2007年04月18日
Fate/Moira Clotho 後編 『腐り姫』
こちらの後編。
朱元過去捏造。江戸元15〜16歳。朱松さん23〜24歳。
前編以上に捏造バリバリなので、お気をつけください。
微妙に性表現、微グロ表現あり。
「見ろ、初雪だ」
「まだ十月ですよ?」
呼ばれて元閥は渡殿に出る。本当に雪だ。急に冷えがくる。肩に掛けた打掛をかき寄せ、身を震わせた。その姿を見て、朱松は眉を顰める。
「そんな薄着で出てくるやつがあるか。体を冷やすぞ」
「女じゃないんですから、冷やしたからと言っても」
綾の打掛を羽織り、腰の下まで伸ばした髪をそのまま垂らす姿は、姫君そのものだったが、来年には十六になる元閥の頬からは幼いまろみが消えかけていた。細く長い首といい、もうすぐ朱松に追いつこうという背丈といい、その立ち姿にあるのは雅さではなく涼しさだ。
「やはりそなたは江戸の生まれだな」
「東国の田舎者で申し訳ないことです」
八つのころから都風に育てられたが、それが元閥の中に根付くことはなかった。緋袴をいいことに足を投げ出して座る癖は直らぬし、歩く時も平気で足音を立てる。うばやには何度も叱られているのだが、一向に直す気配がない。何よりも朱松自身が『元閥はそれでよい』と認めてしまっているのが原因だ。
そして、屋敷にある書物をあらかた収め、流行りものの戯作や愉快本に手を出し始めたせいか、非常に口が達者になった。もとより、頭の巡りが早く聡い元閥だ。今ではからかわれるのは朱松の方だ。
「背も伸びたし……」
「男ですから」
「ああ言えば、こう言う……」
「可愛くないとでも?」
そっと身を寄せ、にこりと笑う。朱松の袖にかかる白い指は、文字どおり箸より重いものを持たずに育てられ、少女のごとき細さだったが、その長く骨張った作りは少年のものだった。
「……可愛くないということはない」
そう言われては、こう答えるしかあるまい。朱松の言葉に、元閥がキャッキャと笑った。
「でも私も、もうじき髭とか生えますよう?」
「元閥に髭など生えん!」
朱松の理不尽な答えに、またキャキャキャと楽しげな笑い声を立てる。最近声変わりをし始めたのか、鈴を転がすように澄んでいた声は、わずかに曇りだしていた。
「……どのようになろうとも、私はそなたが愛しい」
ぴたりと元閥の笑い声が止まる。元閥が度を越してはしゃぐ時は、不安を打ち消したい時だ。意地が強いものだから、心根を素直に出すということが少ない。幼いころから手元で育てた朱松には分かっていた。元閥は、女童の姿で朱松に愛でられてきた自分の姿が変わり始めていることが不安なのだ。
「背丈が私を越そうとも、骨が太くなろうとも、私が側にいてほしいのは元閥だけだ」
「……本当でしょうか。あれほど慈しみ合ったイザナギとイザナミでさえ、腐り果てた妻を恐れたというのに」
「私はあのような愚は行わぬ」
「あなた様の祖霊ですよ?」
「黙れ」
肩を抱く。髪の香がふわりと匂う。
「そなただけだ」
そのまま御簾の奥に押し込め、火鉢のそばに伏せる。袴の腰紐を解こうとする朱松に、元閥は困ったように眉を寄せる。
「まだ日も高いと言いますのに」
「そなたが拗ねてみせるのが悪い」
夜具代わりに打掛を被る。昼の内から、打掛の下に二人籠り、互いの帯を解きあっているのは子供の悪戯のようで心が躍る。
一刻ばかりも戯れを繰り返し、熱と汗の匂いの籠った打掛の下から元閥は首を出した。
「ぷはっ……!」
冷えた空気を胸一杯に吸い込む。分厚い正絹の下はその熱さで目眩がしそうだった。同じように首を出した朱松が、元閥の裸の肩に小袖をかける。
「……積もったな」
「え……?」
朱松の視線を追い、御簾の向こうを見やると、確かに庭は白い雪で覆われていた。
「刈り入れも残っているというのに……新嘗も終えぬ内から、これほど積もるとは」
「凶事の前触れ、ということでしょうか? 飢饉ですとか……」
眉をしかめる朱松の横顔を見る。元閥の言葉を受け、ふっとその口元が歪む。
「なに、飢饉になれば今上の力が足りぬと謗られるだけよ。この里は私が祀っておる。そのようなこととは無縁だ」
