2007年06月20日
天使のいない十二月
YGのDVD情報生まれ、『ユメミルクスリ』の続き。鬱話。
一応、アビ元ですが、アビは出てきません。宰蔵さんばっか。しかして、not元宰&宰元。
年の瀬も迫り、宰蔵は随分と久しぶりに聖天の社に来た。放三郎が薬屋の掛け払いに困窮し内職を始めたのを見て、僅かでも足しになればと小さな仕事をいくつも掛け持っていたのだ。棒手振りの真似事もやったし、雪輪の助けを借りて巫女装束で大道芸のようなこともやった。
それで稼いだ金を差し出せば放三郎は受け取れぬと必死に拒んだが、主人が借金取りに追われ押し入れで除夜の鐘を指折り数える姿を見るのと、主人のために働いた報酬を快く受け取ってもらえるのと、どちらが自分の恥になると思っているのかと啖呵を切って押し付けて来た。全く、男というのは半端な意地ばかりが育ってしまっていけない。
聖天に来たのは、元閥に礼を言うためだ。どうやら、雪輪は元閥の財産として馬小屋に預けられているらしい。アトルに礼をしに行って、初めて知った。他人の財産で金を稼いだのだ。筋は通さねばなるまい。妖夷の肉とは行かなかったが、元閥の好きな谷中の羽二重団子。それに酒の一本もつければ大丈夫だろう。宰蔵は階段を上り、いつも元閥が昼寝や読書をしている御簾の裏側に回った。
「江戸元?」
いない。もう片方にも回る。いない。もう昼を回ったというのにまだ寝ているのだろうか。この寒空に棒手振りはないだろう。社の中に入り、元閥の寝床である二階を見上げる。
「えどげ……」
さっと宰蔵の血の気が引いた。二階の暗がりから中空に向けて、細い手が投げ出されていた。腕は力無く落ち、だらんと垂れた手指は細い枝のようだ。
「えどげん! えどげん!!」
呼びかけても反応がない。団子の包みと徳利を床に投げ捨て、梯子まで回るのももどかしく、宰蔵は助走をつけ、床を蹴って手摺りに飛びつき、自分の身体を二階まで引っ張り上げた。
「江戸元! しっかりしろ、江戸元!!」
辛うじて布団は敷かれていたが、元閥の身体は半分以上床に落ちていた。寝ているというより、気絶しているのだろう。揺り起こそうと肩に手を掛け、その骨張った感触に悪寒を覚える。元から痩せてはいたが、こんな骨と皮だけのような身体ではなかった。ごつごつもぎすぎすもしていないしなやかで涼しげな元閥の体つきは、宰蔵にとっては若衆としても娘としても憧れの姿であった。
引っ繰り返しても起きる気配がない。頬がこけている。やや落ち窪んだ目許のせいで、どっと老けて見えた。
母の記憶がよみがえる。布団の上で、人の十倍二十倍の早さで痩せ衰え、老け込み、老婆の姿で死んでいった母。
だから言ったのだ。ちゃんと寝ているのかと、食っているのかと。お頭に進言して薬を持っていってもらったのに。アビがついているから大丈夫だと思ったのに。
「えどげん! えどげん!」
容赦なくその頬をひっぱたいた。脈を確かめるという知恵も回らなかった。自分の声が泣き声になっているのにも気付かなかった。
「……うぅん……」
「! えどげん! 大丈夫か!?」
ぴくりと眉が動く。瞼が何度か痙攣し、そろそろと開いていく。
「さいぞ……さん……」
「そうだ、私だ! 江戸元、しっかり……」
「……おなかすいた」
怒っていいのやら、安心していいのやら。宰蔵はぐったりと床に沈んだ。
床に落ちて潰れた団子を『味は変わりませんから』と気にもせず、元閥はぱくぱくと口に放り込んでいる。
「うん、あれですねえ。すきっ腹にはこんくらいのものがちょうどいいですねえ」
酒を飲みたがるところを怒鳴って差し止めた。茶は胃が荒れる。宰蔵が差し出した白湯をずずと元閥が啜る。
「何日食ってなかった」
「三日か五日ですよ。十日は行ってない」
嘘だ。五日程度の断食で、これほど痩せ衰えるはずがない。たとえ五日前になんらかを食ったにせよ、その前の数日は何も食ってないとか、そういう話だろう。
「何で食べていない」
「米が尽きましてねえ。買いに行こうにも外に出て重い物運ぶのが億劫で。米屋に運んでもらう訳にも行きませんし」
