一、会長があいつだって知ってりゃプロになんかならなかったっつーか、マジで五年口も聞いてないしー」
「喧嘩した女子中学生か」
「でも、もう少しここで盤に向かってたいなあ、と思うわけよ」
 ポケットから取り出したしわくちゃのタバコを銜えようとして、屋外禁煙の看板に気付き、苦笑いを浮かべる。
「兄ちゃんもプロ目指すんだろ?」
「まあね」
「おじさんはな、これでも長年真剣師やっててな、ここで勝たなきゃ殺されるとか自分が勝ったら相手が死ぬとか、そんな対局いくらでもやってきたけどな。それでも、プロと対局するときのほうがずっとおっかねえよ」
 口寂しさを埋めるように、手の中で何度もタバコを回す。
「特にこの……竜王戦第一局が一番おっかねえな。どんな若造でも目つきが違う。そりゃあそうだ。俺が座ってるのは将棋界最高の竜王の座で、どいつもこいつもこれが欲しくって死に物狂いで駒を握ってやがる。そんな奴らを何十人何百人何万人と蹴り落として蹴り落として、俺の目の前まで這い上がってきた挑戦者の目が怖くねえわけねえわな。真剣師が背負ってるもんは所詮てめえの薄汚ねえ命と日陰モンの下らないメンツだが、あいつらが背負ってるもんは全棋士の『将棋』そのものだ」
 声に熱がこもるとともにタバコは動きを落とし、握りこんだままその拳は動かなくなった。
「あんなおっかねえもん、娑婆じゃぁとんとお会いできねえよ。悪いけどな……もう少し浸からせてくれ」
「……おっさん、前から思ってたけど変態だよね」
「ホモに言われたくねえな」
「ホモは変態じゃねえよ! ただ本能から自由になった人だよこの変態! ハゲ!!」
「ハゲは関係ねえだろうが、ハゲはぁ!」
「おーい、そこの場外馬券場コンビ」
「「誰がWINSだぁ!」」
 服部の声にハモって怒鳴り返す。
「ウインズっていうの? よく知らねえよ、俺賭け事とかやらねえし。これでもボンボンだから」
「じゃあ、人を場外馬券場呼ばわりすんな!」
「めんごめんご。いや、写真撮らせてくれねえかなって。小汚いオッサンの写真なんか撮りたくはないんだけど、さすがに現役竜王のスナップが一枚もないのは問題なんでぇ」
「相変わらず口の聞き方知らねえな、兄ちゃん。別にいいが」
「あ、じゃ、おれはお暇して……」
 桂と幾松を引き剥がそう。そう踏み出した銀時を星海坊主が引き止める。
「お前も写ってけ」
「……何でよ。俺ただの部外者なんですけど」
「来年の竜王なんだろ?」
 ドラマチックじゃねえか。ニヤリと笑った星海坊主の目が、最高におっかなかった。
 なるほど。
 これは病み付きにもなる。
「じゃあ、二人でそこに並んで……うん、そう……ひでえなこれ、夕暮れのローマが完全に府中だわ」
「てめえが撮るって言ったんだろうがァ!」

 慣れない着物に悪戦苦闘しながら、幾松は壇上から降りた。報道陣の目がないのを確認してから、思いっきり肩を伸ばし首を回す。大和撫子然とした振る舞いはキャラじゃない。
「……私、英語出来るって言っても日常会話くらいなんですけどねえ」
「いいのよいいのヨォ。通訳さんが困んない程度にやってくれれば」
 そもそも立会人がアンタじゃなけりゃ通訳補佐なんて役目いらなかったんじゃないか? 幾松がじろりと松平名人を睨みつけるが、どこ吹く風と口笛を吹いている。
「……なんで会長が来ないんです? あの人、英語結構できるでしょう」
「ほっちゃんはこねぇよう。あの竜王じゃ」
「あのオッサンたち、いくつになったら女子中学生みたいな喧嘩やめるんでしょうね」
「桂が勝てば、来年は顔出すんだろうがなァ」
「……勝てると思います?」
 壇上を振り返る。 竜王戦第一局一日目の大盤解説。先程まで松平と幾松が解説していた局面だ。
 まだ序盤から中盤に差し掛かったところ。しかし、すでに竜王優勢の色が濃かった。
「さぁ、どうだろうねぇ」
「どうだろうねえ、って」
「いや、あのハゲのおっさんは強いよ? 全く衰えてねえしな。でも、てめぇが衰えてなきゃ勝てるってもんじゃねえからな、将棋は」
「桂くん、強くなってます?」
「桂が弱くなったところを見たことはねえな」
