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王子様と秋の空 [将棋]
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2009年2月24日

最果てLOVERS 後

 こちらの続き。


 その日から、桂は笑うようになった。微笑みや目を細める程度だが、確かに笑うようになった。釣られて自分も軽口を叩くことが多くなった。そういえば、昔は座敷に上がってこまっしゃくれた口上で場を沸かせたりもしていたのだと、今更のように思い出した。
 何でお前はそんな鯱張った喋り方をするのだと聞かれ、侍はこう喋るものでござると答えれば、桂はくすくすと笑った。
 買い物などには、二人連れ立って出掛けるようになった。自分が不在の間に何かがあっては行けない。外を歩く時、桂は女の姿を装う。女帯を締め髪を結った桂は臈たけた美女にしか見えなかった。化粧など紅を刺しているだけだというのに、店にいたどのあねさまよりも艶やかな女振りだった。
 そのように夕餉の買い物を済ませ、ゆっくりと帰宅すると三和土に見覚えのある雪駄が脱ぎ捨ててあった。居間を覗けば思った通り、派手な丹前を肩に引っ掻けた高杉が不機嫌そうに煙管を吹かしている。この家に煙管盆などないから、盥に浸してあった湯飲みに灰を落としており、畳の一角が濡れた灰で汚れていた。桂はそれを見て、柳眉をしかめる。
「行儀が悪い」
「うるせぇ。そんなら灰筒くれぇ用意しろ」
「俺は煙草はやらぬ。必要であれば貴様が持って来い」
「座れよ。話がある」
「待て、これを着替えて……」
「かまわねえよ。どんな格好だろうが、てめぇはてめぇだ」
 ふう、と溜め息をつき、桂は高杉の向かいに腰を下ろした。短い説教と口答えの後、各地に離散した志士の現状について話始める。己が首を突っ込むことでもなく、場を中座し台所で夕餉の支度を始めた。
 魚を焼く以外は昼の余り物を寄せ集めた膳だ。自分の分の切り身を高杉の膳に盛り付けた。一声かけて膳を並べていると、酒はないのか、ないなら買ってこいと高杉に言い付けられる。腰を上げかけたところで桂に止められた。どうせ貴様しか飲まぬのだから、貴様が買いに行くがいい。くくくと小さく高杉が笑う。
「随分と仲良くなってるじゃぁねえか。情が移ったか」
「己の刀を邪険に扱う必要があるか?」
 くっくっくと引きつるように笑い、その格好のてめぇに酌でもしてもらおうと思ったんだがと嘯き、桂の眉をさらに顰めさせた。着替えようと立ち上がろうとするのを、飯が冷めるぜと座らせ、黙々と箸を運ぶ。やや遅れて自分も箸を取ると、ちらと高杉が横目を寄越した。
「相伴させてんのか?」
「別々に食べることもないだろう。準備も洗い物も一度で済む」
「ふぅん。まあいいや。おい、俺ぁ泊まるぜ。風呂用意しとけ」
「客用の布団などないぞ」
「いいさ、てめぇの布団で寝るからな」
 明け透けな高杉の物言いに、桂はばちんと音を立てて箸を置いた。
「晋助」
「あ? 厭か? 銀時や坂本にはほいほいと……」
「晋助! 今日はもう帰れ!」
「おいおい、まだ話は終わっちゃいねえよ。これから話すことが……」
「明日、俺から出向く! だからもう……」
「ああ、てめぇから俺の寝床に来てくれんのか」
 かぁん! とうとう、椀が投げ付けられた。幸い殆ど空だったので畳も高杉も濡れずに済んだが、その激昂した様子に高杉も目を丸くしていることから相当珍しいことなのだろう。
「出ていけ」
 桂の低い声に高杉はやれやれと億劫そうに腰を上げる。座敷を出て行くのを見送ろうとすると、いらぬと桂に制された。明日待ってるぜという高杉の言葉に答えもせず、桂は畳に転がった椀を睨みつけていた。
 もうこうなっては、夕餉は終わりだろう。膳を下げようとその空の椀を拾い上げると、すまなかった、みっともない様を見せてしまったと桂が謝る。一向に構わぬと答えれば、それも困るなと眉を顰めた。