のらりくらりと躱される。嘘はついていないのだろうが、肝心な部分を話していない。宰蔵を子供扱いしているのだ、これでごまかすことができると思っている。
「アビはどうした」
半呼吸だけ、間が空いた。
「ここにゃいませんよ」
どうして、の声が出る前に、元閥の言葉が続く。
「ほら、あの子も色々手仕事を始めたでしょう? 市中に通うのに、毎日船を繰るのも面倒ですしね。あいつが外に行ってる間、私の船がない。なら、外で寝起きすればよかろうよ、と……」
「嘘だっ」
「嘘じゃありませんよ」
にっこりと返される。嘘だ、嘘だ、嘘だ。アビは元閥をあれほど大事にしていたのに。だというのに、何故こんな元閥を何故放っておく。何か事情があるのだ、それを隠しているのだ。アビの馬鹿。ああ、しかし、元閥の様子をずっと見に来なかったのは、私も同じだ。ぐっと瞼を閉じ、一つ息を吸って吐く。意を決して元閥の目を見据える。
「江戸元、九段に来い」
「やですよ」
「や、じゃない!」
問い詰めたとて、元閥が本音を言うはずがない。それくらいは分かっている。何も食わずにいたのは理由があるのだ。その理由を言う気は元閥にない。ならばこちらも聞かぬ。
「神主はやめたのだろう! もうここですることもないのだろう! なら……」
「ありますよう」
ことん、と湯飲みが床に置かれる。
「することなら、ありますよう」
やつれても以前と変わらぬように微笑むから、余計に痛々しさが浮く。
することとやらを宰蔵に言う気もないのだろう。きゅうと唇を噛んだ。
深川まで走れば四半刻かからない。宰蔵は息を落ち着かせる間もなく、勢いのまま往壓の長屋に飛び込んだ。
「アビはいるか!」
昼尚薄暗い、湿った長屋の狭い部屋。そこにあのでかい図体はなく、往壓がぼんやり茶漬けを啜っているだけだった。元閥は食う米もないのに。宰蔵は苛立ちを覚える。それが理不尽なものであることは、自分でも分かっていた。
「アビは仕事だ。どうした、何か用か……」
「アビがこちらにきて、どれくらいだ」
いきなり何を聞くのか。宰蔵の怒気を孕んだ目に、往壓は丸い目をぱちくりとさせる。
「半月くらいだな」
半月。半月もの間。頭に上った血で目眩がしそうだ。思わず、へっついに手をつく。
「どうした。何があった」
「江戸元が倒れた」
そうだ。あれは食うのを不精しただけではない。あれほどの食い道楽の元閥が食うことを拒んでいたのだ。気の病だ。
「前から予兆はあったんだ。やつれ始めてたし、よく眠れていないとアビも言っていた! お頭に薬を持っていってもらったし、アビがいるから大丈夫だと思っていたのに! 江戸元は何も食わずに倒れてたんだぞ! 何で江戸元の側を離れた! 何で様子を見に行ってやらなかった! あのままじゃ、遠からず……!」
「……江戸元の持ち物が減ってなかったか?」
「は?」
「帯紐とか簪とか。鏡とか。そういうものが減ってなかったか?」
分からぬ。行李の中を覗くような真似はしていない。ふるふると首を振る宰蔵を、往壓は河原に誘った。あんまり人に聞かれたくはない話だから、と。
「毎朝、水に投げ込んでるんだってよ」
帯紐や簪を。
「……なんで」
「弔いのつもりなんじゃねえのかな。手を合わせてなにかぶつぶつ言ってるらしいし」
経文ではなかろう。鎮魂の祝詞か何かではなかろうか。『すること』とはそれか。
「誰の弔いだ」
「さあ。あの大ムカデなんだか誰なんだか」
「あれは妖夷だった」
「妖夷でも、あいつの一族がずっと守り続けてきたものさ。あいつの生きてきた、生まれてきた理由だ。お前の芝居や舞と同じだ」
それがまやかしと分かっていても、それに抱く心は消えない。そう言われてはなにも言えぬ。
「弔っているから、何なんだ」
「……例えばだな。小笠原さんが書を捨て始めたらどうする」
「……引っ越しでもするのだろう」
「引っ越し程度じゃ捨てねえだろう。がらくたじゃねえんだぜ、書は。書を捨てて、そのうち羽織袴も捨て出して、髪結いにも行かず、どんどん部屋の中ががらんどうになっていったらどうする。……次に部屋から消えるのは、小笠原さんだろうな」