 タバコ吸えるところ探してくるからまたあとでな。松平名人はそれだけ言い残して廊下の奥に消えた。
 角をひとつ曲がった扉を開ける。小さな会議室には、ところ狭しとパソコンやら電話やら将棋盤やらがひしめき合っていた。記者や棋士たちの控え室である。普段なら見知った観戦記者や地元の引退棋士程度しかいないのだが、さすが海外対局、海外報道の記者のみならず、日本から来ている記者も知らない顔が多いし、テレビカメラも何台も回っているようだ。盤を挟んでいる面子も国際色豊かだ。
 床を這うケーブルを草履で引っ掛けないように幾松は慎重に足を運び、見知った顔までたどり着く。服部はノートパソコンの前で云々唸っていた。ネット棋譜中継に入力しているらしい。
「お疲れ様」
「おー、いくまっちゃんお疲れー。解説良かったよ」
「そう? おかしなところなかった?」
「いや、全然。読みも良かったんじゃないの」
 ほっと胸を撫で下ろす。女流プロとは言え、幾松の棋力は服部と同程度が多少劣るくらいだろう。頓珍漢な物言いで世界中に恥を発信していなかったか少し不安だった。
 もう一人いるだろう顔馴染みを探して部屋を見回す。
「銀さんは?」
「さすがにただの付き添いパンピーを控え室に入れるわけにゃいかねえよ。大盤解説の客席で我慢してもらってる」
「見当たらなかったけど……」
「パツキン外人さんに埋もれちゃったんじゃないの?」
 ああ。いつも彼を探すときはあの目立ちすぎる白髪頭が目印だった。彼でも周囲に埋もれる場所というものはあるのだな。
「じゃあ、まだ客席かしらね」
「多分ね」
 大盤解説が終わっても会場には棋譜の中継が流れ続けている。それを見ながら将棋ファン同士がああでもないこうでもないと語り合うのも、タイトル戦の楽しみだ。
「? なんかあいつに用か?」
「用、ってんじゃないんだけど……」
 口に出すべきではないのかしれない。棋士としての読みではない。女流としての勘でもない。しかし、誰かに相談しなければ幾松の気分が落ち着かなかった。
「何よ。俺で良ければ聞くけど」
「……いい? あんたも友人だと思って言うけどさ」
 そっと身をかがめて、服部の耳元を口を寄せる。
「桂くん。なんか企んでる」
「……そりゃ、企んでるだろう? 対策だか新手だか知らねえけど」
「そうじゃなくて。あれ、絶対なんかやらかすよ」
「……俺にはいつもの居飛車にしか見えないけどなあ」
「駒だけ見てりゃわかんないでしょうね。そうじゃなくて……立ち振る舞いとか、考慮時間とか……そう言うの全部ひっくるめて、なんか不穏でさ」
 だから、少し松平名人を問い詰めてみた。あの不穏さが棋士に感じられるものなら問題ない。しかし、幾松にしか分からないものだったら……
「銀さんの耳に入れといたほうがいいかなって」
「女の勘ってやつ? 将棋にも効くのソレ」
「効くわよ。私、あんたらが知らないあの子を知ってんだからね」
「……すごい説得力だ」
「でしょ?」
 服部が机の上を軽く寄せて開ける。
「ジャンプ野郎は俺が呼んでくる。あんたが客席に降りるわけにゃいかないだろ。その間、手が進んだらここに、っと」
 中継カメラのマイクが駒音を拾い、記録係が読み上げる。後手である竜王が指したのだ。考慮時間は3分程度。早いペースだ。
「えーと、52手目、2五歩、と。これならあと10分は余裕あるな。じゃ、行ってくるから……」
 ぱちん。
『先手、6七銀』
 ざわっと控え室の空気が揺れた。
 ノータイムで桂が指した。竜王の手から30秒もたっていない。考慮時間の消費はゼロだ。
 ノータイム? どういうことだ? 研究済みの手? だからといって、タイトル戦でノータイムって……
 記者たちのざわめきが収まらぬうちに、後手が指した。考慮時間は一分三十秒。挑発に乗った形だ。
 そして、ざわめきが再び盛り上がるよりも前に、
『先手、8三銀』
 後手から10秒も立っていなかった。
 ざわめきというレベルではなかった。爆発だった。控え室も客室も、桂がこの大舞台で見せた一手、いや、将棋に沸き立っていた。
 どういうことだ! 竜王は全て研究されつくされている! 世代交代だ! いや、これはトラップだよ!
