2007年04月09日

そしてまた家族計画を

 こちらの続き。アビ元はラブコメですよ、ええ。


「へたくそ」
 身も蓋も無い。それほどはっきりと言わずともよかろう。
「筆の持ち方が変なんだよ。握り締めるんじゃないよ、童じゃないんだから」
 摘まんで持つ方が変だ。思うように動かせない。
「摘まむんじゃないんだったら。ほら、貸して御覧」
 つたない手つきで筆を握るアビの手に、元閥の細い指がかかる。骨の太さ自体が違うのか、今にもぽきりと折れそうな細さにどきりとする。
 その細い指は無遠慮にアビの指をつかみ取り、組み替え、強引に手を重ね、そっと紙の上に穂先を下ろす。
「ほら、こう……」
 先程までの乱暴さはどこへ行ったのか。撫でるような動きで、筆がスルスルと走る。
『神火』
「これがお前さんの名前だってさ。いい名前じゃないか」
 元閥なんてごつい名前より、よっぽど粋だよ。
 褒められたのは嬉しい、しかし、彼の名を否定することはしたくない。間近に見下ろす笑顔に何も答えられなかった。


 元閥から受ける手習いは、とても分かりやすかった。ひらがなカタカナがあらかた読めるようになってから始めたこともあり、分からぬ漢字でも振りがなさえあれば問題はない。
「とりあえずは読めりゃあいいんだよ。書きものなんて滅多にしないんだから」
 読売や浮世絵の文句に小さく振りがなが振られたものなどが用意され、それらがある程度読みこなせるようになると、次には本を読みたくなる。が、さすがに貸本や蔵書に書き込みをする訳にはいかない。なので、それらは元閥が字を辿りつつ読んで聞かせてくれる。アビが取っ掛かった文字は、別の紙に書いて丁寧に教えてくれる。
 元閥が読んでくれる黄表紙や戯作は大層面白かった。捕り物では、それぞれがどのような役職のものかを説明してくれたし、洒落物では判じの掛け詞などを教えてくれた。男の声と女の声を使い分け、ころころと表情を変えながら本を読む元閥は役者のようだ。
 放三郎から借りた学問書や社の奥にある縁起書、宰蔵が読んでいた芝居本など、持って行けばなんでも読んでもらえたが、一冊だけ、表紙を目にした途端に腹を抱えて笑い出し、決して読んでもらえなかった本がある。『お前にはまだ早いよ』ということだが、何が何やら分からなかった。
「一度ね、やってみたかったんだよ、先生様ってやつをさ」
 神職者とは学者である。放三郎のように蘭学や異国の言葉にまで精通とはいかぬものの、元閥の博学ぶりは学堂の博士にも劣らぬだろう。
「まあ、先生様というより、寺小屋のお師匠さんだけどねえ」
 出来のよろしくない子弟で悪かったな。そう言い返したかったが、事実なので黙っていた。元閥はひとしきり笑った後、アビの手元をのぞき込んだ。
「へたくそ」
 身も蓋も無い。それほどはっきりと言わずともよかろう。


 アビが書き取りをしている間、元閥は書を読むか、三味線を弾いているかどちらかだ。たまに酒が入ることもある。今日は長引いたせいもあってか、杯が重ねられ、とうとう都々逸まで捻り出した。