「桂殿は、高杉殿とは念友ではなかったのでござるか」
 そういうことはよく知っているのだなあ、お前は、と桂は嘆息した。
「何故そう思った」
「口吸いを」
「あいつに口を吸われたのなど、五つの時以来だ」
「五つ」
 驚いた万斉の顔を見て桂は小首を傾げる。
「言ってなかったか? 俺はあいつを生まれた時から知っている。同門とは言うが、何、寺小屋が同じだったという話だ。弟のようなものだ」
「弟なら、尚更……」
「弟と義兄弟の契りなど交わして何になる」
 成る程、一理ある。しかし、そうなるとまたひとつ、気になることがある。
「先程の高杉殿の口ぶりでは、桂殿には念友が……」
「子供の前でそういう話はしたくないのだがなぁ」
「案ずることなかれ。拙者、あねさまとまぶの交歓を子守歌に育ち申した」
 はあぁー、と深いため息をつく。何かがふっ切れたのか、やけになったのか、桂はその場で足を崩しごろんと畳に寝転がった。彼にしては珍しく行儀の悪い行いだった。
「あれだ、若気の至りというやつだ」
「若気の」
「至り」
 はああぁあぁぁ??????。長い、ため息が長い。
「……何を言ってるのだ、俺は」
「その念友殿は、今は……」
「いない。どっか行った」
 どっかって。
「俺は捨てられたのだ。そんなもんだ、契りなんて」
 生きるも死ぬも共にする誓い。義兄弟の契りというのは、そういうものではなかったのか。それが念友というものではなかったのか。畳を膝で這いずり、側臥の桂の顔を覗き込む。不貞腐れた顔をしていた。
「それは侍の風上にもおけぬ男でござるな」
「ああ、全くだ。侍を廃業でもしたんだろうよ」
「廃業出来るものなのでござるか」
「出来るとも。置屋の子が侍になる世だもの、やめるなど簡単だ」
「拙者は侍でござるか」
「何のつもりだったのだ」
 ぐるりと首が巡り、桂と目が合った。これ程近くで顔を見るのは初めてだ。睫が長いなと思った。
「では、拙者も桂殿の念友になれるでござろうか」
「……お前、尻を犯されるのがいやで逃げてきたのに、それでよいのか?」
「拙者は売られるのが嫌だっただけでござる。……というか、もう決まりなのでござるか? 拙者が下とか、そういう決まりなんでござるか?」
「そういうものだ、俺の方が年嵩だもの」
「知らなんだ」
「もう少し勉強してからそういうことは言いなさい」
 よいしょと声を出して、桂が起き上がる。茶が飲みたい、あと風呂。要望に応えるために、重ねた膳を持って立ち上がる。もう一つ気づく。
「勉強ついでにもう一つ」
「なんだ」
「とゆーことは、高杉殿は桂殿に乗っかってほしいのでござろうか」
 きょとんと桂の目が丸くなる。はてと小首を傾げて、しばし考え込む。
「そういうことになるのか」
「そういうことになるでござる」
「次の機会にお前から訊ねて御覧」
「相分かった」
 そして数日後、高杉に訊ねてみたら顔を真っ赤にして、『そんなわけねぇだろう!』と否定するので、それを桂の前で物真似してやると彼は腹を抱えて笑い転げるのだった。

 少しずつ、仕事は増えていった。ただ桂の身の回りの世話をするだけではない。桂に成り代わり、桂が討つべき相手を討つ。それが、彼の刀になるということである。
 幕吏、天人、交渉が決裂した攘夷志士。一人一人殺していった。逃げるものを追い、刃向かうものをねじ伏せ、命乞いを聞き流し、迅速かつ確実に夜の闇に落とし込んでいく。
 別にてめぇがドジを踏もうが関係ねぇのさ、代わりはいくらでもいるんだ。
 高杉が言うように、万斉が返り討ちにあえばまた新しい者が桂の下へ行くだけだろう。そして、あの美しい英雄を守り消えてゆくことを誉れとして生きるだろう。
 いやだ。それは己の役目だ。誰にも渡さない、渡したくない。
 万斉が帰るまで、桂はどんな夜更けでも必ず起きて待っている。返り血に汚れた着物を片付け、風呂を沸かし、万斉の傷を手当する。そんなことは自分でできると言えば、お前は俺の刀なのだから、お前が夜を走る時俺も共にあるのだから、人と刃は一心同体なのだから、と、あの白い手で万斉の手を包む。