帝は、この国すべてを鎮める神主でもある。宮中で行われる祭りは、そのまま国家守護を願う祭りだ。もう一つの帝の血統を自負するこの里も、宮中と同じ祭りを行う習慣がある。江戸の人間である元閥は立ち会いを許されないものの、それらが深い意味を持つことは知っていた。
「まことに凶事であれば、来月の新嘗祭で分かるだろう。そなたが案ずることはない」
その年の収穫を祝い、翌年の豊饒を願う新嘗祭では、卜占を行うのが習いだ。朱松の卜占は優れている。なにせ、この里から遠く離れた江戸で元閥の父母が亡くなったのを占ったのだ。
「もしも、飢饉となれば……朱松様のお力で避けることはできないのでしょうか?」
無茶とも言える元閥の言葉に、朱松は表情を緩める。
「国を祀るには、その国の龍脈を祀らねばならぬ。さすがに私も、龍穴から遠く離れたここからでは国家守護を願っても届かぬ」
「龍穴……」
「富士を境にこの国は二つの龍脈を持っている。その頭であるのが龍穴。西の龍穴は京の都にあり、東の龍穴は……」
「……江戸の千代田」
「そなたの祀る聖天だ」
朱松が元閥の肩を抱く。この話をする時、朱松は声に憎しみを交ぜる。
「神代から龍穴を守ってきたそなたら一族に、徳川は怨霊を押し付け、城で封じ、龍脈の力を奪った。卑劣極まりないことだ」
「はい……」
「そなたは……帰りたいか?」
顔は見ない。おそらく朱松も元閥の顔を見てはいないだろう。
「そなたはよく学を修めた。まじないの類いはまだまだだが、前島を祀るのに必要はなかろう。その類いは徳川が担ってくれように。そなたさえ……」
「分かりませぬ」
元閥は打掛の中に首を引っ込めた。何故そのようなことを問うのか。何故今問うのか。
「分かりませぬ、分かりませぬ!」
神代より龍穴を祀ってきた一族。女のなりでまじないをし、神を祀り、神を鎮め、人の世に祟り出ぬように奉り仕える者。それが自分の宿命なのだと、神事を学ぶ中で元閥は分かっていた。
帰らねばならない。あの地を祀る者が必要だ。自分の体には、それに必要な血が流れている。痛いほどに理解していた。
それが自分にかけられた呪縛なのだと思うほどに。
離れたくなかった。朱松の側を離れたくなかった。この寂しい人の慰めとなりたかった。
「許せ」
朱松のその一言が、元閥の涙の堰を切った。
卜占は亀の甲羅を火にくべ、その罅で吉凶を占う。故に、どれほど時間がかかるのか分からない。占いの出方如何によっては、第二第三の占いが必要になる場合もある。
元閥は座って待つのに疲れ、寝転がり、脇息を枕に昼寝をし、日が暮れては打掛を被って畳の目を数え、とうとう一晩を明かしてしまった。
朱松は新嘗祭の儀が終わった後、奥の院に籠もったきり出てこない。普段は元閥の話し相手になってくれる分家の若い男どもも同じだ。元閥のいる離れの院には、もう一昼夜、誰も訪れない。
詰まらない。朱松と共に食べようと作っておいた結び飯もすっかり固くなってしまった。母屋に食べ物を探しに行くのも憚られるので、仕方なくそれを口にする。
なにか悪い占いでも出たのだろうか。それを鎮めるための式でも打っているのだろうか。厳見たちの手も借りねばいけないのなら、自分にも手伝わせてほしい。これでも神職のはしくれなのだから。
ああ、詰まらない詰まらない。もう二日目の日が暮れる。棋譜でも並べるかと元閥が行李を漁り出したころ、ようやく渡殿から足音がした。
来た。その足音は常にない荒々しいものだったが、元閥は気にも留めず、御簾を弾いて渡殿に出た。
「朱松様!」
己の声の弾み具合に恥ずかしくなりながらも、元閥は朱松を出迎えた。駆け寄ろうとして、足が止まる。
常と異なる朱松の風体に怯えたためだ。
きちんと髻を結い、冠を被っていたはずが、今はほどけ肩を被う髪がひどく乱れている。束帯も着崩れていた。左の頬には一筋の傷があり、血はほとんど止まっていたが、装束の襟元は黒い血で固まっていた。
なによりもその目が恐ろしかった。今まで一度も見たことがない目だった。宵闇の中に爛々と常ならぬ光をたたえ、瞬きひとつせず元閥を見ている。まるで狐憑きだ。
怖い。元閥は、思わず一歩下がった。今まで朱松を怖いと思ったことなどなかった。
「あ……かまつ、さま……」