 ちがう。そんなもんじゃない。そんな生易しいものじゃない。
 やんややんやとまくし立てる記者の間を縫い、裾にケーブルが絡まるのも構わず幾松は控え室を飛び出した。
「おーい! いくまっちゃん! 俺、これじゃあ席離れられねえって……!」
「いいわよ! 『私がやる』から!」
 男などに頼ってられるか。

 騒ぎを聞きつけてか、まだタバコの匂いが残った松平名人も舞台袖に駆けつけてきた。大盤解説の時間ではないがそんなことも言ってられない。二人揃って再登場した解説者に客席から歓声が沸く。こういう空気も日本では有り得ないものだ。
 拙い英語で緊急の解説をさせてもらいますと挨拶をし、大盤の駒を動かしていく。その間もどんどん手は進んでいく。桂はノータイムを維持し、竜王も消費時間は一分かノータイム。二日制の一日目、まだ昼食を食べたばかりとは思えないペースだ。
 追いつかない。手を追うのが必死な幾松も、要所要所で簡単な解説を挟む松平もじっとりと汗をかいてきた。
『ミズ幾松、これは桂棋聖の研究通りの展開ということでしょうか?』
 通訳が英語で話しかけてきた。
「No!」
 駒を動かすのに集中していたせいか、思ってもいない強い声が出た。いや、それより……これは『解説』を求められていたのだ。本来であれば、松平に伝えて回答を待たねばいけない。
 でも、幾松には分かっていた。
 あの子は、こういう無茶をやらかす子だから。
「ん? どうした、いくまっちゃん?」
「いえ、あの……これは桂棋聖の研究通りということなんですか? って……」
「んで? ノー!って?」
「出過ぎた真似をしました」
 軽く頭を下げる。これで松平が別の答えを出していたなら、完全にアシスタント失格である。
「いや、当ってンよ。ほら、ここだ。見て見て」
 松平がいくつか手を戻す。
「ここ。ここの後手な。これな、悪手。いや、悪手ってほどじゃあねえかな。でもこれのせいで金の動きが狭くなってる。普段の竜王ならまずやらかさねえミスだ。焦っちゃったんだろうなぁ。で、これを見逃さずに先手はと金を寄せてる。これはな、研究済みだとしたら、ここで悪手を指すってとこまで読んでないとできねえんだな。そういうのは無理なんだな、これが。こういうのは飽くまで相手が最善手なり次善の手なりを指してくるだろうって前提で研究してるからなぁ。ほら、うちの総悟くんいるだろ。あいつなんか、相手が悪手指したら、あからさまに機嫌悪くなるからな。自分の読みと外れてくるから。だからな、研究ってのはありえない」
「つまり……この速さで、『読んでる』ってことでいいんですね?」
「そうなるなぁ」
 松平の解説の要点をまとめ、日本語英語交じりで通訳に伝える。それを再び訳した解説が会場にアナウンスされると、再び歓声が上がった。
 この棋界一の大舞台で早指し戦を仕掛ける若き雄を称える歓声。指笛まで鳴らされ、客席はまるでワールドカップ中継を見るスポーツバーの様相を呈してきた。
 壇上とはあまりにも空気が違った。
 松平と幾松にはこの早指しが何を示しているのか分かっていた。桂棋聖と数多くの対局をしてきた松平と、桂小太郎という個人を深く知る幾松には。
 いや、この二人だけではない。
 客席の右手後方。浮かれた観客たちの中でたった一人、険しい顔で立ち尽くす男。銀時が大盤を睨みつけていた。
 馬鹿ね。心のなかで囁く。
 あの子があんたの思う通りになんて動くわけないじゃない。
「ばかね」
 幾松はそっと桂馬の大駒に手を置いた。

 126手目。先手3四馬。
 そこでピタリと桂棋聖の手が止まった。動き出した52手目から二時間足らず。桂棋聖の持ち時間は5分消費したのみ。
 記録係を務めている九兵衛はようやく鉛筆を置き、ストップウォッチを握りしめて凝り固まった指をほぐす。ついでに背伸びをすると、肩甲骨がバキバキと音を立てた。
 緊張した。記録ミスも読み上げミスも許されない。しかし、ひとつひとつ確認してモタモタしていれば局面は進んでいってしまう。極限の緊張感を強いられていたのは、対局者だけではない。記録係も同じだ。
「すまないな」
 最初、誰が誰に呟いたのかも分からなかった。桂棋聖が自分に言っているのだと分かり、慌てて居住まいを正す。
「いえ、あ、え? あ、はい!? なんだ!?」
 なんだ、じゃないだろう。自分でも焦っているのが分かる。
 気遣われた、のだろうか。
 自分が海外対局の記録係という大舞台に連れて来られたのは、奨励会初段以上の唯一の女性会員であるからというのは分かっている。