 渡さない。あの手が握るのは自分だけだ。己の全存在を賭けて、桂の刃となる。
 今の万斉にあるものは、ただそれだけだった。
 その日も斬った。幕府の密偵の疑いがある男だった。違うんだ、俺はただ娘の薬代が欲しかっただけで、そうじゃない、許してくれ。命乞いをし逃げ惑った。あまりに大きな声を上げるものだから、見回り組に見つかり三人ばかり斬った。その隙に姿をくらました男を探して京中を走り回り、橋げたの下でぶるぶると震えるのを襟首掴んで引きずり出し、首を切り落としたのは明け方も近くなってからだった。
 首は見回り組と一緒に橋に晒す。高杉の言い付けどおりだ。見せしめだそうだ。
 一晩で四人も斬ったのは初めてだった。四人分の断末魔が耳奥にわんわんと響く。四人分の返り血が万斉の着物を重く濡らす。一歩踏み出すだけで、酷く疲れる。四人の亡者が足首に絡み付いているようだった。重い、辛い、苦しい。ぜえぜえと息を吐く。腰の刀が妙に重い。万斉の足取りを捕らえて、地の底に引きずり込もうとしているようだ。
 ぜえ、はあ。ぜえ、はあ。息をつく。努めて深く、努めて強く。そうしなければ、もう一歩も歩けなかった。深い息に身体が沸々と熱くなる。もう箸も持てぬほど疲れているはずなのに、血潮だけが熱く沸き起る。まだ斬れる、まだやれる。でも、今日はもう無理だ。夜も白んできた。人通りが多くなる前に帰り着かなければならない。
 まだ斬れるのに、まだ殺せるのに、なぜこの身体は動かないのだろう。なぜこんなに重いのだろう。まだ自分が幼いからだろうか。まだ自分が未熟だからだろうか。
 自分は桂の刀なのに。あの人の代わりに人を斬り、あの人の代わりに全ての泥を引きかぶる。そのためだけに生きているはずなのに、なぜ、なぜ。
 閂のかかっていない裏木戸から庭に入る。いつも桂は、庭に面した座敷にきちんと座って万斉を待っていた。今、その姿はない。寝たのだろう。布団で休んでいるのだろう。当然だ、仕方ない、それが当たり前だ。もうすっかりと朝日は昇っている。
 夜明けの白く冷えた空気。しんと静まり返った庭に万斉は立ち尽くしていた。
 桂がいなかった。待っていてくれなかった。寂しかった、無性に寂しかった。息を吸ったら、ひゅうと喉が鳴った。
「万斉?」
 声を掛けられて振り向く。表の門につながる角から、桂がその身を現した。外に出る時の女の装いに頭からずっぽりと単衣を被り、顔を隠すようにしていた。
「戻ったか。怪我はないか」
 駆け寄る桂の足袋は夜露の泥に汚れていた。探していたのか。戻らぬ万斉を案じて、探していたのか。
 全て滞りなく。万事無事に。ただ今戻りました。
 決まり切ったいつもの口上。務めを果たした侍が主君に告げるべき口上を述べようと口を開いたが、そこからあふれ出したのは泣き声だった。
 わんわんと万斉は泣いた。何に泣いているのかは分からない。疲れになのか、己の未熟さになのか、人を斬るのが怖いのか、辛いのか、桂がいなくて寂しかったのか。ただわんわんと泣いた。桂の友禅の胸元に縋り付き、顔を擦り付けて泣きわめいた。かつらどの、かつらどの、かつらどの。
 泣く万斉の頭を抱き、桂は、すまない、すまないと繰り返した。崩れる万斉の足を支えて座敷に引き上げ、母が子をあやすように膝に抱いた。その桂に、万斉は必死にしがみつく。ああ、なんと細いからだ。いくつも年若い己の方がまだ筋がついているのではないかと思う。骨と皮ばかりの上に分厚い女の着物と帯が巻き付いている。これが己の主。万斉の持ち主。万斉をただの刃とし、万斉だけを己の刃とし、この人は全ての高みへと上り詰める。だというのに、なぜにこれ程儚いのか。折れて壊れそうで、砕けて砂になりそうで、今にも消え入るやもしれぬ。俺が疲れるのはこの人のせいか。俺が傷つくのはこの人のせいか。いいや、違う。俺は刃だ。ただの鉄だ。鉄はものを思わぬ。ただひたすらに眼前の敵を切り裂く。切り裂いて、打ち砕いて、そして俺は何者になるのだ!