朱松の唇がにぃと笑う。まるで裂けたように鋭く引かれる唇。元閥の背筋にぞくりと悪寒が走る。身を翻し御簾の奥へ逃げ込もうとする元閥の長い後ろ髪を、朱松は乱暴に掴んだ。
「いっ……!?」
強く髪を引かれ、元閥は朱松の足元に倒れた。痛い。髪の痛さよりも、朱松がそのような乱暴を働いたことが胸を刺す痛みとなって現れる。元閥の艶のある髪を大切に撫で梳き、乱れがあれば丁寧に解いてくれたあの手が、自分の髪を手綱かなにかのように扱うなど信じられなかった。
「来い」
「いたっ……! 朱松様っ! やめてくださいませ!」
ぐっと髪を掴んだまま、朱松が歩きだす。髪を引かれる痛みに涙を流しながら、元閥は朱松を縋り追うことで精一杯だった。
「いやっ! 離してくださいませ! 朱松様! あかまつさまぁっ!」
怖い。痛い。痛い。怖い。せめて髪を離してくれと懇願しても、朱松は聞こえぬそぶりで奥の院に向かって早足で歩く。
「……っ、離せっ!」
渾身の力を込めて、朱松の手を引きはがす。思わず男の言葉が出た。
髪が朱松の手を離れ、ようやく元閥は身を剥がすことができた。代償として、随分多くの髪が抜けた。朱松は自分の指に絡み付く長い髪の毛を一瞥し、鬱陶しそうに手を払った。
そして、元閥に向かって一歩踏み出す。
「……ひっ……」
逃れようと思った。足が竦んで動けなかった。気付けば朱松の手に顎を捉えられ、ひどい勢いで背を柱に打ち付けられた。
「……かはっ!」
背中を打たれ、息が詰まる。顎をギリギリと掴まれる痛みで、呼吸もままならない。
「あ……か、まつ……さまっ!」
涙が出た。何があったのか。昨日の朝まではいつも通りの優しい朱松だった。祭りが終われば、ともに新穀を口にしようと約束した。束帯の着付けを手伝い、上手くなったと褒めてもらった。
怨霊が憑いたとしか思えない。苦しさと悲しさで、ぼろぼろと涙が出た。
「……喜べ、元閥。吉報だ」
爛々と異なる光を放つ瞳。耳まで裂けるような邪悪な笑み。頬が攣れて、傷が開いたのが一筋の血が垂れる。ああ、傷が深い。早く手当をしなければ痕になるだろう。
「京の龍脈が尽きかけておる」
「え……?」
何を言っているのか。
「千年を経て、京の都に組まれた呪が尽きようとしておる。卜占に出た。これより、国は荒れるだろう。飢饉、夷狄、戦さ、そして妖夷。数十年のうちに都を移さねばこの国は滅ぶ」
ああ、嬉しいのだ。この人の目の輝きは、狂喜の光だ。自分を迫害し、追いやり、逃げ隠れねばならなかったものの滅びを讃える光だ。
「好機だ。今こそ、我ら後南朝が正統なる皇位を取り戻し、都を築く好機なのだ!」
「みや……こ……」
「東の龍穴を手に入れるのだよ。北朝の閏帝どもが動けぬうちに、我らが手に入れる」
東の龍穴。それは……
「千代田、には……徳川が……おります」
「そうだ。そして、そなたの社がある」
朱松の顔が歪んだ。憎しみと喜びと狂気と悲願の全てが交ぜ合わさり、顔の筋がそれぞれの感情に引き攣れ、醜く歪んだ。
「そなたに役立ってもらうぞ、江戸元閥。そなたの祀る地祇を解き放ち、徳川をあの地より引きずり下ろす。厭とは言わせぬ。その為にそなたを……そうだ、貴様を今まで飼っていたのはその為だ!」
飼う。
その一言に、元閥の目の前は真っ暗になり、身体は崩れ落ちた。
今までの年月が偽りであったと思った訳ではない。
それを偽りと言ってしまうほどに、朱松を変えてしまったものがなんなのか。
それを理解した。
それが痛かった。
自分は、朱松をその呪縛から解き放ってやることはできなかったのだ。
奥の院は薄暗く、灯りの芯も短く切ってあった。観音開きの扉から乱暴に投げ込まれ、床に倒れ込む。拍子で足首でも捻ったか、ずきずきと痛んだ。手の平に固いものが当たる。手触りからして亀の甲羅だ。焼いた時に割れて弾けたのだろうか。ならば、朱松の頬の傷はこのせいか。
周囲を見回すと、何人かの男が立っていた。分家の衆だろう。まだ闇に慣れぬ目では誰が誰なのか判別がつかないが、暗がりに爛々と浮かぶ目の光だけは分かった。朱松と同じ目だ。
「覚えているか? 元閥。前に言ったな、私にはお前を名を授けることができると。我らには祖より受け継いだ呪物があると」
そう言いながら近付いてくる朱松の手に、黒い光が宿った。黒い光。そうとしか表現できない。深い闇のようでありつつも、それは確かに光を放っていた。