想像する。ぞっと背筋に悪寒が走る。
「自分の持ち物を捨てるってのはな、自分自身をちょっとずつ捨てるってことだ。俺ぁ、なにも持たねえ浮民だ。だからいつでも野垂れ死にできる。一所に留まってた人間が持ち物を捨て出したってことは、野垂れ死にする用意をしてるんだ」
最後に投げ捨てるのは、自分の身体だ。
「……あの、江戸元が? 入水を? まさか……」
そんな世を儚むような真似をするはずがない。あの元閥が。いつも酒を飲んで笑って、人をからかっては楽しそうにはしゃぐ元閥が。人の世を憂いて身を投げるなど。
「俺ぁ、見たぞ。あいつが身投げしかけたところを」
ひゅぅ。変なふうに喉が鳴った。
「いつ」
「そいつぁ秘密だ。知りたきゃ江戸元に聞きな。だが、あいつはそう云う奴だよ。死のうとした時に死ねる奴だ」
「ならば、なぜ放っておく!」
「側にいても同じだからだろう」
近くにいて、支えているつもりで、それなのに。
「アビがいくら側にいて、寝食に気を払って、楽しませてやろうとしても、江戸元はどんどん衰える。飯は食わねえ、食っても隠れて吐く。気鬱に沈むのも増える。果てには小物を捨て始めた。これ以上、なにをしてやればいい」
「……だから、出て行ったのか」
「出ても行くだろうさ」
出て行くだろうか。自分ならば出て行くだろうか。ずるずると死期を呼び寄せようとする人から、目をそらしてしまうのだろうか。
いいや。そんなことはない。
「止めればいい」
「は?」
「物を捨てるのをやめさせればいい。飯を食わないなら押さえ付けて口に詰め込めばいい。吐かないようにずっと見張っていればいい」
往壓の年にしては大きく丸い目が、さらにぎょろりと見開かれる。そして、ふっと細くなった。目許が崩れるとそこに皺が浮かんで、往壓の顔は急に年相応になる。
「江戸元がお前さんくらいの子供だったらな」
何を言っている。
「あいつだってお前さんの倍くらい生きている。世の中が嫌になったことくらい何度もあるだろう。それを何度も乗り越えて、あの年まで生きて、だがやっぱり駄目だと思ったんなら……」
年など関係があるものか。誰もが同じに年を取る訳ではない。アトルは自分より年下だが、アトルが見てきた世を宰蔵は見ていない。ならば、一概に年の多い少ないで見聞が決まる訳ではない。
「それはもう、俺にだって何も出来ねえよ」
「嘘だ!」
叫んだ拍子にぼろりと涙がこぼれた。
「それは江戸元のためなんかじゃない! お前らが逃げてるんだ! お前らが諦めてるんだ! 江戸元になにをしてやっても無駄だって、そう決めつけてるんだ! 江戸元は病気なんだ、それは江戸元のせいじゃない、江戸元は悪くない!」
「江戸元は悪くねえさ。江戸元が悪いなんて、これっぽっちも思っちゃいねえ。だが、アビが悪いわけでもねえだろう」
違う。諦めた方が悪いに決まっている。逃げた方が悪いに決まっている。
「……えどげんを助けてやってくれ」
自分は何もできない。あの気まぐれでいい加減な神主が何を患っているのかもわからない。
「そんな聞いたふうな口を利くなら、なにかしてやれることがあるだろう! 助けてやってくれ、なんとかしてやってくれ! あんな江戸元、私はいやだ!」
「……そうだなあ」
往壓の手が、宰蔵の頭に乗る。
「俺も同じ気持ちだよ」
その手を、宰蔵は叩き落とした。
「ひきょうもの!」
そのまま宰蔵は河原を逃げ出し、目についた屋台で有りったけの煮売りや漬物を買い込んで、船着き場に急いだ。
芋を柔らかく煮たのや、白身魚と大根を薄味で煮付けたもの。そろそろ、団子も消化されたころだ。腹に優しいものを選んだし、これくらいなら食べられるだろう。
江戸元は前からそうだ。勝手に一人で考えて進める。宰蔵もアビも、ひょっとしたらお頭すら子供扱いして、一人でなにもかもすませてしまう。
若く見えるが、生きていれば宰蔵の母と年は大して変わらない。アビは山育ちだし、竜導はあんな根無し草だ。気まぐれだしいい加減だけど、江戸元が一番しっかりしている。そう思っていた。多分、お頭もそう思っている。
