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2009年5月24日

豆腐と鶏のふわふわ団子スープ

 仔銀桂。あくは丁寧にとったほうがいいです。


 例えば怪我をして血を失った時や、嵐にあって身体が冷たくなった時、銀時は獣に見つからないような場所でじっとすることにしていた。水だけは確保しておいて、食べ物も取らずにただただじっとする。そうして三日もすれば、大抵は調子が良くなる。
 先生はそれを聞くと、ふんふんと興味深そうに頷いた。
 食べたものを腹でこなすというのは、意外と疲れるものなんだよ。腹いっぱい食べると眠くなるだろう。あれは寝ることで体力を腹に回しているんだ。君は腹の分の体力を身体の回復に回していたわけだな。うん、道理に叶っている。
 押入れの奥から樟脳くさい布団を引っ張り出しながら、一人合点が入った風情で喋り続けた。
 しかし、身体は温めるべきだね。なぜなら、体温の調節というのも体力を奪われる大きな一因だからだ。身体を温めようとする力を布団に任せることで、より回復に力を回せる。食べないのは君の勝手だが布団には入りなさい。
 日が暮れるころには帰るからね。そう言って先生は出かけていった。

 無人の屋敷の中に銀時の咳だけが響く。それが妙にわんわんと頭に響いて目の奥が痛くなる。
 寂しい、と思った。一人で洞で寝ていたころは、ただ冷えた身体が重く、かっかと痛む熱が辛いだけだったのに、今は、見上げた天井の高さや物音ひとつしない障子の向こうがやたらに銀時の心を苛む。
 今は何刻くらいだろう。日が暮れるころとは言ったけどそれはいつくらいなのだろう。夕暮れ前か、夕暮れ時か、すっかりと暗くなってしまってからか。
 それとも、果たして本当に帰ってくるのか。
 げほ、げほ、ごほ。一頻り激しい咳に襲われ、喉の奥がえづく。枕もとの盥を引き寄せ、顔を突っ込んでげえげえと胃の汁を吐き出す。腹に何も入れてないから、汁しか出ない。しかし、吐くときはこの方が楽だ。咳が重いときは大抵吐くのだから、やはりものは食べない方がいい。そうに決まっている。
 そうやって何度も繰り返すのは、腹がきゅうきゅうと鳴るのが辛いからだ。この家に来て、腹が鳴ることは減った。三度の飯を食っていれば、そう空腹に見舞われることはない。腹の中が空っぽになることなど、ついぞ無かったことだ。
 寂しいと思った。ぬくい布団は何の慰めにもならなかった。吐くたびに溢れる涙は喉の痛みのせいではないだろう。
 寝てしまおう。それがいい。起きていても嫌な気持ちになるだけだ。ごそごそと布団に頭まで潜り込んで、銀時は目を閉じた。
 じっと身動きもせず、ただ目を瞑る。うとうとと眠りに落ちかけた頃合に、とんとんとんと廊下を歩く足音が聞こえた。先生が帰ってきたのだろうか。もう日が暮れたのだろうか。眠っていないと思ったけど、実はもうぐっすりと寝てしまっていたのか。お土産に饅頭を買ってきてくれただろうか。おかえりなさいを言わないと。先生、おかえりなさい。そこでようやく、銀時は足音がやたらと軽いことに気づいた。
「ぎんとき、おじゃまします」
「……入ってきてから言うな」
 からりと障子を開けて入ってきたのは、思ったとおり小太郎だった。先生が不在だというのに勝手に上がりこむようなやつは、こいつしかいない。何やら大きな風呂敷包みを背負った桂は、銀時の枕元にすっくり座り込んだ。起きて相手をしてやる気力もない。
「かぜを引いたそうだな。先生からきいたぞ」
「そうだよ。うつるぞ、あっちいけ」
「あいにくだが、俺はおさないころに大びょうしていらい、一度もねつなど出したことがない。なんじゃくなきさまといっしょにするな」
「だれがなんじゃくだ。いまだっておさないじゃねえか」
 そう言えばこいつ、以前塾のおやつに出たおはぎに全員が当たったときも一人だけピンシャンとしていた。見た目はひょろりと弱々しいくせに意外と頑丈に出来ている。
「ねつはどんなものだ」
 小太郎の手が銀時の額に押し当てられる。普段はふわふわを触らせろと頭を無遠慮にかき回そうとするのだが、今はさすがに神妙な手つきだった。細い眉が寄せられる。
「けっこうあるな」
「あるよ。ほっとけよ、ねればなおるんだから」
 今までそうしてきたのだから。そう言おうとして、再び咳に襲われた。げほげほと身体を折り曲げ、手は盥を求めて枕元をさ迷う。銀時の意を解したか、桂は盥を引き寄せて差し出した。それに顔を突っ込み再び吐く。ぴちゃぴちゃとはねる胃汁を見て、再び桂の眉が寄る。
「きさま、もしかしてなにも食べておらぬのか」
「……食う気でないし」
「いかんぞ、それでは! 食べないと気力も体力もへるばかりではないか! 先生はなにをかんがえているのだ!」
「いいんだって、俺はこういうのなれてんだから。先生もなるほどって……おい、どうしたよ。どこいくんだ、こたろう」
 信じられん信じられんとぷりぷりしながら立ち上がる桂を呼び止める。
「やかましい! びょう人はねていろ!」
 これだから先生はまったくもう。風呂敷包みを振り回しながら、桂は廊下をとっことっこと駆けていく。どうせなら水を汲んできて欲しかったのだが、あの変わり者では仕方がない。銀時は再び布団に頭まで潜り込んだ。