「見せてやろう。これが天孫の裔たる証だ」
その黒い光を放つ手で、元閥の口元を押さえ込む。黒い光が、元閥の体内に注ぎ込まれる。これは忌むべきものだ。神に仕える巫覡としての感覚がそう訴えていた。
「んうっ……! うぐ、んンーっ!」
首を振り、体をねじり、逃げ出そうとしたが、馬乗りになってきた朱松の重みを跳ね返すことはできなかった。
「漢神。万物が持つ名を引き出し、その姿を暴く力だ。幽世を見、その実を食ろうた者の中に、稀に宿ることがある」
怖い。怖い。
「だが、我らは違う。我らの力は幽世によるものではない。天より授けられたものだ。故に、我らは名を引き出すだけではなく……名を授けることが出来る」
黒い光は元閥に触れ、実体のあるものとなった。黒い魚のようなそれが、元閥の口より臓腑目がけて入り込もうと暴れまわる。
「そのものの名を呼び讃えることが『祝う』。そのものに名をつけ封じることが『呪う』。だがな、祝うことも呪うことも根源は同じなのだ。神は万物を呪い、万物を祝う」
厭だ。気持ち悪い。おぞましい。これは人の業ではない。妖のものだ。闇に住まい、人を祟るものの業だ。
「神の御業を受けよ」
「……………………っ!」
声にならぬ悲鳴を上げて、元閥は背を反らした。手足は突っ張り、板目に爪を立て、足指に吊るほどの力が籠もる。開きっぱなしの目からは、ぼろぼろと涙がこぼれる。
黒い魚は喉をくぐり元閥の臓腑を犯した。腹の内で暴れまわるそのおぞましさに気が狂いそうになる。魚は一匹だけではなかった。幾匹も、幾匹も、幾匹も、幾匹も、幾匹も、幾匹も、幾匹も、幾匹も、
怨、怨、怨、怨、怨、怨。
地霊の呻きのような声が聞こえた。周囲の男どもが唄っている。呪詛の唄だ。元閥にかける呪詛の唄。
それと同時に、腹の中の魚が奇妙な形を作るのが分かった。まるで胃の腑に目があるかのように、それは元閥の脳裏にありありと姿を結ぶ。
古い甲骨文字だ。これは何を表す文字だったか。今の恐怖に凝り固まった脳では、記憶を探り当てることは困難だった。
「『器』。この文字は祭事に並べる皿と生け贄の犬を表す」
生け贄。祭り。
「貴様は、神に捧げる生け贄だ」
ああ、もうこの手はあの優しさを失ったのだ。
口づけを交わしそうな近さに朱松の瞳を見ながら、元閥は意識を失った。
「まだ時間がかかるか。もう三月だぞ」
「娘の姿で育てたと言っても男です。元より神や妖に近い女とは違いまする。女でも『神憑き』へ持っていくには、死の際まで追い詰めねばなりませぬ」
「手間がかかるな」
「別のみや……神子を用意したほうが早いやも」
「異界を開き地祇を甦らせるまでは、それでよかろうな。しかし、それを御するとなると……」
「まだ、我らの力では足りませぬな」
「あやつは地祇に捧げられた血脈だ。甦らせた地祇を操るには、あれを神子に立てるほかはない。出来るだけ早く……」
引き攣れた悲鳴が、扉を閉め切った奥の院から上がった。朱松はそれに微かに眉を顰める。
「……もう少し静かには出来ぬか」
「無理をおっしゃる。女でも『神憑き』にさせるには手間がかかります。ましてや、男となれば……」
己が決めたことだろうに心が痛むか。朱松の背中に、厳見は唇の端を上げた。
「心を壊しませぬと」
「は……は……は……」
元閥は途切れ途切れに息をつく。意味のある言葉を吐くのはやめた。どうせ人の言葉は帰ってこない。
どれくらい時間が経った。三日かも知れぬ。一年かも知れぬ。あの夜から元閥はずっと奥の院に閉じ込められたままだ。目隠しもずっと。手の縛めもずっと。水も食物も与えられなかった。
しかし、飢えや乾きは感じるものの、それが命を奪うことはなかった。そして、何度も拳を握り締めて気付いたことだが、爪が伸びていない。今の自分は単なる器物なのだと、それら全てが思い知らせてくる。
最初は柱に括りつけられていたが、幾度か姿勢を変え場所を変え、今は天井から吊るされている。足は爪先だってようやく床に立つ程度。手首ではなく、曲げて縛られた肘から縄で吊るされていた。自然、両手首は後ろへと回り、何もない中空へと投げ出される。親指同士と人差し指同士が逆向きに縛られているので拳を握ることすらできない。実を言えば、これが一番堪えた。何一つ縋り付くよすががないということが、これほど辛いとは思わなかった。
