2007年07月12日

さくらむすび 幕二

 こちらの続き。エロくはないが、ソレなシーン有り。
 小笠原少年の事件簿もあります。


「顔色が悪いな、江戸元」
「……そうですか?」
 まあ、悪いであろうな、と元閥は思う。
「身体の調子でも悪いか、それとも悩みでも……」
「実は……とある殿方に付きまとわれておりまして……」
 楚々と袖で口元を隠し憂いたため息を漏らせば、年若い蘭学者の顔は一瞬にして真っ赤に茹で上がる。
 面白い。袖の陰で元閥はほくそ笑んだ。
「そ、それは……難儀だな!」
「ええ、文や贈り物をくださるのですが、お断りし続けるのも心苦しく……どうしたものかと……」
「困ったことがあれば、私に言うがよい! これでも武家だ、か弱い婦女を守るのも務めのうちだからな!」
「そんな……よろしいんですよ。私も放三郎様と同じ奇士でございますから、そのようなお心遣い……」
「いやいや! い、い、色恋に奇士は関係なかろう! 江戸元のような、ろ、臈たけた女にこそ、うむ、付きまとう悩みである……私で力になれるなら……」
 面白い。面白すぎる。元閥は忍び笑いをこらえ切れず、袖で顔を隠して肩を震わせる。
「江戸元!? 泣いているのか? それほど辛いことが……!」
「やめて……もう、そのようなことはおやめくださいまし、放三郎様……!」
 面白すぎて腹が痛くなる。顔を隠してしゃがみこむ元閥の後ろで、肩に手をかけようかどうしようか惑う放三郎の気配を感じ、元閥はひくひくと身を震わせた。このままでは地に崩れる。

 元服したばかりのこの少年と出会ってからまだ半年ほどだ。
 前島の主は、この地の妖を鎮める役も担っている。この地が江戸と呼ばれるようになりあの怪僧が風水とやらで結界を張ってから、その役目はもっぱらお城の者に奪われていたが、そいつらの手にも余れば元閥まで話が回ってくる。要は、体のいい掃除役にされているのだ。
 放三郎はその仕事仲間だ。若くして有望されていた蘭学者の卵である。ここ最近、著名な蘭学者や町医者、蘭学贔屓の幕臣が次々と投獄されているが、鳥居肝入りの部下に養子入りした彼はそれを免れている。つまり、今この江戸で大手を振って歩ける蘭学者は彼一人と言って過言ではない。それ故、お城の手には余る物事を押し付けられている。蘭学を自分たちで取り締まっていながら、蘭学に頼らざるを得ない。そのような恥の仕事を背負わされている彼を、元閥は気に入っている。苦役を自覚しながらも、真っすぐに自らの信奉する学問の徒であろうとする姿は非常に好ましい。
 ついでに、真っすぐすぎて人を疑うことを知らないところが、面白くてたまらない。
 お城で引き合わされた時から、放三郎はすっかり元閥を女と思い込んでいる。大概の男は元閥が自分から名乗らねば気付かないのだから詮無いと言えるのだが、『年上の臈たけた女が、自らの戦いを支えてくれる』という己の境遇を、ヤマトタケルの故事や御伽話に重ね合わせでもしているのか、過剰に元閥を意識しているところが面白くて面白くてたまらない。それ故、元閥は敢えて男とは名乗らず、かといって女とも断言せず、思わせ振りな餌を撒いてはその反応を楽しんでいる。子犬の尾に紐をくくり付け、それを追ってぐるぐる回る姿を愛でるのに似ている。
 かといって彼を軽んじている訳ではない。高名な蘭学者に将来を嘱望されていただけあってその聡明さは目を見張るものがあるし、剣術の腕も認めている。少々頭が固すぎる点を除けば、育てばよい男になるのだろうな、と思っている。
 仕事仲間と言っても、正式な役職がある訳ではない。便宜上、自分たちのことを『奇士』などと呼んではいるが、元閥は『士』ですらない。何か用がある時は、付け文で呼ばれるか放三郎が一人で地下の社まで訪ねてくる。今日は日比谷の茶屋の片隅が待ち合わせ場所だった。
「……で、放三郎様。今日のご用件は……」
「うむ、これを……」
 笑い過ぎて浮かんだ涙をそっと指で拭う元閥をちらちらと見ながら、放三郎は懐より書き付けを出して開く。
「おむすびですかね?」
「……桃だ」
 桃はこんなに角張っていない。
「桃がつぶされるそうだ」
「……はい?」
「桃の季節だろう。店先に並んだり木に実ったそれがな、片っ端よりつぶされていく」
「子供のいたずらでは?」
「そうであれば、私達にまで話は降りてこないだろう。しかし、このような馬鹿げた話が……」
 言いかけて、放三郎は口を止めた。思案深げな元閥の表情に気付いたためだ。
「……なにか気になるか、江戸元」
「桃の実は破魔の実です」
 きゅうと放三郎の眉根が寄る。
「イザナギが黄泉比良坂で餓鬼を払うために投げ付けたのが桃の実。お伽話でも鬼払いが桃から生まれるでしょう」
「桃太郎とか言うやつか」
「あんまり知られちゃいませんけどね」
「詳しく調べよう」
 放三郎が帳面を畳み、懐にしまう。
「奉行所では、ほぼ同時にあちらこちらで被害の申し出があったということしか掴んでおらぬ。具体的にどこでどのように事が起こったのかを把握せねば。人の身に関わるようなことではないが……」
「何かの先触れかもしれない、ですか」
 こくりと放三郎が頷く。元閥も同感であった。ほぼ同時に、長椅子から腰を上げる。
「私はお城の西から調べましょう。放三郎様は東から」
「相分かった。……時にな、江戸元」
「なんでございましょう?」
「昨日な、このことを相談しようと聖天に赴いたのだが……そなたは不在でな……どこに行っていたのかと……」
「ああ……」
 そりゃあ、神主といえど四六時中社にこもっている訳ではない。どちらかといえば遊び歩いている時の方が多い。特に昨日と言えば……
「少々、吉原の方へ出向いておりました」
「……前から思っていたのだがな、なぜ江戸元が、よ、吉原に……」
 堅物な少年は、『吉原』という言葉を口にするだけでも頬を染める。
「私ぐらいの齢ともなるとね、いろいろあるんでございますよぅ」
 しかも、にっこりと意味ありげに笑ってやれば、さらに頬を染めて口ごもってしまうのだから、実に面白い。