 風呂敷の中身は、昨日潰したものを先生にお持ちして、と渡された、卵と鶏肉だった。路上でばったり出くわした先生は、銀時が寝ているから渡してやってくれと言った。
 本当に寝ているだけではないか、無責任な。粥にしようと米びつを覗いてみたところ、一つかみもなかった。なるほど、先生は米を買いに出かけたか。しかし、こんなになるまで買い足しもしないとは無計画な。
 他に何かないかと厨を浚えば、水場に盥に浸された豆腐があった。豆腐売りから買い求めたのだろう。うん、これで十分だろう。
 水を張った鍋を竈に置き、干し昆布を一切れ放り込む。遠火にかけ、沸き立つまでの間に鶏肉を細かく刻んでおく。すり鉢に細切れ肉と豆腐を半丁、卵の卵白、塩を入れ、粘るまですりこ木でごりごりと擂り潰す。
 くつくつと沸き立ちはじめた鍋から昆布を取り出し、出汁の味を見る。塩っけが足りない気がするが、胃に何も入っていない銀時にはこの程度でよいだろう。藁と薪をくべて強火にする。ぐつぐつ沸騰した鍋に、すり鉢の中身を一掴み、小さな掌でころころと丸めて放り込む。多少崩れても問題はないだろう。全部鍋に入れ、沸騰の勢いが衰えていないことを確かめた。
 豆腐の残り半丁を俎に置く。ここからは少し気合がいる。小さく息を整え、心身を統一する。包丁は良く研がれて、にぶい光を放っていた。
 すっ、とん。すっ、とん。どこまでも薄く、細く、均一に。慎重に、かつ素早く、刃の進む先をまっすぐに見て。半丁の豆腐を麺のように細切りにしていく。

「ぎんとき、おきろ。ぎんとき、ぎんとき」
 揺さぶられる感覚にうっすら目を開く。息がかかるほど近くに小太郎の顔があって、ぎょっと驚いた拍子に完全に眼が覚めた。
「……なに?」
「めしをつくった」
 だから起きろ、冷める前に食え。もう少し病人を気遣え。
「だからぁ……いいんだよ、食わなくてもねてれば……」
「いいから食え」
 ぐいと目の前に汁椀が突き出された。ふんわりと鶏の匂い。
「え……? なにこれ……うどん?」
「しらん」
「しらんってなんだよ」
「てきとうに作った」
 食えるのかよ、それ。のっそりと身体を起こし、椀を受けとる。このまま拒否していれば、そのうち無理やり流し込んでくるかもしれない。
 なんだろう、これ。汁の中に浸っているのは、ふわふわした肉団子と薄くて白い麺。うどんではないという。
「……ほんと、なにこれ」
「肉だんごととうふだ」
「とうふ? とうふがなんでこんななの? 先生のみそ汁にはさいの目とか……」
「いいから食ってからもんくをいえ!」
 何で病人に怒鳴るんだろう、こいつ。しぶしぶと肉団子を口に運ぶ。口の中でそれは、ふわっと蕩けてなくなった。噛む必要すらなかった。あとには、鶏の香りだけが残る。
「……これ、肉だんご?」
「肉ととうふだ」
 次は、ひらひら薄い豆腐の細切れ。口の中で出汁の旨みを吸った豆腐がほどけていく。
「うまいか?」
「……あじがうすい」
 不味いとは言えず、率直な感想だけを返す。
「だと思った。これをやろう」
 桂は傍らから小皿を取り上げ、銀時の椀に中身を移す。汁の中にぽっかりと黄色くて丸い月が浮かんだ。
「といてからめて食うといい」
 卵の黄身を溶いて、たっぷり団子と豆腐に絡める。口に運べば、濃厚な卵の味が舌に絡みついた。あの淡い味わいではいくら食っても腹は膨れそうになかったが、今はこれだけで満腹になれそうな気がする。
「うまいか?」
「……うん」
 そうか、よかったよかった。小太郎は一人ごちて、いつの間にか運び込んでいた鍋から自分の分を椀によそう。口に運んで、なるほど味が薄いなと塩をぱらぱらと足していた。
「お前、こんなのいつも食ってるの?」
「母上がねつを出したときにつくってさしあげるのだ」
 まだ食うか。銀時の椀が空になったのを見計らって、小太郎が手を伸ばす。すこし腹に入れたら、急に食欲がわいてきた。二杯目、三杯目とおかわりを繰り返す。
「あまりいそいで食うと、はらがびっくりするぞ」
「うん、うん」
 かつかつと掻き込み、鍋の中をすっかり空にした頃合に猛烈な眠気に襲われた。疲れからくる重い睡魔ではなく、うっとり浮かぶようなやわらかい眠気だった。
「汁ものを食うとねむくなるだろう。先生がかえってきたら起こしてやるから、ねむるといい」
「うん」
 何か憎まれ口を叩く気にもなれなくて、素直に頷いて布団にもぐる。枕に埋もれながら、めくれたかけ布団の端を直したり手ぬぐいを絞ったりする桂を見上げる。
「……かえれよ」
「じゃまか?」
「うつるよ」
「だから、俺はかぜなどひかんからだいじょうぶだ」
 にっこり笑って、絞った手ぬぐいを額に乗せてきた。
 お前にうつしたくないよ。お前にこんな辛い思いはさせたくないよ。そういう暇もなく、銀時は暖かな眠りに引き込まれていった。