2007年07月02日

幽明境を異にする

 一応往元、っぽい。
 時系列的に『ユメミルクスリ』のちょっと前。


 聞き慣れた高い音に気付いた往壓が拝殿からのっそりと出ると、果たして川床には赤い肌の娘と茶色い大きな馬がこちらを見上げていた。普段であれば、何ぞ大騒ぎをして噂を齎すのだが、今日は不思議と静かだ。他に出迎える人間もいない、往壓はゆっくりと階段を降りる。
「どうした。また妖夷か」
 ふるふるとアトルが首を振り、懐から巻紙を取り出す。
「文を持ってきた」
「俺にか?」
「江戸元に」
 ああ。嬉野の使いだ。本来なら若者なりが持ってくるのだろうが、この場所にこれる人間はそう多くない。
「江戸元はどうした?」
「出掛けている。預かっておこう」
 直接渡せと言い付かっていたのだろう。アトルはわずかに逡巡し、往壓の手に文を渡した。
「珍しいな、文なんざ」
 女郎が客に文を書くのはよくあることだが、元閥と嬉野の間柄は少し違うらしく、往壓は嬉野が元閥に着物をねだったり、元閥が嬉野の機嫌を取ったりするところを見たことがない。火急の用でもあるのか。
「江戸元は最近どうだ?」
「最近って、別段どうもしないが?」
 こもる癖は抜けたし、今日も宰蔵を引っ張って、新しい柄が入ったという呉服屋に行った。いつも通りだ。
「もうずっと、江戸元は吉原に来てない」
「……なんだと?」
「これだけ来ないのは初めてだそうだ。病気とかじゃないというのは伝えてあるけど、花魁は心配している。だから文を……」
「だが、よく泊まりで出掛けているぜ?」
「泊まりだから吉原とは限らない」
 そりゃあそうだ。むうと考える。時間がない訳ではない。有り余っている。金がない訳でも無い。給金が出るより昔から吉原では顔が通っていたようだ。他に入れ込んだ女、乃至、男ができた。有り得る線だが、そのような気配は見えない。なにがあったか。
「……どうした、雲七」
 ふと顔を上げれば、大きな馬は落ち着きなく蹄で床を掻き、ぶるぶると鼻を鳴らしている。
『嫌な匂いがしますよ、往壓さん』
 昨日、風呂に入っていないのがばれたか。
『違いますよ。匂いというより、気配ですか。嫌なものが纏わり付いている』
「妖夷か?」
『それとも違う。害がある気配じゃあ、ありませんが……』
「雪輪、帰ろう」
 馬を案じてアトルが声を掛ける。
「江戸元には伝えておく。まあ、近いうちに出向くだろうさ」
 アトルは往壓の言葉にこくりと頷き、一拍置いて言葉を付け足した。
「往壓も来て」
 苦笑いと振った片手で、飛んで行く馬を見送る。
 元閥が戻って来たのは一刻ばかり後だった。


「小紋のいいのがなくてねえ。三軒ばかり梯子しちまいました」
 かさかさと文を開きながらそうぼやく。
「……殊勝なことを言うようになったねえ、あの子も」
「どんな?」
「金がねえならこっちが身銭を切るし、別の馴染みがよくなったなら、手打ちとは言わないから挨拶だけでもしてくれろってさ。こんな切ない恋文もらうのは何年ぶりだろう」
 ぺらりと見せられた文は、女郎の手によるものにしては少々固い字だった。元閥の字によく似ている。
「で、金がねえのか、他にいい人でも出来たか?」
「そんなんじゃありませんよぅ。うん、簡単にいえばね、行く理由というか、行かなきゃならねえ理由が無くなったんだよ」
「……心離れか」
「違うよう。嬉野は悪くねえよ、儂の問題サ」
 だから、心離れだろう。そう重ねれば、あの子より可愛く思ってる女はいねえよとけらけら笑う。
「宰蔵は?」
「ありゃ、女じゃない。犬の子だ」
 ひどい言い草だが、確かに元閥が宰蔵をかまう姿は、娘を可愛がるというより、キャンキャンはしゃぎ回る犬猫と戯れている姿に近い。
「まあ、明日辺り行ってみますかね。返事を書きますから、往さん、持ってってもらえます?」
 アトルにも会いたいでしょう。返事をすれば揚げ足を取られる。往壓は黙って文机を引き出す元閥の後ろに腰を下ろした。
「そうだ、明日は往さんも連れてってあげましょうか?」
「吉原にか?」
「奢りますよ」
 奢ってもらわねば、行けるはずもない。往壓はしばし考え込み、首を振った。
「いや、俺はいい。アトルの顔だけ……」
「前から思ってたんですがね。往さん、年増の女が苦手でしょう?」
 ぐ、と、喉が鳴る。
「いつも、禿か新造としか喋ってなかったですし、嬉野が話しかけても黙って飲んでるだけだ。あと、あれだ。初めて会った時にね、宰蔵さんとはすぐ打ち解けたってのに、儂とは目を合わせたがらなかったよねえ」
「…………」
「あれですかね。母親でも思い出すんですか? それとも、自分以外の男と比べられるのが怖いとか……」
「行くよ! 行けばいいんだろう!」
 きゃきゃきゃと笑う元閥の後ろ頭を、火が出んばかりの目で往壓は睨み続けた。