「嬉野、按摩を呼んでおくれ」
「おや、足くらいわっちがやりんすえ」
「肩と腰もやってほしいんだけどね」
「ええ、ようござんすよ」
 ぐったりと五つ布団の上にうつ伏せになる元閥の足を、嬉野が掴む。女の力なら少し強すぎるほどでちょうどよいだろう。少し張った足の筋をぐいぐいと揉みほぐす。
「お勤め御苦労さんでありんすよう」
「全くだよ、これで給金も大して出ないってんだから割に合わない。息抜きにくれば、変なのは沸いて出るしさ」
「今日もおいでになりんしたねぇ」
 長谷の若様……新衛というらしい……は、元閥の座敷にちょくちょくと顔を出す。茶屋に金でも握らせて、知らせを走らせているのだろう。茶屋を変えようとしたこともあったが、どこに行っても結局は同じだと気付いたのでやめにした。何より、新衛が座敷に顔を出せば、その日の払いはすべて新衛持ち、しかも祝儀に色をつけて出すのだから、茶屋としては歓迎すべき客なのだ。旦那に嫌みの一つも言ったが、飢饉の影響で不況が続く昨今、このような客を無碍にできぬと頭を下げられてはなんとも言えない。
 さらに、仮にも武士の面体を張り飛ばしてしまったという引け目もある。場合によれば、あそこで切り捨てられても文句を言えぬはずだった。それを笑って許すという大らかさを見せられれば、こちらも無碍にしにくい。
 それに、話してみればそう悪い男でもない。堅い部分はあるがそれなりに遊びも心得ているし、頭もよい。話も下手ではない。
「北国の、山の怪のお話でござんしたか、あれはおもしろうござんした」
「ふん、バケモノの話ならいくらでもあたしがしてあげるよう」
「妖夷、でござんすか」
「放三郎さんが言うにはね。昨今現れる妖どもは異界から来ている。だから、妖の夷狄、妖夷だとさ」
 あたしはそう思わないんだけどね。寝そべったまま元閥が煙管に手を伸ばす。
「妖はこの世に住んでおられると……」
「住んでるというか、潜んでる……いや、漂ってるのさ。妖の種、素みたいなものがあちこちに漂っていて、なにぞの拍子で形を成す。そういうもんだとあたしは思うねえ」
 元閥の言葉に嬉野が首を捻る。当世の女としては最高の教育を受けてきた嬉野と雖も、このような話題にはついていきにくい。
「国学ってのが流行っただろ。古神道とかいうさ」
「へえ、平田先生の」
「ありゃ不得手の戯作者だよ、先生なんて大したもんかい」
 ふう、と、荒く元閥が煙を吐く。
「曰くね、この世界は天地と黄泉に別れていて、その三界はどれも曖昧に交じり合っている。まあ、ここらへんはあたしも同意するんだけど。何かの拍子に天に昇って、ちょいと踏み外せば黄泉に落ちる。そんな世界が交じり合う点からこぼれ落ちたものが……」
 妖であると。
「むずかしゅうありんす」
「可愛がってた間夫に裏切られた花魁が鬼女になるってのと同じさ」
 くくくと笑って揺れる元閥の肩を、嬉野は横目で見る。
「あの若様のお嫁様も、妖になりんすえ?」
「ああ、そうだねえ。話に聞いただけならそうだ。こぼれ落ちちまったんだろうさ。まあ、あの女は妖というより、鬼だね」
 元閥は煙管の灰を竹筒に吹き出し、煙草盆の上にからりと転がした。
「人が人のままでこぼれ落ちれば、鬼になる。御霊が御霊のままでこぼれ落ちれば、妖になる。ならば……」
「ならば?」
 言葉を濁すように口をつぐんだ元閥に、嬉野が問い返す。元閥はそれに答えなかった。
「ちょいと外の空気を吸ってくるよ」
 そういって布団から身を起こし、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「大丈夫だよ。独り寝はさせねえさ」
 そう、罰が悪そうに微笑む元閥を嬉野は引き留めることができなかった。