いけずいけずとなじってすねる あねさまもんくをかむろやっこ
きいてかきつけとじてならって あちきもつねってこまらせたい

「……なんて歌だ」
 アビがつぶやくと、きゃははははと陽気な笑い声で答える。相当酔いが回ってるらしい。一通り出来た書き付けを差し出す。酒精に頬を染めた元閥はそれを受け取ると、鼻歌を歌いながらぺらぺらとめくり出した。
「ここ違うよ」
 指さされた部分をのぞき込み、隣りに腰を下ろす。
「せをはやみ いわにかかるる たきがわの われてもすえに あわぬとぞおもう。これじゃ、二度とお前さまにはお会いしませぬ、って意味だ」
「……難しい」
「まあ、書き言葉と口言葉は違うからねえ。おっつけ覚えていけばいいさ。今日はもう上がりな」
 そして、酒に付き合え、と。完璧に酔っ払っている。うふふ、うふ、と笑うと、くったり肩にしなだれかかってきた。
「あんた、どれだけ飲んだんだ」
「んー、こんくらいかねー」
 ひらひらと人差し指を立てる。一合。それくらいでこれほどに酔うものか。
 と、思った瞬間、その指が翻り背後を指す。目で追えば、その先にはごろりと転がった大徳利。
「……一升やっつけちまったのか!」
「だってぇー、お前さん、のろのろやってんだものー」
 けらけらけらけら。確かに今日は時間がかかったが、それでも一つ半ほどだ。最初の半刻は真面目に書を読んでいたはずだから、一刻で一升空けたことになる。酒豪の気があるとは思っていたが、これほどとは。そりゃあ、一升も空ければ、都々逸も歌いたくなるだろう。
「買ってきたばかりだってのに……」
「うん、そうだねぇ。今日のは旨かったねえ。また、この店の酒がいいねえ。うふふふふ」
 元閥は酔うと機嫌が良くなるのはいいが、限度がない。どこまでも浮かれ、どこまでも飲み続ける。吉原や盛り場にはいい客だろうが、差しで飲むにはきつい相手だ。
「まだあるよう。ほら、お呑みったら」
 知っている。自分が大徳利に三つも買ってきたのだ。酒屋に『なにかお祝いごとでもあるんで?』とまで聞かれた。次からは樽ごと買った方が良いのかもしれぬ。
 もはや猪口でもぐい飲みでもない。普通の湯飲みに、どくどくと酒が注がれる。濁り酒が混じっているのか、かすかに白濁した酒だ。
「いやかい?」
 湯飲みを見つめるアビに、何か勘違いしたらしい。肩にもたれ掛かっているその顔を見ると、拗ねたような悲しいような表情で、じっとアビを見つめていた。
 ひとつ息をついて、湯飲みを煽る。旨い。


 もう一升空けるのに、一刻はかからなかった。途中、都々逸の掛け合いを持ちかけられ、酔った頭で洒落た文句など浮かばぬアビに対し、元閥が罰だ仕置きだと一合一気呑みをさせたせいだろう。幸い、酔っても正体を無くしにくい体質のおかげでまだなんとか起きているのだが、問題は元閥だ。はしゃぎ疲れたのか、完璧に潰れている。脇息代わりの文机にもたれ掛かり、すやすやと寝息を立てていた。
「……元閥。風邪を引く」
 肩を揺すっても、むうむうとむずがるような声をあげるだけ。このような場合、まだ素面に近い者がなんとかせねばならない。裏手の部屋に布団を敷いてから、ぐったりと力の抜けた元閥を抱え上げた。意識を失った人間というのはひどく重くなるものだが、元閥はその細身故かさほど重くは感じない。体温に気付いたのか、アビの胸元に頭をこすりつけ、うふふと笑い声を漏らしている。どんな夢を見ているものやら。
 上等の綿布団の上に、そっと元閥を下ろす。化粧も帯もそのままだが、我慢してもらおう。一仕事を終え、アビが自分の寝床に戻ろうとした途端、
「きゃははははははははははは!」
「ぬぁっ!?」
 突然跳ね起きた元閥に抱き着かれ、そのまま布団に共倒れる。
「げ、元閥! あんた、起きて……!」
「きゃはははは! なにさ、つまんないんだから、お前はぁ。こぉんな別嬪が目の前で潰れてんだよう? 据え膳ってな、このことだよう?」
 その言葉に、かあっと顔に血が上る。酔いと併せて、気を失い兼ねないほどの目眩が襲ってくる。
「なっ、なにを……!」
「あはははははははは! 嘘々、冗談だよぅ。お前さん、その気は無いしねえ。まあ、脚でも触ってたら股ぐら蹴り上げてやってたさ、あはははははははははは!」
 武家や粋人の嗜みとしての衆道があることくらいは知っている。しかし、武家でも粋人でもないアビにその気は無い。だが、今、アビの頭を抱えている白く細い指や、小袖に焚きしめられた香や、白粉の甘い匂いは女のそれと同じ、いや、それ以上の色香をアビの五感に訴えかけてくる。違うのは、その身体にふくよかで柔らかな肉がないことくらいだ。感じるのは、しなやかに引き締まった細い身体。
 だが、それはアビの脳裏に別の感触を思い出させる。
「あははははは、可愛いねえ、お前さんは。あははははは!」
「元閥! 放してくれ、元閥……!」
 元閥の腕はがっちりと首回りを抱え込んでいる。さらには、その両足がアビの腰を抱え、しっかと足首で組まれてしまった。もはやこうなっては、アビの力を持ってしても容易に抜け出せない。それでもなんとかしようともがいていたのだが……
 元閥が熟睡してしまった。
 今度こそ完璧に落ちた。引いても動かず、押しても動かず。これを何とかするには、元閥ごと外の水に飛び込むしかあるまい。
 諦めて体の力を抜く。暴れまわったことで余計に酒が頭に回り、甘い香と柔らかい綿布団が抗えぬ眠気へ引きずり込んでくる。間違いを犯している訳でもなし、何か言われればお前が悪いのだと言い切ることもできる。
 頭がぼうっとしてきた。半ば気を失うように、アビは目を閉じた。