水責めよりも火責めよりも……犯されるよりも、何も縋れないことが辛かった。
自分の正気が揺らいでいるのが分かる。辛さにまともな悲鳴すら上げられず、獣のうめき声しか出せなくなる。何故自分がこのような責めをされなければならない。皆、あれほど優しかったのに。何があった。何が起きた。
東の龍穴。
地祇。
飼う。
生け贄。
境界の神子。
人とも神とも交わる。
お前に名前をつけてやろう。
あの日から自分には呪いがかかっていたのだ。
八年もの間気付かなかった、この身に染み付き、共に育った呪いが。
神憑きにするつもりだ。
自分を地祇に捧げ、それを御するために神憑きとするつもりだ。
神憑きは、ある種、簡単なまじないだ。水凝り、断食、瞑想、荒行。どれも人の自我と五感を限界まで疲弊させる。希薄になった自我と鋭くなった五感は、空気に甘味を感じ、針の落ちる音を聞き、八百万の神々の息吹を捉える。そのためには、感性の鋭い、神や妖に近い幼い娘のほうが向いている。古来より託宣の巫女が女であるのはそのためだ。
自分のようなひねくれ者を神憑きにするには、なるほど、このような責め苦を負わせるしかあるまい。
「……っ!」
唇を端を引いた瞬間、背中を鞭打たれる。こうやって真っ当な思考を削ぎ落として行く。残るのは……
ぞわり。
「ひ……!?」
足元のざわめく感覚に、短い悲鳴を上げる。『あれ』だ。あの、黒く光る魚だ。
「やあああっ! いやっ! やああああああああっ!!」
残った力の全てを振り絞って、元閥は逃れようと身をよじる。厭だ、これは厭だ。何十匹、いや、何百匹もの黒い魚が元閥の体をはいずり回り、全身の穴という穴から内側に入り込もうとする。そのおぞましさ。
「ふ、ひっ……ひぃっ……!」
足を這い上り、後孔に達したそれが、するりと入り込む。幾度も男どもに犯され緩んだそこは、吸い込むように受け入れる。擦れて腫れた肉壁を波打つそれが叩き、甘痒い感覚が背筋を駆け登る。
「……っ……んぅ……!」
鈴口の小さな穴すら見逃してはくれない。陰茎の内側より刺激される感触は、後ろを手首ほどの張り型で刺激されるより辛く、それよりも切なく疼く。
「…………っ!!」
だが、声を出してはならない。口を開いてはならない。口を開けば、あれが……
「……ひゅっ……!」
誰かが歯を食いしばる元閥の鼻を摘まみ、顎の隙間に強い指をねじ込んだ。息苦しさと挟まれる痛みに開いた口に、黒い魚が飛び込む。
「んうっ! んー! んンンーーー!」
何匹も何匹も、大きく空いた口に飛び込み、喉を押し開き、腹の中へ何匹も何匹も。
厭だ、厭だ、これに口を犯されるのは厭だ。
旨いのだ。
波打つ体がそのまま喉を通るおぞましい感覚。口の中で跳ね回り、暴れまわる嫌悪感。それを上回るほど、舌に感じるその味は、旨い。
悦を感じるほどに。
「ふ、ふひ……ひっ……ふぅぅ……!」
とろりと脳が蕩けていく。足に力が入らず、吊るされた肘が痛む。全身がひくひくと震えている。舌に感じる悦楽に。
おぞましい。汚らわしい。旨い。気持ち悪い。おいしい。厭。気持ちいい。もっと。おいしい。おいしい。
上からも下からも入り込んだ黒い魚が、元閥の臓腑を犯していく。もしや自分の五臓六腑はとうにこの魚に食い尽くされ、自分の腹の中には黒い魚がぎっしりと詰まっているのではあるまいか。そのおぞましい妄想に、元閥は……悦を感じた。甘美さを感じ、背筋が震えた。
「ん、ん、は、あ、あぁ……」
次第に声が甘くなっていく。ぞくぞくと全身に震えが走り、意識が朦朧となり……
「ひゃ、ああぁぁん!」
ずん、と、後ろに深い衝撃が来た。誰ぞが、黒い魚が入ったままの元閥の尻を陽根で貫いたのだ。
「ひぁん、あ、は、あぁん、あ、あぁぁ、ぁ……!」
腹の中でうねる魚。その中心を貫く熱い逸物。奥を突かれ、その衝撃は背筋は疎か脳天にまで響く。
気持ちいい。おいしい。もっと。気持ちいい。いく。いい。おいしい。ああ。
すがるものない指が宙を掻いた。
「あーー……あーーーー……」
脳が蕩けていく。身体が蕩けて、腐っていく。