だから、誰も江戸元を助けてやらないのだ。自分よりしっかりしている江戸元が参ってるなら、自分などでは手助けにならないと、そう諦める。分からないじゃないか。人は弱いものだ、たった一目見た男に恋い焦がれて全てを失ってしまう娘の物語など、歌舞伎や狂言にはたくさんある。一体どんなものが人の心を壊すのか、そんなものは分からないのだ。
江戸元は、何に心を壊したのだろう。
さくりと音を立てて、宰蔵の足が止まる。いつの間にやら雪が降っていた。風景はうっすらと白く覆われている。急に月代の部分が冷えてきて、懐から出した手拭で拭った。
江戸元が、あの江戸元が、自分の心の傷などを人に言うはずがない。
気まぐれでいい加減で、いつも笑っていて、しなやかで凛々しくて、そんな江戸元が自分の痛みを誰かに委ねるなど有り得ない。
江戸元はそんなに弱くない。
矛盾している。矛盾している。江戸元とて人だ。人は弱いものだ。それを支えてやるものが必要だ。しかし、江戸元は強いからそんなものは必要ない。
私が何をしてやれる。江戸元より子供で、江戸元より弱くて、江戸元より賢くなくて、そんな私に何がしてやれる。
やつれた顔で宰蔵に以前と変わらぬように微笑んだ、あんなに強い江戸元に何がしてやれるというんだ。
何もできない。ただ、自分の無力を思い知るだけで、何もできない。
宰蔵の足は動かない。船着き場まであと少し。胸に抱えた煮売りはすっかり冷えきっていた。
片足がじりと後ろに下がる。じり、じり、じり。
逃げよう。
踵を返そうとした、その時だった。
「宰蔵」
白くぼやけた雪の中から、のっそりと大きな人影が現れる。いや、大きいのではない。何かを背負っているのだ。だから、大きく見える。
「おがさわらさま」
「ちょうどいい。手伝え、宰蔵」
そう、背中を指し示す。反射的に駆け寄れば、負ぶわれていたのは、羽織に何重にも包まれ、くったりと眠った元閥だった。
「え……」
「いや、貸していた書が必要になってな。取りに行ったら、こんなにやつれている。アビがいなくなってろくに飯も食っていないのだろうな。養生のため、九段に来いと言っても聞かぬものだから……」
「だから?」
「当て身を食らわせて、運んできた」
ふん、と、放三郎が鼻を鳴らす。
「部下を飢え死にさせたとなれば、私の恥だ」
元閥は頭から放三郎の羽織を被せられている。雪に濡れぬようかけてやったのだろう。しかし、歩いているうちにずれてしまったのか、前髪がわずかに凍っていた。手を伸ばし、雪を払い落として、羽織を引っ張り上げる。
「どうした、宰蔵?」
涙が止まらなかった。冷えた頬の上を、熱い涙が流れて行くのが自分でもよく分かった。
「……ごめんなさい」
逃げようとした。これ以上見ていられないと逃げようとした。
「おかしら、えどげん、ごめんなさい」
これ以上、自分の弱さを見せられるのが怖くて、逃げようとした。
ぼろぼろと泣き続ける宰蔵に、放三郎はなすすべもなくおろおろとする。頭でも撫でてやろうかと思っても、元閥から手を離せない。
ぽふ、と、雪の積もった宰蔵の髷に手が置かれた。
「……さいぞうさん……」
うっすらと目を開けた元閥が、こちらを見て微笑んでいた。やつれた顔で、以前と変わらず。
「ごめんね、だいじょうぶですよ、さいぞうさん」
謝るな。強がるな。泣いている自分が惨めすぎるではないか。
耐え切れず、宰蔵は声を上げて泣いた。
うあああん、うわあああん。
ごめんなさい。ごめんなさい。
白い手に雪が積もる。そっと、宰蔵の頭にかかった雪を払い続ける。
江戸元は悪くない。アビも悪くない。
もしも、江戸元が悪いと、アビが悪いと、宰蔵が悪いと言い切れる者がいるなら、
それは、江戸元自身であり、アビ自身であり、宰蔵自身だけだ。
一番悪いのは、自分だ。
宰蔵はそう思うしかなかった。それ以外に、責めていい存在を見つけられなかった。
- by まつえー
- at 14:25
- in 小咄
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