 夢、ではなかったのかも知れぬ。走馬灯なのやも知れぬ。
 峠を走り、時には獣を追う山の女特有の、筋の引き締まった身体。女というのは柔らかいものではなく、しなやかなものだと思っていた。
--やめて、アビ。
 悲しそうな声が、耳の奥に残っている。あの、戸惑いに揺れ、罪に脅えた長い睫毛を思い出す。
--やめて、やめて。お願いだから。
 いやいやと首を振る度に、長い黒髪が揺れた。幼いころから何度も抱き寄せてくれた優しい手が、初めて自分を突き放す。
--私だって、私だって、本当は。
 言葉で確かめ合った訳ではない。しかし、確信していた。互いの心は分かり切っていた。
--アビ、困らせないで。
 困らせたくなかった。彼女にとって煩わしいものになどなりたくなかった。拒否されたくなかった。ずっと側にいたかった。
--ごめんね。ごめんね。
 すすり泣く声が、耳の奥に残っている。


 水の音が聞こえる。まだ泣いているのか。

 違う。
 アビは微睡みと酔いが残る頭を振る。否、ここは山ではない。そして、彼女が常に側にいたあの頃でもない。山にこんな柔らかな布団はないし、悠長に朝寝ができる生活もなかった。
 未だアビを睡魔に引きずり込もうとする暖かな寝床から身を起こし、ぐるりと辺りを見回す。自分に抱き着いたまま高鼾をかいていた神主の姿はなかった。代わりに表から水の音がする。時計が目に入る。もはや八つ時を過ぎていた。
 のろのろと拝殿から這い出る。元閥は艀の向こうにある砂島にいた。向こうもアビの姿に気付いたのか、声を張り上げる。
「やっと起きたのか、このねぼすけ」
 眠気覚ましか酔い覚ましか、行水をしていたらしい。水捌けのいい砂地をいいことに、盥も使わず、手桶で組んだ水をそのまま被っていた。
 何とは無しに近くまで寄る。襦袢の上身を落とし、裸の背中に長い髪が濡れて張り付いている。化粧もしていない。珍しく元閥が男に見えた。
 顔がむくんでいるよ、と言われたので、自分も冷たい水で顔を洗う。きぃんと皮膚が張り詰め、熱が引いていくようだった。元閥は髪を濡らしたついでに洗髪もしてしまおうというのか、手桶にふのりを溶き出した。
「そういやね、アビ」
「なんだ」
「お前さん、なんだって儂の布団で寝てたんだい?」
 思わず水に落ちかけた。
「……あんたに捕まったんだ」
「覚えてないねえ」
「そりゃそうだろう。泥酔してたぞ」
「夜這いでもかけたんじゃあるまいね?」
 なんとか落ちるのは免れたが、膝は崩れた。がっくりと砂地に四肢をつく。
「……元閥!」
「あっはっはっはっは、冗談冗談。いくら酔ってても、お前さんはそこまで分別つかなくなる子じゃないよう」
 ひらひらと手を振って笑う。この人は酔うと立ちが悪いと思っていたが、実は素面も酔っ払いも大して変わらないのではなかろうか。
 元閥はゆるく溶かれたふのりで髪を揉みながら、言葉を続ける。
「まあ、儂もお前もたまには人肌恋しくなることもあるさね。そろそろ夜は寒くなるころだしねえ」
「だから……そうではなくて……」
「勘違いおしでないよう。今夜辺り、月花屋にでも連れていってやろうかって話だよ」
 女のように髪を洗いながら女を買う話をするのだ、この人は。
「……結構だ」
「なんでさ。岡場所の方がいいってのかい?」
 岡場所よりも夜鷹の方がましかも知れぬ。あのようなきらびやかな座敷は苦手だ。女郎衆が喜ぶような洒落も言えぬし、粋な遊びも知らない。元閥のように和歌も狂歌も詠み、三味線も小唄もこなすようにはいかない。第一、白塗り前結びの女郎は人形のようで、暖かな肉を持った女とはとてもでないが思えないのだ。
「ほんっとにつまんない男だね、お前は」
 昨夜と同じことを言う。記憶にはないのだろうが。
 濯ぐのを手伝っておくれ。そう言われ、後ろに回る。腰よりも長く豊かな元閥の髪を洗うのは一仕事だ。水を被るのに合わせて、髪を指で梳く。張りのある艶やかな黒髪が、手の中で踊る。
「そういやねえ……」
「今度はなんだ」
「姉さんってな、なんのことだい」
 痛っ。元閥の小さな悲鳴が上がる。思わず、髪の一房を強く握り締めてしまっていた。
「……何故、それを……」