 万斉は桂の襟を開け、帯に手を突っ込み、ただひたすらにその細い身体にむしゃぶりついた。白い股に手を掛け、奥をこじ開け、ただただひたすらに。何も考えたくはなかった。何も感じたくはなかった。陽は中天に上り浅利売りの声が聞こえても、万斉は座敷の隅に押し込めた桂の足の間で腰を振っていた。時折、う、う、と声を漏らす以外に、桂は一言も喋りはしなかった。疲れが二人の意識を奪うまでそれは続いた。
 万斉が桂の奥に触れたのはそれっきりで、だからといって何が変わる訳でもなかった。万斉の不安が消えた訳ではなかったし、桂が余所余所しくなった訳でもなかった。ただ、闇討ちの仕事が減った。あれは疲れている、と、桂が高杉に諌言したらしい。
 疲れている。そうなのだろう。刀が重かった。そこに己の意志はない。刀を振るうのは己だが、振り上げる殺意は己のものではない。それは誰のものだ。桂のものだと高杉は言う。本当にそうなのか。桂はこのように人を殺したかったのか。どぶを這いずり、小便を垂らして泣きわめく男を腹を切り裂き、河原にむくろを投げ捨てる。これを一人斬って、どれだけ世が変わるのか。あと何人斬れば世が変わるのか。
 万斉が斬る相手はどれも醜かった。薄汚く、卑屈で、魂が汚れていた。こんな人間があとどれだけいるのだろうか。そいつらを全て斬れば、なにかが変わるのだろうか。そして、その時に万斉の魂は汚れてはいないのだろうか。
 日々が過ぎて行く。時折、桂に向けられる刺客を斬り、時折、高杉から示される相手を斬る。どうにもうそうそとして眠れぬ夜は、桂の布団に潜り込む。背なからぴったりと身体を押し付け、心の臓を重ね鼓動を共有する。それがぴたりと合うと安らかに眠れるのだが、どうにも乱れて足並みが揃わないと、万斉はどうしようもなく寂しくなって桂の長い髪に顔を埋め、一晩中、嗚咽を漏らして泣くのだ。桂はそれを拒みもしないし、抱き締めることもなかった。

 差し向かいの座敷から漏れ聞こえる三味線がどうにも下手糞でいらいらする。下手な芸妓を飼っている。せっかくの春宵が台無しだ。
 東国の攘夷志士を取りまとめるという男から文が届いたのが半月前。是非とも桂小太郎を党首として擁立し、離散した志士達に大きく呼びかけたいというその申し出に、高杉と桂はこの座敷を用意した。万斉は桂の護衛として、襖一枚隔てた行灯もない部屋に詰めている。
 どうにも会談はすれ違いを続けている。男の話は要領を得ない。戦中からこっちの情勢を話し合っているというのに、男の言うことはちぐはぐで、桂たちと同じことを話しているようには思えない。もしや、これが最近増えているという偽士か。いかにも戦で功績を上げたという素振りでごろつきを集め、徒党を組んでは商家や農村から金子や作物を略奪する。憂国の士が復興するためにと言って、逆らったものは天人に与する売国奴と斬り捨てる。
 ならば、桂を擁立したいというのは、その名の元でより楽に盗みを行いたいということだろう。英雄桂小太郎の名を出せば、自ら金子を差し出す者は多くいる。それらの寄進で、桂と万斉は暮らしていたのだ。そのお零れを霞み取ろうというけちな輩である。
 そしてあわよくば。
 段々と話が下種な色合いを帯びてくる。高杉が苛立っている。煙管を打つ音が荒い。
 戦中よりその美しさと凛々しさはかの巴御前の生まれ変わりかなどと言われておりましたがいやいやどうしてその細やかなお姿戦場で刀を振っていたとは思えませぬあたかも静御前白拍子の如きお美しさでいらっしゃる
 白拍子は春をひさぐ遊女だ。
 是非とも私を乱世の義経とさせてはいただけないかその暁には桂殿に江戸屋敷のひとつやふたつ
「ばんさぁい。出番だ」
 間延びした高杉の声に、片手を柄に掛け襖を開け放つ。桂相手にいやらしくにじり寄っている太った四十がらみの男。醜い。なんと醜い。そこを動くな、今斬り捨ててくれる。
 男の濁った目が色めき立つ。
「おうおう、これはまた愛らしい美童だ」
 のしのしと畳を軋ませ、男が万斉に近寄ってくる。殺気に気付いていないのか。会談の場には互いの信用のため、得物は持ち込んでいない。丸腰の男は刀に手をかけた万斉に何の躊躇いもなくにじり寄った。余りに無防備で愚かな振る舞いに逆に気圧される。
