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王子様と秋の空 [将棋]
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2008年3月 7日

僕は、プロになりたいです

 棋士モノ。新八君修行中。


 げし。
 白足袋が僕の顔面に食い込む。痛い、痛いです姉上。
「新ちゃぁん? 何度言えば分かるのぉ? 将棋はね、囲いを維持するために指すんじゃないの、王様をとるために指すの。何度言えば分かるの、守ってばっかじゃ勝てないって」
「いえ、あの、姉上、僕は出来れば受けて流すタイプの棋士になりたいかなー、って……」
「受けられんのか!? 受けて流せんのか、これを!? 流してみろやこのボケェ!」
 4七歩打。
「……ありません」
「ほらみろぉ! そういう口は一人前に打てるようになってから言いやがれ、チェリーボーイが!!」
 がし、げし、ごす。容赦のない蹴りが僕の頭に降り注ぐ。こんなんが、史上最強の女流棋士、盤上に咲いた白百合と言われる志村妙だとは、ファンクラブの皆さんも報道関係各位も知らぬに違いあるまい。こんな暴力師匠なんですよ、この人。
「新ちゃん? あなた、たしか小学生のときに囲碁と将棋どっちやるかってお父様に言われて、将棋とったのよね?」
「はい……」
 僕の父は碁打ちだった。プロにはなったけど戦歴はぱっとしなくて、町の小さな囲碁教室で子供相手に教えてる、そういうちんまりした碁打ちだった。当時、すでに姉は女流育成会に入っていて、その憧れもあって僕は将棋の道を選んだのだ。
「囲碁と将棋の一番の違い、知ってる?」
「えー……駒の種類」
「バカか、てめえはぁ!」
 ごいん。姉上、顎はやめて、顎は。
「いいかぁ? 将棋はなあ、後に引けねえんだよ! 囲碁はてめえに不利な手しか打てなかったら、打たずに済ませることが出来る。だが、将棋は違う。一度、駒を握ったら最後、てめえの身を削ろうとも突っ走るしかねえんだよ!!」
「あ、姉上! そんなバイオレンスな競技なんですか、将棋って!?」
「あー、そうだとも。さらに言うならなあ、将棋ってなあ、チェスも含め、相手とタマァ取り合う格闘技だ。ボクシング、空手、K-1、綜合格闘技。古今東西殴り合いの競技は多くあるが、相手を追い詰めて追い詰めて、タマ取るか命乞いさせるかまで殴りあうのは将棋しかねえんだよ。そこんとこ分かってんのか、この甘ちゃんはよぉ!」
「痛い! 姉上、鼻フックはやめてください! マジ痛い!」


「まあ、大体あってるんじゃねえの?」
 そういいながら、『師匠』がもう大分くたびれてモーター音のうるさい冷蔵庫からいちご牛乳を取り出す。一気。
「俺は碁は知らねえけど、将棋はそういうもんだよ。一度始まったら、ひたすらガリガリ削りあうしかねえ勝負だ。さすが志村女流王将ってところか」
「……もっと楽しく出来ないんですか?」
「楽しくやれりゃあ、将棋で首吊る奴はいねえよ」
 築30年は経っている雑居ビル。灰色を通り越し鼠色のコンクリートのこの部屋で、『師匠』は何年も将棋を指し続けている。賭け将棋、代打ち、裏レース。大方まともな棋士ではなく、まだこのような将棋指し……『真剣師』がいたのかと、僕は衝撃を受けた。
 弟子にしてくれ、と押しかけたのは一年前。まともな指導を受けたことはない。しかし、彼の将棋を、生き様を見ているだけで、僕はなにかを学べると思ったのだ。
「まだ奨励会諦めてねえの?」
「まだってなんですか、まだって。諦めてませんよ、まだ三年もあるんですよ」
「中学卒業までには入れない奴は、プロにゃなれねえって言うけどなあ」
「……銀さんだって、奨励会入ったのは16だって言ったじゃないですか」
「だからプロになってないじゃん」
 いちご牛乳の紙パックを潰してゴミ箱に投げ入れ、よっこらせと親父臭い掛け声で『師匠』は僕の正面のソファに座った。
 僕らの間には分厚い将棋盤。薄汚いこの部屋の中で、それだけが磨き上げられたぴかぴかの姿をしている。
 ざらららら。つやつやとした駒が、その上にぶちまけられる。ぱちん、ぱちんぱちぱちん。
「新八、今、アマ初段だっけ? 6級が大体、アマ四段って言われてるワケよ。アマ四段って言ったら相当なもんよ。それでもひよっ子なワケ。奨励会には、10歳やそこらでそんだけの棋力持ってて朝から晩まで将棋のことしか考えてねえガキがゴロゴロしてて、そいつらが吐くほど駒指してて、挫折してー退会してーやっとこプロに入ったら勝てなくてー、って、やってるわけよ」
 ぱちん。全ての駒が並べ終えられる。
「俺はそこから逃げ出した男だよ?」
 銀さんは強い。間違いなく強い。それは誰よりも僕が知っている。銀さんは『棋聖』と互角に指す男だ。
 トップ棋士クラスの真剣師。
 奨励会を逃げ出し、行方を晦ませ、場末の賭け将棋で日銭を稼ぐ。明日の食費にも事欠く有様。
 何故なのか。それが僕には分からない。今はプロ編入試験もある。銀さんがその気になれば、すぐにでもプロ棋士として活躍できる。
「なんで、逃げ出したんですか?」
「それは君が自分で勉強することです」
 いつもの底意地悪そうな、人を食った笑顔。
「僕は、プロになりたいです」
「おう」
「姉さんは女流ですけど将棋でお金を稼いでいて、桂さんは多分今一番強いプロ棋士で。近藤さんもこの間、何とかプロになりましたし」
 先手はいつも僕だ。ハンデというわけじゃなくて、自分の将棋を作れという意味で。
「銀さんがプロの人たちを何が違うのか」
 7六歩。
「諦めるなら、それを知ってからにしようと思います」
「知ってみなさい」
 3二金。
「教えてやれるもんなら、教えてやりてえよ」
 その日も僕は銀さんにボッコボコにされて、ついでに神楽ちゃんにもボッコボコにされて、『眼鏡は穴熊に引き篭もってろボケナス』とひどいことを言われてとぼとぼと帰途に着いた。帰りがけに買った将棋雑誌には沖田さんのインタビュー記事が載っていた。
 中学生でプロ入りを果たした天才少年棋士、その生意気な受け答えと相手をいたぶるような指し手から通称『ドS王子』。棋聖戦五番勝負を0-3で下され、王子の初めての挫折だと、マスコミはこぞって囃し立てた。
『悔しくて悔しくて、涙も出なかった』
『あの時、あんな手を指した自分の指を折ってやろうかと思った』
『そうしたら、将棋を指せなくなるのでやめた』
『将棋をやめるなら、死んだ方がマシだ』
 負けたくらいで。
 負けたくらいで、将棋くらいで。
 だからてめえは、駄眼鏡アル。神楽ちゃんはそういうんだろう。