「寝言だよう。儂が布団から抜けようとしたら、姉さん姉さんってさ」
 恐る恐る手元から顔を上げると、濡れて垂れ下がった髪の透き間から元閥の目だけがこちらを振り返っている。ひどく柔らかな目だった。
「……悪いこと聞いたみたいだね。言いたくなきゃいいよ。人間誰しも秘密の一つ二つあるもんさ」
 そう言って、再び水を被る。アビの手は動かなかった。
 元閥は聡い。おそらく今のアビの態度でほとんどの事情を知ったに違いない。何故、アビが山を捨てたか。アビが犯した罪は何であったか。
 手桶を持ち上げる細い腕。しなやかな背に張り付く黒い髪。ほっそりとたおやかな腰。
 目の前の人物が男であったか女であったか分からなくなる。目の前のこの人が誰であったか分からなくなる。
 ここがどこであったか、今がいつであったか。ここが人の世であるのか幽の世であるのか、分からなくなった。
 まるでマヨヒガだ。
 ならば、ここがこの世でないのならば、
「あっ……!」
 女の甲高い悲鳴ではなかった。男の低い驚きの息だった。かまうものか。ここではそんなものは無意味なのだ。
 背後から抱きすくめ、砂地に押し倒す。驚きに見開かれた元閥の目。ぽかんと開いた口から白い歯が覗く。紅を差さずともその唇は桃色に潤っていた。
 躊躇いもなく、それにむしゃぶりつく。元閥が上げた声はすべて飲み込んだ。細い腰を掻き抱き帯の結び目を探すが、濡れた襦袢はべたべたと纏わり付いて解けない。
 しかし、それは元閥にとっても同じことだ。じたばたと暴れるが纏わり付く衣のせいで一向に抜け出せない。
「……ちょっ! 待て! ばか!」
 元閥がアビの肩を押し、体を引き離す。腕にこもった力は男のそれだ。しかし、アビの太い腕に比べれば哀れなほどにか細い。軽々とその腕をつかみ取り、地に押し付ける。身をよじって逃げようとする元閥に体ごと伸し掛かり抑え込む。腕が変なふうによじれ、痛みと重さに元閥が低いうめきを漏らすが、知ったことではなかった。
 捩って上向いた白い背には、びっしりと細かい砂がついていた。かすかな抵抗を見せるたびに、それがはらはらと落ちる。砂と肌の境目、あらわになった元閥のうなじに食いつくように口付ける。
「ばか! 落ち着け、アビ!」
 普段の余裕ある飄々とした態度は微塵もない。切羽詰まり、声色を作ることもできず、絞り出される声は男のそれだった。かまうものか、かまうものか。
「……あんただ」
「はぁ!?」
「誘ったのは、あんただ」
 そう言ってしまいたかった。惑わせたのはお前だと。お前そのものが自分の惑いなのだと。惑いを振り切るには、惑いを消すか、惑いと一つになるしかない。だから、だから自分は。
 ぴたりと元閥の抵抗が止む。観念したのか。もう一度口づけようと顔を覗き込む。
 泣いていた。はらはらと零れる涙が、耳の方へ落ち、そのまま砂に吸い込まれて消える。一筋涙をこぼす、というような風情のある泣き方ではない。童のようにぽろぽろと涙が溢れている。
「……おやめ。アビ」
 低く呟かれた言葉に手の力が緩む。元閥はその手から腕を抜き取ると、まず最初に顔を覆って隠した。
「悪かった。悪かったよ、アビ」
 魂を抜かれるというのは、きっとこのような感触だ。
 こめかみが痛むほどの勢いで、頭の熱が下がる。先程まで唸っていた下腹は、氷に触れたように萎縮している。体から力が抜け、砂地に肘をついて上半身を支える。
 ここがどこか、今がいつか。自分は誰か、この人は誰か。そして自分が犯した罪はなんてあったか、アビは急速に理解する。自分を惑わせていたものの正体を、完全に理解する。
 脱力したアビの身体の下から、元閥がのろのろと這い出る。背どころか、髪も襦袢も砂まみれだった。特にふのりを流し切っていない髪など、ひどい有り様だった。
 しかし、砂を払う素振りも見せず、元閥はアビから離れて行く。それは逃げようとしているのではない。動きたくとも動けないアビの代わりに、自分が移動する。ただそれだけのための、ゆっくりした歩みだった。
 時折、涙をすすり、しゃくり上げる。艀をいくつも渡り、元閥は遠く離れたはずなのに、そのすすり泣く声がアビの耳の奥に響く。