「高杉殿のお小姓ですかな。粗野な中にも品のある、よい顔立ちだ。何とも凛々しい。うんうん」
 べたついた手が万斉の体に伸びる。いやだ、触るな。刀を抜こうと高杉の様子を伺うが、その目に殺意は既に失せていた。あまりのことに完全に興味を無くしたらしい。退屈そうに煙管を吹いている。
「どうですかな。この子を私に下さらぬか。必ずこの国を背負って立つ立派な志士に育て上げてみせましょう。なに、桂殿はすでに天下に名を轟かす英傑でいらっしゃる。これからはもっと若い者を育てていかねば……」
 つまるところは美童好みであるらしい。青年である桂よりも、未だ少年の万斉に欲を出した、ということだ。
 気持ち悪い。
 なんだこいつは。けだものだ。性欲だけで動く、けだものだ。己の欲を満たすことしか考えていない。己の今の享楽しか考えていない。けだものだ。気持ち悪い。気持ち悪い。
 母と話していた天人を思い出す。ああ、あれもこのように太った醜い姿をしていた。
 醜い。気持ち悪い。死ね。
「お待ち下さい」
 男の背に桂がしなだれかかった。ぴたりと身を寄せ、細い腕が男のだぶついた胴に回る。おほぅと男が妙な鼻息を漏らした。やはり桂の美貌に未練があるようだ。
 その刹那、桂の右手が男の身体越しに万斉の刀を掴む。
 目にも留まらぬ早さで引き抜き、流れのままに男の腹を両断した。
 んほぅ?
 間抜けな断末魔を上げながら、ごろりと上半身が畳に転がる。絶命の瞬間まで、男は何が起きたかを分かっていなかっただろう。
 切断面から鮮血が吹き出し、襖と畳と、万斉と、そして桂の身体を赤く汚す。
 高杉が激昂する。
「ヅラァッ! てめえ……!」
 決して桂に人を斬らせるな。決して桂に刀を抜かせるな。決して桂を血で汚すな。
「……晋助、俺には無理だ」
 その半身をどろりと赤い泥が汚す。赤黒く染まった面の中で、黒く濡れた双眸が切なく瞬いて万斉を見下ろしていた。
「俺には耐えられん。他の誰かに穢れを押し付けるのも、傷を背負わせるのも耐えられん。俺は、そんなに強くはない」
 ぽろり、ぽろりと大粒の涙をこぼす。ああ、泣き顔まできれいだ。きらきらと澄んだ涙は桂の頬を洗い流し、白い肌を引き立てた。
「すまぬ。俺は至らぬ主だった」
 どっと廊下側の襖が開き、抜刀した男たちが雪崩れ込んできた。どうやら、この店は今真っ二つにされた男の手下で占められていたらしい。
 ふわりと桂が振りかえる。ピンと伸びた背筋のまま、ゆるやかな動作。宙を舞う長い黒髪が、その場の支配者が桂であることを伝えていた。
 撫でるように刀を振れば、どうと倒れる。何の力も入っていないような軽い動作で、それでも誰ひとり桂の側に近づけない。ふわり、ふわりと、ただその長い髪と風を孕んだ袖が翻る。
 今の桂は孤独である。孤独の中で血に汚れ続けている。自分は桂の刀にならねばならなかった。あの孤独の領域に、殺意のみが存在する戦場に、桂の隣りにあらねばならなかった。
 かつら。
 呼び声にこちらを振り向く。血に濡れそぼった髪が、頬から襟元に掛けて幾筋も幾筋も張り付いていた。達者で暮らせ。桂がそう言った気がした。
 次の瞬間、空いていた窓から桂が飛び降りる。二階から地上へ、なんの躊躇いもなく飛び、あたかも重さを持たぬ天女のごとく降り立った。女どもが悲鳴を上げる宿場の大通りを、血に染まった桂が駆けていく。駿足だ。そのまま姿は人込みに紛れて見えなくなった。座敷には血を流し絶命した屍が累々と積まれている。
「あーあ。全部無駄骨だ」
 のっそりと高杉が立ち上がり、万斉の脇を通り抜け床の間から愛刀を手に取る。階下が騒がしい。第一陣が全滅したことが知れたのだろう。
「てめぇも得物を取れ。死ぬぜ」
 そう言って高杉が廊下へ出て行く。得物。偽士どもの刀を使うのは嫌だった。そんな刀を握りたくはない。
 床の間に、桂の残した刀があった。下げ緒で鍔と鞘を強く結び付けた刀。
 迫りくる足音。高杉が刀を抜く気配。万斉は刀を手に取り、封じ紐を引きちぎった。