 既に子の刻は過ぎた。さすがに仲の町も静まり返り、見世の籬も降りている。敵娼に袖にされ寝床を失った男が、河岸に向かうか屋台で飲むかとうろうろしているだけだ。自分もそう見えるのだろうか。否、それはない。到底、男には見えぬ身だ。
 元閥はちりと唇を噛む。いや、唇に走った痛みで、自分が噛んでいることに気付く。煙管を噛もうと袂に手をいれるが、嬉野の座敷に置いてきたことを思い出し舌打ちした。指を見る。爪も大して伸びてはいない。仕方なく、指の骨にカリカリと歯を立てながら、元閥はふらふらと吉原の奥へと進んで行った。
『よめさま、よめさま、おおくびのよめさま』
 呼ばれて足を止める。
「……誰が嫁様だよぅ」
『まえじまのみこだろう。なれば、おおくびのよめさまではないか』
 暗がりに目をこらす。いる。まだ形を成していない、物の怪のなり損ない……いや、物の怪こそが、『これ』のなり損ないなのだ。
 元閥の『感覚』は巫覡のそれとしてはひどく弱い。地霊の類いは殆ど見えない。しかし、向こうからはそうではないらしい。なにぞある度に『おおくびのよめさま』と呼び止められる。どうやらそのような時は、彼らが元閥に『合わせて』いるようだ。
「なんか用かい? 祝詞はやらねえよ」
『よめさまのへたっぴいなのりとなんかいるものか。ようがあるのはおまえのほうだよ。せっかくしんせつにしてやっているのにさ』
 くくくと闇が笑う。
「桃の実か」
『しってるよ。あのいたずらこぞうをしってるよ。おしえてやろうか?』
「……何が欲しい?」
 こいつらは決して代償無しで人に手を貸すことはない。自分から交渉を持ち出すということは、何ぞ求めているものがあるということだ。
『ひとばん、わたしのねやへきておくれ』
 するると闇がその手を延ばし、元閥の裸足の足首に絡み付く。ぞくっと背筋に這い上る感覚は、何度も覚えがあるものだ。ああ、『また』。元閥は唇を強く噛んだ。
『ちかごろのおまえはとてもよいにおいがする。うれているね。せんだってまではなにぞぎすぎすしていたけれど、いまはとてもよい。やはりおまえはまえじまのこだ。そのようにうれているのがよい』
 するりするりと形をもたないそれが元閥の膝から下を愛撫する。まるで柔らかい指先に撫でさすられ、小さな唇に吸い付かれているかのような感覚に、元閥は小さく息を漏らした。
『まだおおくびどのもふれていないそのにくをあじあわせておくれ』
 その言葉にかっと血が上る。付きまとうそれを振り払うように元閥は足を踏み出し、とんとんととんと禹歩を踏んだ。
「退け九郎助!」
 呪を乗せて名を呼べば、闇はさっと引く。しかし呪で引いたのではない。『引いてくれた』のだ。くすくすと闇が笑う。
『あいもかわらずつたないまじないだね。まあいいさ、おまえさまのきげんをそこねてもよいことはないもの。そのうちに……』
「……あんたらが『そこ』にいる内は、呪いでしか関われないからね。だがもし、血肉を得て『こちら』に転がり出てくるなら……」
 とん、と、もう一歩踏む。
「捕らえて捌いて食っちまうよ?」
 闇の笑い声がころころと楽しそうなものに変わる。
『きいてるよ。おまえらがちいさいのをとらえてくってるってさ。なにになるつもりだい? おにになりたきゃひとをくらえばよい。あやかしになりたきゃおにをくらえばよい。おまえはなにを……』
「うるさい! 退け!!」