 ちん、つん、ちぃん。
 三味線の音が聞こえる。元閥が奏でる音ではない。気付けばアビは船を出し、浅草の近くまで来ていた。もう少し北へ行けば吉原である。
『今夜辺り、月花屋にでも連れていってやろうかって話だよ』
 アビはまだ女郎を抱いたことがない。女の気持ちを鑑みず、金で組み敷く行為に踏み出すことができない。しかし、今は違う。金を払うだけよっぽどましだ。
 そのまま大門をくぐり、ふらふらと幾度か入った店の敷居をまたぐ。番頭は上客である元閥の連れの顔を覚えていた。空いた座敷へアビを通す。酒も膳も女もいらぬと言うのを、待ち合わせかなにかと解釈したのであろう。番茶と菓子だけ出して早々に下がった。愛も憎も全て飲み込む苦界の住人だ。訳有り客のあしらい方など心得たものなのだろう。
 昼見世の空いた時間帯だ。店の中は閑散としている。遠くに三味線の音と、カルタか何かで遊んでいるらしい禿たちのはしゃぐ声が聞こえる。女だけの空間が奏でる音は、余計にその女共が遠く隔絶された世界の住人であるように感じさせる。
 ぐったりと壁にもたれ掛かる。
 裏切ったのだ。自分は、裏切った。
 元閥は自分によくしてくれた。頼みもしないのに字を教え、本を読み、物を説いてくれた。気まぐれでわがままだが、本当によくしてくれた。この浮民以下の男が町方で苦労しないように、彼なりに気を割いてくれた。
 自分はその全てを裏切った。どのように謝ればいいのか、考えも浮かばない。
 どうしようもない。山に帰ることなどできぬ、放三郎に事情を話す訳にも行かぬ、元閥がどうすれば許してくれるのかなど想像も付かない。
 ただ、ぐったりと畳の目を見つめていた。何をすればいいのかすら分からなかった。
 ふと、耳に階下の騒がしさが届く。窓を見ればもう日も傾き、夜見世ももうじきという時刻だった。悪い客が押し込んで来たのか、その騒がしさは二階にいるアビへと次第に近づいてきて、