腐って、いく。
朱松の前にくたりと横たわる肢体。半年もの間、繋がれていた足腰は、己の体を支えることも出来なくなっていた。
「立たせろ」
両脇より持ち上げられ、よろめきつつもなんとか立ち上がる。ふらふらと危なげに揺れる身体に、思わず支えてやりたい衝動が沸き上がった。
目許はいまだ黒い布で覆われたまま。体は真新しい白小袖に包まれていた。最後の仕上げだ。半年前、この体に宿した漢神を抜き取る。さすれば、責め苦に心を壊され、世を憎み、人を儚み、逃れることしか考えられぬ抜け殻は、神憑きの器となる。
あとは、江戸へ連れ帰り、あの聖天で異界を開き、地祇を宿せば……
--そなただけでも正しき場所に戻してやりたい
約束は違えてはいない。己の祀る地祇と一つに戻してやる。前島の一族として、これ以上の正しき場所はないだろう。
奥の院の前にしつらえた祭壇。そこに焚かれた火によって、元閥の白い身体がゆらゆらと照らされる。萎えた足は前より細くなったか。いや、腕も腰も、全てが一回り細くなっていた。鎖骨は痛々しく浮き、のけぞった喉は白く滑らかだった。浮き出していた喉仏は消えてしまっていた。身体の変わる時期に呪物に浸されていたのだ。恐らくこの先、まともに育たぬ。やもすれば、子を成す力も失われたかも知れぬ。
--元閥に髭など生えぬ
そうだ。言ったではないか。自分の言葉は神の言葉なのだ。違えるはずがない。
白い喉元に手を掛ける。
「は、あ……」
悦を覚えるか。朱松は口の端に笑みを浮かべ、元閥の身体の内を御霊の指で探り……その奥から『器』の漢神を引き抜いた。
「ふぁ……っ!」
既に体の一部となりかけていた呪物を抜かれ、元閥の身体が崩れる。朱松はそれを抱きとめ、腕の中で仰向けに返した。
白い小さな顔。それを真一文字に遮る黒い帯。この下の目は、全てを拒み、全てを憎む、魔の眼を宿しているはずだ。赤い、異界のように赤い、魔眼。
呪符であったその帯を九字で切る。はらりと解けたそれは元閥の顔から滑り落ち、その切れ長の瞼と濃い睫を外界に晒した。
「う……」
半年ぶりの光は閉じられた瞼越しでも痛いのか、小さく呻き眉根を寄せる。瞼が震え、ゆっくりと開いていく。
「……元閥」
その名を呼ぶのも、半年振りだった。
「あ……」
声を聞き届けたのか、元閥は小さく息を漏らし、柔らかく口の端を引き、
「あかまつさま」
青い光を湛える眼で、ふわりと笑った。
「浄眼……!」
赤い魔眼ではない。全てを受け入れ、全てを許す、破邪の青い光。
周囲の男どもがざわめく。
「くそっ!」
元閥の身体を打ち捨てる。己の身を支えられぬ足はたたらを踏み、地に崩れた。
失敗だ。元閥は責め苦を拒んで心を壊したのではない。
責め苦を『受け入れるために』心を壊したのだ。
これでは異界を開けぬ。神は憑くが、それは怨念を持った地祇ではない。汚れなき肉を必要とする天神だ。
「朱松様、これは……!」
「黙れ!」
今を逃して好機はない。しかし、今の元閥では、祀る神を御することは出来ても、異界を開くことが出来ぬ。せめて、地祇を呼び出すための贄さえ用意出来れば……
「はは、ははははは……」
笑い声。地に崩れた元閥の身体が波打ち、笑っていた。
「あははははは。あははははははははははは」
よろりとふらつきながら立ち上がる。萎えて震える足で地を踏み、背をのけぞらせて笑う。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
狐狸に憑かれたか。手印を組む周囲の者共を、朱松は片手で制した。
「……江戸元閥」
朱松の問いかけに笑い声はぴたりと止み、天を仰いでいた顔がぐるりと向き直る。
「なにが神だ」
見開かれた瞳には、赤い光が湛えられていた。
「なにが神だ、なにが天孫だ! よってたかって寵童を嬲り物にして、神下ろしだと!? ふざけるな、この下衆どもめ!」
「元閥、貴様……!」
「後南朝の裔たる我らに、なんと不敬な……!」
「なにが不敬なものかよ。山隠れの棄民どもが」
ふらりと元閥が一歩踏み出す。一歩ごとに足に力を入れ直し、左右に崩れかかる。その力無い足取りと不釣り合いな不遜な態度に、男たちはすっかり気圧されていた。