 一際大きな令に、闇はぐるりと形を変え、きゃらきゃらと笑い声を上げながら黒い狐の姿で走り去っていく。自分の社に帰って行くのであろう。
 足が気持ち悪い。あいつらに触れられるといつもそうだ。その時は得も言われぬ甘さに包まれるが、一度離れればこの世のものならぬおぞましさだけが残る。
 まだ大首殿も触れていない。ああ、そうだ。まだ元閥は聖天との縁を結んでいない。巫覡の力が弱いのも、呪いが効かぬのもそのせいだ。原因は解っている。
 別の神の匂いを残した元閥が気に入らないのだ。
 だから、聖天は元閥に姿を見せない。口寄せにも応えない。力も貸さない。本来であれば、この地の地祇と同じ御霊を持つ元閥に、あのような下等な地霊まがいが触れられるはずもないのだ。
 口惜しさに、手近に転がっていた桶を蹴り飛ばす。馬鹿にしやがって。自分をなんだと思っている。神代よりこの地の精霊を治めてきた前島の裔だ。稲荷如きに馬鹿にされる謂れはない。
 神に仕える身として人の縁を手放し、人の心に応えて神より見放された自分はなんだ。
 嬉野の部屋に戻らねばならない。だが、今あの娘の顔を見るのはつらかった。自分はあの娘を同類と思っている、あの娘は自分を同類と思っている。なればこそ、あの娘に今の自分を見せることはできない。元閥を見た途端、嬉野は元閥と同じ顔をするに違いないのだから。
 ふらりと元閥は歩きだした。九郎助の社が近いのなら、御歯黒溝も近い。いつの間にやらここまで来てしまったのだろう。入水の真似事でもしてみるか。
「江戸殿」
 どこぞの旦那が散歩でもしているのかと思ったが、よくよく考えれば、この町の者が元閥を『殿』となど呼ぶはずもない。
「……長谷様……」
 帰ったのではなかったのか。
「別の見世で飲んでいたら、いつの間にやら大門が閉まってしまった」
 提灯を持ち、そう肩をすくめる男の影に目をこらす。頭巾も被っていない。堂々としたものだ。
「なれば、泊まればようございましょう」
「女郎が怯えていたものでな」
 噂は伝わるものだ。元閥の仲裁で見世が断ることはないが、女郎が応じるかどうかは別の話だ。夜具を追い出されても無理はない。
「その方こそどうした。夜更けに歩いては、妙な輩に帯を引かれるぞ」
 冗談のつもりだろうが、今の元閥には全く冗談になっていない。差し出された提灯から顔を背けるように、元閥は身を捻った。
「嬉野に振られたか」
「そんなわけがありますか」
「では、女郎が隣にいては不都合でもあったか」
 そのようなことを、
「お話する必要はございません」
「……私の話を聞いてくれたのだ。多少は恩返しをしてもよいだろう」
 誰が話を聞いてくれと言った。誰が頼んだ。
「……若衆が楽しみたきゃあ、湯島にでもいきゃあよかろうよ」
「童を苛めるのは好かぬ」
「女は吊るすのにかい」
「江戸殿」
 ざり、と、長谷の草履の下で土が鳴る。
「私がその方に話したことは、今まで誰にも話したことがないものだ。おそらく、これからもない。墓まで持っていく心積もりであった。私のまことを聞き届けてくれたのはその方のみ」
 くいと上げられた提灯の光はゆるいと雖も夜目には眩しく、元閥は思わず目を細めた。
「その縁に縋りたいと思うのは、おかしなことだろうか」
 おかしくは、ない。
「江戸殿」
 長谷の手が元閥の頬に触れる。
「泣いていたか」
 男に頬を触れられるのは久方ぶりだ。それに手を重ねるのは、もっと久方ぶりだ。