「アビッ! このバカ!!」

 襖を乱暴に開け、飛び込んで来た。
 元閥だ。とんでもない格好だが、元閥だ。
 化粧をしていない。白粉もはたかず、紅も差さずに元閥が外を歩くのを、アビは見たことがない。着物も普段の小袖ではない。藍染めの男仕立ての単を着流している。きちんと合わせていないせいか、半分諸肌を脱いだように着崩れていた。帯もひどい。寝間着に使うような兵児帯をきちんと結びもせず、身体の脇で適当に縛っている。
 一番ひどいのは髪だ。普段の結い方もちゃんとしているとは言いがたいのに、今は下ろしたそれを首の後ろで組み紐で括っているだけだ。
 どう贔屓目に見ても、火事場から逃げ出して来たようにしか見えない。襦袢でないだけましというだけだ。普段の洒落た姿を見慣れているだけに、驚きで身動きできない。店の者たちも元閥の異様な風体に脅えている。
 元閥はズカズカと座敷に踏み込んで来た。大股で歩くし、着崩れているものだから、一歩踏むごとに白い足が膝の上まで露になる。さらに言えば、こんな格好をしているのに下着は普段の腰巻一枚らしく、合間から緋色のそれがかいまみえた。
 アビの目の前で立ち止まると、思いっきり右手を振りかぶり……
 脳天にげんこつを落とした。
「ばかっ! 家出するなんてどこのガキだ! 勝手に上がり込んで店に迷惑かけやがって!」
 後ろで番頭が執り成そうとしているが、元閥のひと睨みで黙る。げんこつで叱られるなど、十かそこいら以来だ。じんじんと響く痛みを押さえながら、元閥の顔を見上げる。
「元閥……どうして、ここが……」
「どうしても糞もあるか! お前が家出するなら、九段の屋敷かここしかないだろう! そこ以外に出入りしたことがあるか!?」
 無い。全くもって正しい。町方ではないアビが一人で出入りできる場所は、九段の小笠原家か顔馴染みの月花屋を除けば賭場や見世物小屋くらいなものだ。
「ひとつしかないってのに、勝手に船を持ち出しやがって! お陰で駕籠まで使ったんだぞ! 代金はお前の給金から引いとくからな!」
 とうとう蹴りが入り出した。抜け道を走り、駕籠屋に駆け込みと、東奔西走させられた怒りのままにアビの大きな体をげしげしと踏み付ける。
「帰るぞ、アビ!」
「……かえ、る……?」
「当然だ! 家に帰る決まってるだろうが!」
 迎えに来たのだから。
 元閥はアビを迎えに来た。
 何故。
 尊大にそっくり返る元閥の顔をぽかんと見つめていると、廊下からパタパタと足音が聞こえて来た。
「あらあらあらあら。どうなさんした、江戸元様」
 馴染みが暴れていることを聞き付けたのか、看板花魁が押っ取り刀で駆けつけて来た。ふと気付けば、店中の者が座敷前に集まっている。花魁の馴染みと言えば、店にとっては一番のお旦だ。それが普段とは違う風体で乱行に及んでいるともなれば、集まらざるを得ない。
「嬉野か。うちのが迷惑を……」
「ええ、ええ、それはようござんす。なんです、江戸元様らしくもない、こんなに髪を乱して……」
 妻が夫の姿を気にするかのように、そっと側に寄り元閥の髪に触れる。ふと、その眉が顰められる。
「江戸元様? これは……」
「ん? ……ああ、髪洗いの途中だったからね。濯ぎ切れてなかったんだろうさ」
 よくよく見れば、元閥の長い髪はところどころ乾いたふのりで固まっていた。砂を巻き込んだまま白く乾いたふのりで、髪全体が毛羽だったようになっている。
 美しい花魁はかっと目を見開き、すうっと息を吸って、大声を出した。