「楽しかったか、私を慰み者に出来て。知ってたよぅ? そこのお前、前から私をいやらしい目で見てたね。頭領の稚児にゃ手を出せないものねえ。お前のまらを突っ込まれるのが一番厭だったよ。粗末な上にねちっこいだけで、よくもなんともありゃしない」
乱れた髪の合間から、にぃと唇をひいて笑う。その表情に、全員ぞくりとし生唾を飲み込む。十五、六の子供の顔ではない。妖しい毒婦のような色香だった。
「残念だったねえ、惜しかったねえ。お前たちの悲願とやらもこれで終わりだよ。ばかどもが愚かな策を練るからこうなるのだ」
まるで踊るようだ。ふらりふらりと元閥は朱松に近寄り、あと一歩というところでがくりと崩れかけ……思わず朱松は腕を差し出し……がばっと起き上がって、口づけを交わすかの近さで、その赤い瞳ではたと朱松を見据えた。
「このようなことせずとも、わたしは、おまえのためなら、どんなことでもできたのに」
その一瞬、瞳は赤から青に揺らめいた。
元閥の細い指が朱松の左頬の傷痕を撫ぜる。青い瞳がじわりと潤む。
「残ってしまわれた。そればかりが気掛かりでした」
ふと伏せられた瞼から、一筋涙がこぼれる。
再び目が開かれた時、それは燃えるように赤く染まっていた。
金縛りにかかったかのように身動きできぬ朱松の懐剣を元閥は掴み、抜き払うと同時にその左頬に重ねて切りつけた。
「……くっ!」
血が舞い散り、朱松が顔を押さえて膝をつく。
「あはははははははははははは! あははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
元閥は、真白い小袖に返り血を浴びて高笑う。
なんと美しい。
男でも女でもなく、人でも神でも妖でもなく、こなたとかなたの狭間、境界に立つ白い姫だった。
「狂うたか……!」
気圧されていた男どもが、朱松の血でようやく正気に戻る。懐剣を抜き、四方より襲いかかるのを、元閥は跳んで躱した。
そう、跳んだ。
地を蹴り、宙で身を切り、祭壇を越え、院の屋根に着地した。
あの萎えた足では、いや、人の足では為せぬ業である。その身に残った呪力を使っていることは明白だった。
祭壇の火も届かぬ暗い屋根の上で、白小袖が翻り、奥の森へと身を投げた。逃げるつもりだ。
「逃すな! あやつを失えば、我らの悲願が……!」
「よせ。追いつけぬ。今のあやつは妖夷と同じだ」
朱松の留めに、走りだそうとしていた男たちがひたと止まる。
「しかし、朱松様。東の龍穴はあの者の……!」
「よい。別の策を講ずる。それに……」
左手はべっとりと血で汚れていた。深い。痕になるだろう。
「あやつは、私の呪詛から逃れられぬ」
揺らめいた青い瞳がはっきりと目に焼き付いていた。朱松は強く唇を噛んだ。
走った。山を抜け、里を抜け、川を駆け、一昼夜走り通しても、何の疲れも感じなかった。
川が広がり流れがゆるくなる。海が近い。通りすがりの行商人を懐剣で脅し、着物と金子を奪う。返り血を浴びた下着姿の女、に見えただろう。どう見ても妖怪、ばけものの類いだ。粗末な絣に袖を通しながら、一人笑う。
さすがに空腹を覚え、宿場の茶屋でたらふく食う。所詮自分の金子ではない、足りなくなればまた奪えばよい。いくら食っても腹が満たされることはなかった。何を食っても砂の味がした。飢餓感は酒に向かい、浴びるように飲み、酔い潰れ、下郎の部屋に連れ込まれ帯が解かれるところで目が覚めた。懐剣で脅しただけでは足りず、軽く脇腹など刺して再び金子を奪う。合わせて五両。路銀には十分だろう。
行く当てなどなかった。帰る場所と言えば、生まれ育った江戸しか思いつかぬ。朱松の手が伸びているかもしれないが、だとすれば幕府に垂れ込んでやればよい。道を逆に辿れば、どの山にいるかくらいすぐ分かる。
港より船に乗る。一等大きく上等な船。思ったより揺れないものだ。
そういえば、海の船に乗るのは初めてだ。江戸を出た時は、朱松に抱えて歩いてもらったのだから。
「その方が行方知れずであった前島の継嗣であると……」
「幼名をもとの、名を継ぎまして元閥と改めましてございます」
凛と背を伸ばす姿は、粗末な着物を着てはいるものの、卑しからざる育ちを感じさせた。