 放り出された提灯の火は、いつの間にか消されていた。壁に押し付けられ、まるで色を覚えたばかりの若輩のように口を吸いあう。長谷の口内に強く舌を吸い上げられ、身体の芯が震えた。ああ、この感覚。女は男の舌を吸わない。歯を立て噛むだけだ。元閥は吸われるのが好きだった。この身に最初に植え付けられた愉悦だった。男の大きな歯で舌の根元を噛まれ、喉から引きずり出すかのように強く吸われる。舌裏を愛撫されれば、ぴんと伸びた爪先が草履を外れて土を掻いた。
「……ああ……」
 裾を割り、腿に触れる長谷の手に腰を擦り付ける。すっかりと身体が解けていた。自分と縁を結びたいという男に、自分との縁を求めるこの男に、元閥の肉は熱に熟れ、すっかりと解けていた。


 半分うとうとと寝入っていた嬉野は、元閥が布団に倒れ込んでくるまで、その戻りに気付かなかった。重い瞼を堪え、なんとか身を起こす。
「……おかえりなんし」
「うん、すまないね。起こした」
 元閥の声色には、僅かに疲れが見えた。夜具に入らず、そのまま上にうつ伏せた身体は、力無く投げ出されている。
「足が汚れてありんすよう」
「ああ、それは……悪かった」
 足だけではない。小袖の裾も土埃に塗れていた。起き上がる気配のない元閥の代わりに、嬉野はその帯に手をかけ解く。
「嬉野。あたしはね、今し方、情を交わしてきた」
 ぴたりと嬉野の手が止まる。
「すまないね」
「何故に謝りなんすかえ?」
「辛くはないかい?」
「そんなことはござんせん」
「同じ夜具に入っても帯も解かない男がさ、どこぞでよろしくやってきて、また夜具に戻ってきてんだよ? 辛くはないかい?」
 元閥は嬉野の肌に触れたことはない。最初からそうだ、新造に上がったばかりの五年も前からずっとそうだ。別の見世で女郎を抱いているのは知っている。妻を取っていたことも知っている。それでも嬉野にだけは、決して触れなかった。
「それが、わっちとえどげん様の縁でありんす」
 そっとその背に身体を重ねる。
「えどげん様がわっちに触れぬことで、わっちがえどげん様の女郎でいられるなら、わっちはそれがしあわせでありんすよう」
 こればかりはまことの言葉だった。元閥と嬉野が交わす言葉には、真実など爪の先程にしか含まれてはいないが、こればかりは本心からの言葉だった。
「うん、そうだね。そうだよ、嬉野」
 結ばれぬ縁であるなら、それもまた縁なのだろうね。そう呟いた元閥は、そのまま眠りに落ちた。

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