「まああ! なんざんしょ、こんな格好で出歩くなんて! 番頭! 湯殿の用意を!」
「いい、いい。もう帰るから」
「いいーえ! わっちのいい人をこんな格好で帰しちゃあ、花魁の名に傷がつくでありんす! こりゃあ、湯でなきゃ落ちやしません! すぐに開けますよって、入っておいきなんし! 風呂番、風呂番は!? 手空きの禿でもようござんす! 大仕事でありんすえ!」
 すさまじい見幕だ。元閥も古い馴染みのこの女には弱いのか、はたまた、ようやく自分の格好のひどさに気付いたのか、言われるがままに座敷に押し込められる。
 花魁ともなれば、店の中では権力者だ。上客のために店中の者に指示を出しはじめ、急に座敷は静かになった。襖も閉じられ、廊下を走り回る音だけがする。アビと元閥だけが残された。
 元閥がひとつため息をつき、アビの隣に腰を下ろす。ゴソゴソと袂を探り、煙管を忘れたことに気付いて舌打ちをする。無沙汰に行き場を失った手で己の束ねた髪をいじる。
「……こりゃ、ひどいな」
 ポツリと呟く。そう、ひどい。近くで見ると余計にひどい。泥で汚れた獣の毛皮のようだ。
「なんでそんな格好で……」
「だから、家出小僧を探すためだよ。岡っ引きにでも捕まったら、大変だろう?」
 今までも何度か岡っ引きや奉行所にしょっ引かれそうになったことはある。しかし、その度に放三郎や元閥が身元の保証人となりお咎め無しとなった。しかし、元閥曰くの家出したとなれば、誰も保証人はいなくなる。捕まればそのまま寄せ場行きだ。
「だが、俺は……」
「儂に酷いことをしたのに、かい?」
 固まった髪を解しながら、元閥はアビの言葉を先取った。
「……儂が悪かった、アビ。からかいが過ぎた。謝る」
 これほどに神妙な元閥の台詞を、アビは初めて聞いた。
「もう、お前さんの前じゃ女言葉はやめておく。二人きりの時は狩衣でも着ておこう。それでも駄目なら、九段に移りな」
「違う。元閥、それは違う!」
 そのような理由ではない。元閥が女に見えたから、あんな真似をしたのではない。
 何故、元閥がそこまで気を割かなければならない。酷いことをしたのは自分だ。
「……追い出さないのか?」
「お前は小笠原様からの預かりもんだ。儂の一存で決められるもんか。それにな、一度や二度のお痛でガキを追い出すほど薄情じゃないぞ、儂は」
 お痛。そんな言葉で済ませてしまうのか。
「泣いていた」
「……泣いたなぁ」
「泣くほど、辛かったのだろう?」
「お前さん、もしかしたら儂に嫌われたいのかい?」
 そう問い返され、ブンブンと首を振る。
「なめるんじゃないよ。これでもお前さんよりいろいろ余計に知ってんだ。……抱かれりゃ分かるんだよ、惚れられてんのか、そうでないのかくらい。だからね……」
 一瞬、息が詰まった。全てを見透かしているその言葉が痛かった。
 次の言葉では何が暴かれるのか。アビは思わず目をつぶった。

「だからね。お前さんに、そんなことさせたくなかったのさ」

 とん、と、軽く握った元閥のこぶしがアビの腕を叩く。そっと目を開ける。かたわらの元閥は、柔らかく、優しくほほ笑んでいた。
 元閥は傷つけられて泣いたのではない。
 アビが傷つくのが悲しくて泣いたのだ。
 欲望のままに犯し、傷つけ、居場所を無くす。そのようにアビが傷つくのが悲しくて泣いたのだと。
 彼女もそうだったのだろうか。誰よりもアビに優しかった彼女も、そう泣いたのだろうか。