前島聖天は秘社。かつては江戸一番の古社であったして名は残っているが、今は社を失っている。しかし、江戸城の地下深くにその本殿が残ることは、幕府でも一部の人間しか知らぬこと。継嗣が神隠しにあい、神主が不在であったことも極秘とされていた。騙りが出るような隙はない。
「父母を亡くしまして、縁を辿り神職の修養に出ておりましたが、この度、江戸に戻って参りました。早速日比谷の生家に戻りましたところ、なにぞ行き違いでもあったのか、もはや家人なく屋敷はお城の若年寄森川様のお預かりとなっているとのこと。此度はご迷惑をお詫びし、江戸戻りのご挨拶に伺った次第でございます」
「うむ。若年寄森川紀伊守殿はご多忙ゆえ、中奥番である私が名代として承ろう」
「ご信任の厚い出世頭、でございますものな。鳥居殿」
老獪と言ってもいい笑顔だ。まだ十五、六の子供のはずだ。髪を上げていないのは女のなりを常とする前島の習わしゆえ由とすれ、年と外見と中身がひどくちぐはぐな印象を受ける。これはよくない。こういうものは考えも腹のうちも読めぬ。
「その方が江戸を離れた二年後、屋敷に押し込みが入りようた。家人は皆殺し、下手人は捕まり、既に刑に処せられておる」
「それは……後程、お墓を伺ってもよろしいでしょうか」
「うむ。身寄りがないものだった故、寺だがな。参ってやるがよい。その方がいれば、無縁仏とならずにすむであろう」
「は」
幼少より育てられた乳母が殺されたというのに、顔色ひとつ変えぬ。神隠しにあってたとも言えるこの八年間、何があったというのか。神主と膝を付き合わせたことなどそうないが、神職というのは皆このように情を見せないものなのか。
「屋敷は手入れされておる。すぐに移り住めよう。それとこれを」
文箱より、一通の封書を取り出し、その膝の前に差し出す。丁寧に赤の、朱色の蝋で封緘がされていた。
「これは……?」
「三日ほど前、掃除に入ったものが見つけたそうだ。表書きもある。その方宛であろう」
表には男の字で、『前島聖天神職 江戸元閥』と確かに書かれている。
「ここで改めても……」
「よい」
ぱり、と、蝋が破かれる。そう長い手紙ではない。かさかさと開く手元を見るが、文面は見えぬよう巧妙に隠された。
「つかぬことを聞くが……もしや、それを置いたのは……」
「……ふ」
小さく息を漏らした。細い肩が震えている。白い紙に、ぽたりぽたりと涙の染みが出来ていた。
眼前の正体知れない男が、急に十五、六の、いやもっと幼い童に見えた。
「元閥殿、どうされた」
「知りませぬ……!」
掠れた声。震える喉。身を屈め、泣きじゃくる姿にかける言葉はなかった。
「知りませぬ。どこの誰からの書か……存じませぬ!」
「……相分かった。その方は徳川の守護を請け負う前島の主。これからの働き、上様もご期待されておる。努々謀ることのなきよう」
「……はっ」
こやつはなにかを知っている。手元近くに置き、注視するべきだ。幕臣はそう思案し、眉を顰めた。
ああ。
私は、私にかけられた呪いから逃れることは出来ぬのだ。
あなたにつけられた名前を、あなたにかけられた呪いを断ち切ることは出来ないのだ。
それが私の物語だ。
定められた宿命だ。
男でありながら女でもある。
男でもなく女でもない。
東国の怨霊を封じ、江戸の奥深くに隠れ住み、
神を祀り、妖夷を鎮め、
神を殺し、妖夷を食らい、
人でも神でも妖でもない。
すべてから引き裂かれ、すべてから押し潰される、境界に立つもの。
それが私の呪われた物語だ。
あなたが四百年の呪いから逃れられぬことと同じだ。
出来過ぎた戯作のような物語から私達は抜け出せぬ。
私は、女のように美しい隠された神主。
あなたは、四百年を隠れ生きた失われた帝の末裔。
呪われた幻想の中でしか、私達は生きられぬ。
私は呪いの中で生きる。
あなたを憎む赤い瞳を持ちながら、あなたを愛する青い瞳を持つ。
あなたが呪いの中で生きる限り、私も呪いの中で生きる。
ああ、そうだ。
私はこの文を見て、憎いとも恐ろしいとも思ったが、
それ以上に、
嬉しい、と思った。
『迎えに行く』
- by まつえー
- at 14:18
- in 小咄
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