 顔を合わせるなり不義理を詰るかと思いきや、美しい花魁は深く安堵のため息をつき、お元気そうでようござんしたと呟いただけで、後は普段通りの様子だった。
 元閥が開く座敷は楽しげではあるが、騒々しいものではない。流行りの歌を覚えてきたという新造に一節歌わせては、即興で三味線をつま弾き、銀を与えて、声と才覚と愛らしさを褒めてやる。まるで隠居のような可愛がり方だ。嬉野はにこにこと隣りに座り、興が乗れば和歌を詠み、ころころと品よく笑い、はしゃぎ過ぎた新造や禿をそっと宥める。
 女郎と言えば、線香を立てるなりさあ帯を解けと伸し掛かるようなものしか知らなかった往壓は、このような場は不慣れだ。歌の詠み合いなど持ちかけられても、往壓がそのようなものに慣れ親しんだのは元閥がまだ乳飲み子であるような昔のことだ。座敷に慣れておらず、さらにはそこで恥をかくことにも慣れていない往壓は、自然、黙って隅で酒を飲むだけになる。一度、アビと共に連れてこられた時など、一緒に別の部屋に移ろうかと小声で相談したほどだ。
 故に、手水だと座敷を抜け出し、それを嬉野が「ご案内しんす」と追ってきた時など、本気で振り切って逃げてやろうかと思った。
「竜導様」
 手水場から出て来たところに手拭を差し出された。突っ返すのもおかしな話なので、素直に受け取って濡れた手を拭く。
「竜導様、江戸元様になにがありんしたえ?」
 鋭い。これほどに人の気配を察することが出来なければ、お職は張れないのだろう。
「そう見えるか」
「あい。無理をなさってらっしゃる」
「本人に聞けばよいだろう」
「楽しみにきてらっしゃるのを、そんなこと……」
「俺ならいいのか」
「竜導様は楽しんでおられぬ」
 こいつ、元閥に似ていないか? 往壓を客とも思わないズケズケとした物言い。事実、金を払っていないのだから、客ではないのだが。
「神職を退いたそうだ」
「……まあ」
「あと、古い知り合いが死んだ。俺が言えるのはここまでだ、残りは閨で江戸元に聞きな」
「竜導様」
 座敷に戻ろうとする往壓の袖を、つ、と嬉野が引く。年増の女が苦手だ。手練手管に長け、男の気持ちを軽々と操ることができると自負する女が苦手だ。往壓の上っ面を見て、全て分かったような顔で笑う女共が苦手だ。
「江戸元様を、よろしゅうお頼みしやんしょ」
「なんでだ」
「昔、言うてなさんした。社の中は俗世とは違う世界じゃ、吉原も俗世とは違う世界じゃ、なれば吉原の方が居心地がよいと」
 年を経た女にあるのは打算と色欲だけだ。真心など微塵もない。吉原の遊女などその最たるものだ。彼女らの使う言葉すら虚飾に塗れ、この四角く囲われた世界にまことのものなど何一つない。
「社をなくされた、吉原にもこられんようになった。なれば、江戸元様はどこにおいでになりんす」
 きゅう、と、嬉野の指が古い布を掴む。彼女はこのような粗末な布を纏ったことなどないのだろう。
「わっちは吉原以外の世間を、俗世を知りんせん。なれば、江戸元様はわっちを可愛がってくださる。吉原の女こそが、江戸元様にとっての女でありんすよ。外の女に、江戸元様が分かりょうものか」
 この世界には、この世界の決まりごとがある。ここでは嘘はまことであり、まことは嘘である。全てが虚であるなら、虚こそを実とするのがこの世界だ。
「江戸元様を、よろしゅうお頼みしやんしょ」
 嬉野の指をほどき、往壓は歩きだした。