 そんなふうに、自分のために泣いてくれるものというのは、どれだけいるものか。

「アビ?」
 そっと、出来る限りそっと、ふわりと優しく元閥の肩を抱いた。引き寄せると同時に、自分も身を寄せる。細い元閥の体は、片腕にすっぽり収まってしまう。
「今度は逃げないんだな」
「だから言ったろ? 惚れられてるかそうでないかくらい、すぐ分かる」
 元閥がこちらを見上げて微笑む。
 白粉の甘い香りはしない。笑んだ唇に紅は差されていない。髪に艶はなく毛羽だっており、着物と言えば何度も水を通した藍染めで、香を焚くどころか寝押しが縒れて変な皺が出来ていた。
 綺麗だ、と思った。
 強く抱き寄せようと手に力を込めた途端、元閥がはっと振り返る。その視線を追うと、その先には僅かに空いた襖と、その透き間からじっとこちらを見る小さな瞳があった。
「……まり数、何をしている?」
 元閥が問いかけた。嬉野の禿の一人だ。幾度が宴席で酌をしてもらったことがある。
「……ゆどののよういができました」
「だから、何をしている?」
「えどげんさまがうわきしはったら、おいらんにいいつけよおもいました」
「まり数!」
 ぱっと目が引っ込み、きゃあきゃあというかわいらしい声を上げて、禿が廊下を走って行く。
「まり数、待て! まり数!」
「おいらーん、おいらーん。きいておくんなんしー」
 とてとてという足音を追って、元閥はアビの腕を解き廊下に出る。そのまま駆けていくかと思いきや、はたと止まり、襖から顔を覗かせた。
「ああ、言い忘れた。アビ、お前さんの真心は分かったがね。それと床入りは別の話だ」
 くす、と笑って、頭は引っ込み、あとは廊下で禿とじゃれあう声ばかりが聞こえる。
 あの人は、この吉原に身を落としても、生き延びられるのではなかろうか。
 腕に残る熱を掌でそっと押さえ、アビはぼうっと空を見つめた。手練手管とはこのことだ。


 一刻もして戻ってきた元閥は、化粧を施し髪を結い、やたら若々しい色の小袖を纏っていた。髪が普段のじれったでなく髷の類いであったら、多少薹の立った女郎衆にでも見えたかも知れぬ。
「花魁の座敷で浮気した罰だとか、寄ってたかっておもちゃにしやがって。もう、あいつらには水菓子も持っていってやらんぞ」
 よく見れば白粉が普段より多少濃く、紅も吉原で流行りの丸い描き方をされている。小袖は、先だって嬉野の新造の一人が水揚げした時に祝いとして仕立ててやったものだそうだ。
 嬉野は座敷に呼ばれたとかで、見送りには出てこなかった。大門で門番が一瞬元閥を引き留めようとし、顔立ちを見てはっと気付くのがおかしかった。門を潜ると同時に、ぱらりと頬に水滴が当たる。
「遅い夕立だな」
 元閥が番頭に持たされた番傘を開く。赤色に黒文字で店の名前が描かれていた。それを肩にかつぐ元閥の立ち姿は、どう見ても浮世絵の美人画だ。
「それじゃ、帰ろうか。アビ」
 差し出された番傘を受け取る。
「ああ、帰ろう」
 歩きだすと、アビの腕にするりと元閥の手が絡み付いた。
 その姿も、その仕草も、どれも彼の本質ではないことをアビは知っていた。

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  8. 基準が分からん(自分でも)
  9. プチオンリーお疲れ様でした
  10. ようやく見ました
  11. まだ風邪引いてる。
  12. 気持ち悪い人、降臨
  13. でーぶいでーーー!!
  14. 朱松様164周忌+一週間
  15. お久しぶりです
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