 いつも通り、『客寄せパンダだな』と桂棋聖から嫌味の一つも言われるかと思った。
「疲れるだろう。記録係」
「……はぁ……まあ、そうだな」
 桂棋聖は手こそ動いていないものの、脇息に頬杖をつき盤面を見つめたまま、視線一つこちらにはやらない。しかし、今対局室の中には自分と桂棋聖しかいなかった。立会人は緊張感に負けてか30分ほど前にトイレに行ったまま帰ってこないし、竜王も桂棋聖の手が止まってから、『ちょっと考えてくる』と言い残して席を外している。
 桂棋聖の表情は読めない。九兵衛から見える横顔は、頬を覆う手が目元以外すべて隠している。
「封じ手は?」
「え?」
「封じ手は何時の予定だ?」
「え……午後6時……あと一時間半だ」
 唯一見える目元が固く閉じられたかと思うと、ゆっくりと薄目を開いた。
「封じ手までには戻る」
 そう言って桂棋聖は退室した。記録係の机を横切って行く時、その頬が雪よりも白く凍っていることに気付いた。

「桂くん」
 幾松は、桂の手が止まってから、ずっと対局室の扉の前に待機していた。
 きっと出てくる。そしてその時は、倒れる寸前だろう。
 思ったとおりだ。
「……女流に読まれるのは、悔しいな」
「ふざけたこと言ってんじゃないの。ほら、肩つかまって」
「大丈夫、歩けるから」
「嘘つき」
 ドンと肩を突けば、そのままよろめいて転びかけた。ぐっと腕を掴んで支える。
「……幾松殿、ひどい」
「他人に心配かけるあんたはひどくないの? ほら!」
 掴んだ腕をそのまま肩に回す。
「もやしっ子のくせに背ばかり伸びて。全くもう」
「はぁ。すいません……」
 桂に用意されたスイートルームは最上階だ。行き帰りの時間が惜しい。
「私の部屋でいい?」
 幾松のシングルなら渡り廊下を通ってすぐだ。
「……いやらしいことしないって約束してくれるなら」
「しねーよバカ」
 本当に投げ捨てて引きずってやろうか。
「ヅラァ!!」
 ああ、やっぱり来た。対局室がどこか分からなかったのだろう。赤絨毯の廊下の奥から必死に駆けつけてきたのは銀時だった。
「銀さんストーップ!!」
 15m手前でピタリ、と足が止まる。
「……え? ストップ?」
「ダメ。まだ対局中よ。部外者との接触は許可できないわ」
「部外者って……でもそいつ!」
 銀時が指差す桂の顔は真っ白だ。だんだん呼吸も荒くなってきた。そういえば喘息持ちだったっけ。
「気持ちはわかるけど許可出来ないわ。一日目が終わってからならお目こぼしできるから。我慢して」
 桂の肩を支えながら歩き出す。重い。腰に力が入っていない。早く寝かさないと。
 立ち尽くしたままの銀時の横を通りすぎる。
「我慢したくなかったら、さっさとプロになって」
 嫌味なのか、励ましなのか。幾松自身でもよくわかってなかった。

 羽織を脱がしてベッドに寝かせる。フェイスタオルを冷たい水で絞って口元に持って行くと、すがりつくように顔を覆った。
「寝たけりゃ寝ていいよ。一時間たったら起こすから」
 帯も緩めたほうがいいだろう。袴の紐をほどきながら幾松は言った。
「……いやらしいことしないって言ったのに」
「いいから寝ろ! バカ!」
 引っ叩いてやろうかと顔を覗きこんで、目が合った。
「……勝とうとしたわね?」
「負けるつもりで将棋指す奴はいないだろう」
「そうじゃないでしょ」
 第一局目は体力面で桂不利。それが下馬評であり、桂自身もその調整出来ているだろうと思っていた。
 違った。
 この不利な状況で竜王を完封し、完璧な優位を獲得するつもりだったのだ。
 あの老獪にして理不尽な竜王相手にペースをつかむには、これほどの無茶が必要だということだろう。
 持ち時間をほとんど消費せずに一日目を終えることで二日目の優位を獲得し、封じ手のリードも握った。いくら神経が5mm鉄板でできている竜王といえど、ここまでグチャグチャに崩されて平静で入られないだろう。現に悪手もいくつか出た。
 これで第一局を桂が奪えば、一気に苦手意識がつく。天敵と言ってもいいかもしれない。
 七番勝負を通しての優位を獲得するために、この二時間、桂は全力で突っ走った。
 脳を極限まで追い詰め、一秒たりとも集中を途切れさせず、盤にのめり込んだ。将棋界最強の男を振り切るための『速度』を、この細い体から絞り出した。
「死ぬわよ」
「ベニスじゃないのが残念だ、とか?」
「ばか」
 唇を寄せた額は、氷のように真っ白なのに火のように熱かった。

「男ってやつは、本当にどうしようもないんだから」