「だから、奢ると言ったでしょう」
「主人を一人寝させて、連れだけがしっぽりとはいくかよ」
 座敷が引け、そのまま帰ろうとする元閥を嬉野が引き留めた。本当の通というのは、花魁の座敷だけを楽しんで枕を強いるような真似はしないのだそうだ。しかし、嬉野は元閥を引き留める。せめて、泊まって行けと。
「逆じゃねえか……?」
「よくある」
 隣のアトルに囁くと、簡潔な回答が返ってくる。
「江戸元が自分から花魁の布団に入ることはほとんどない。酔い潰れて、ほかの部屋に移せない時くらい。花魁は江戸元を大門から出したくないみたい。見ていろ。その内、拗ね出すから」
 いつも通りの感情の起伏の薄い声で、淡々と男女の機微を語るアトルの横顔に、やはり吉原に預けたのは間違いだったかと軽く悔いる。
 本当に嬉野が拗ね出した。江戸元様はわっちがうとましゅうなりんした、お前様に見捨てられてはわっちももう終い、これを機に切り見世にでも身を落としんす。
「分かった分かった。まだ、儂の部屋は残ってるかい? 火鉢と酒の用意さえしてくれりゃ、後は勝手にやるから」
 かくして、一人で夜通し飲み通すという旦那に付き合って、往壓は久方ぶりの女を抱き損ねた。もとより、今夜はそのような気分になりそうにもないので構わなかったのだが。
「冷えるね、どうにも」
「ああ」
 火鉢にかけたちろりを取ろうとし、元閥が小さく、あつ、と声を漏らす。不用意な部分に触れてしまったのだろう。代わりに持ち上げてやり、燗酒を元閥の杯に注ぐ。軽く会釈するのに返事はせず、自分の杯に注いだ分を啜る。横目で元閥を見れば、杯をじっと見つめ、指の痛む部分を唇に押し当てながらぼんやりとしていた。
「冷めるぞ」
「ええ」
「疲れたか」
 口元は指で隠されているが、目と頬の動きで微笑んだのだと分かった。
「ここで気苦労なんざ、したことなかったんですけれどね」
「嫌なら来なきゃいい」
「嫌じゃねえよ。あの子らに寂しい思いをさせるのも……」
「だから、そういうのを止せって言ってるんだよ!」
 思わず声が大きくなった。僅かにそらされた元閥の視線に、浅慮を悔いる。だが、ここで口を閉ざす訳にも行かない。
「聡いのは自分だけだと思うなよ。女郎に見透かされてまで肩肘張るのもいい加減にしろ」
「おや、なんか言ってましたか?」
 軽口を崩さない元閥の腕を無理やり引っ張る。
「怒られますよう」
 嬉野にか、アトルにか。今はそのようなことはどうでもいい。引き寄せられ往壓の膝に手をついた元閥の肩を抱く。
「お前は、どこに行きたい?」
「どこって……」
「海の向こうか? 山の向こうか? それとも、雲の上か? どこに行きたい?」
「どっこも行きたくねえよ」
 こてんと元閥の頭が、往壓の肩にもたれる。
「前も言ったよ。何度も言った。どこに行こうがおんなじさ。どこに行ったって、自分の体と心はついてくるんだもの。なら、同じだよ。どこだって同じだよ」
 元閥の指が往壓の胸元をたどる。鎖骨に沿って撫で、胸骨を確かめ、胸の中央でふと止まる。
「……アトルがね、何度も異界に行きたがっていた」
「……ああ」
「あの娘、あっちでも居場所がなかったら、どうする気だったんだろう」
 くすくすと笑いを含む声に、往壓の背にぞっと震えが走った。
「なんでああも信じてられるのかね。どっかに居心地のいい場所があるだろうって。どっかに幸せな暮らしがあるだろうって。今よりましだ、今より悪いところはない。そんなの全部思い込みだろう」
「……あるさ」
「ないよ」
「どっかにあるだろう!」
「ないよ。ないんだってば」
 白い頬をつかみ、無理やりに上を向かせ瞳を覗き込む。目を逸らそうとする元閥を、往壓は許さなかった。真っすぐにその目を捉える。
「お前が……お前さえよければ、俺は異界を見せてやってもいい」
「往さん、軽はずみを言うもんじゃないよう」
「俺が連れていってやる。どこにでも連れていってやる。だから……」
「往さん」
 ちくりと胸に痛みが走る。元閥の薄い爪が、往壓の皮膚に食い込んでいた。
「昔、昔の話だよ? 儂はね、真っ暗で恐ろしいところにいた。本当に真っ暗で、身動きが取れなくて、声も上げられない、そんな恐ろしいところにいた」
 きり、きりきり。尖った爪がゆっくりと薄皮を切り裂いて行く。
「往さん。儂はそこに戻りたいと思う」
 ぎりり。爪が生皮に食い込む。血を流す痛みに往壓は眉をしかめた。
「外の世界があそこよりも恐ろしいだなんて思いもしなかった。真っ白で、どこに行けるかすら分からなくて、声も届かない。こんな恐ろしい場所だなんて知らなかったんだよ」
 くつくつとひそやかに元閥が笑う。
「あそこにいれば何も心配いらなかった。自分で何かを考える必要もなかった、ただ言われるがまま目を閉じてじっとしていればよかった。なんで儂はあそこから逃げちまったんだろう」
 元閥が笑う。唇をにぃと引き、切れ長の目を三日月のように細め、行灯のかすかな明かりに照らされた肌は磁器のように白い。
「ねえ、往さん」
 その目の奥にある闇と、さらにその奥にいる元閥を知ることができるのは自分だけだと、往壓はそう思っている。
「儂をどこに連れていってくれるって?」


 雨の音が。ふと元閥が目を開けば、行灯の芯も切れ、閨は湿り気のある闇に包まれていた。木戸を閉めていなかったから、雨音と冷えた空気が入り込んできたのだろう。夜具からはみ出した肩にしくしくと冷えが刺さる。
 自分が寄り添う男を見れば、疲れ切ったようにぐったりと目を閉じ、やはり裸の肩が露になっている。互いの顎まで夜具を引っ張り上げ、元閥は往壓の胸にぴたりとしがみついた。
 元閥、大丈夫だ、俺がいてやる、俺なら、俺ならばお前を、
 男というのはいつもそうだ。自分が言うのもおかしな話だが。元閥は一人思い返して唇を引く。自分ならなんとかしてやれると、分かってやれると、そればかり繰り返す。
 元閥、元閥、お前ならばきっと、お前ならば分かってくれるだろう、お前は違うから、他のものと違うお前ならばきっと、
 力強く抱くような素振りで、必死に元閥に縋り付いてきた男の腕を思い出す。今も首の下に敷かれているそれに頬擦りをし、すんと汗の匂いを嗅ぐ。胸の奥で疼く感覚に元閥はため息をついた。
--それがいまのおまえのよすがか
 耳蓋を通さずに響く声。ひたりと足首の辺りが冷たく重くなる。寄り添った自分と往壓の身体の合間から、夜具の奥を覗き込む。ああ、またお前か。こんなところまで来るのだな。
--あわれよあわれなものよ
 私を哀れむために来たのか。ご苦労なことだ。
--わすれるなわたしはここにいる
 そうだったな。お前を連れて来てしまったのは、私か。お前がいるのは私が望むからだもの。私が見るものは、私の心が私に見せているものだもの。
--わすれるなわすれるなわたしをわすれるな
 忘れない。忘れるものか。忘れたくない。
--おまえをすくってやれるのはわたしだけだ
 そうだとも。私を救ってくれるのは貴方様だけ。私を分かってくれるのは貴方様だけ。
--げんばつげんばつわたしのげんばつ
 ああ、名前を呼んでおくれ。私の名前を呼んでおくれ。あの頃のように、私にかけられた呪いが解けぬように。私だけが取り残されないように。
--おまえをつれていってやる
 それはだめ。
「あかまつさま」
 小さく名前を呼んでやれば、夜具の合間を這い上がって来ていた赤い目は消えた。消えずともよいのに。重さが消え、動くようになった足を往壓の身体に絡める。
 まだ、お前の側へはいけないよ。もう少し待っておくれ、あと少しだから待っていておくれ。

 きっとこの竜を連れていく。

 元閥は愛しい竜の胸に顔をうずめ、瞼を閉じた。

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