2007年05月18日

ユメミルクスリ

 アビ元、幕間後。
 最初は拍手お礼に書いていたんですが、書き上げてから一切エロくないことに気付いたため、通常公開。
 一応、甘々ラブコメ、っぽいです(っぽいって何だ)


私ひとりは悲しかった。考えられぬほど悲しかった。
自らの仕える神を奪われた祭司さながら、私は、かくも怪物じみて魅惑的なこの海から、
その恐るべき単純さの中でかくも無限の変化に富み、
そして己の裡に、かつて生きた、今も生きている、これから生きるであろう
すべての魂のもろもろの気分と、断末魔の苦悶と、法悦とを蔵し、
自らの戯れ、身のこなし、怒り、微笑によってそれらを表象するかに見える
この海から離れるに当たって、胸を抉られるような苦い気持ちを
おぼえずにはいられなかった!
  --ボードレール 『パリの憂鬱』より

 

 

 低く小さく唸る声に、アビは瞼を開ける。もとより眠りは浅い方だ、別段苦ではない。思った通り、すぐ隣りで寝ていた元閥の頭が枕から外れていた。上掛けは乱れ、こちらに背を向け丸まって眠る元閥の足に申し訳程度に引っ掛かっているだけだった。
 寝返りひとつ打たないというほどではないが、元閥の寝相は悪くない。悪くなかった。寝床を乱すほど悪くなったのは、あの大ムカデの騒動以来である。
 起こさぬよう、そっと肩に手を掛けて、こちらを向き直させる。力いっぱい寄せられた眉、噛み締めて緊張に震える顎。その頭を自分の胸に抱き、柔らかく髪を撫でさする。
 うぅ、うう、という小さな呻きが、少しずつ消えて行く。アビの固い胸板にぺったりと耳をつけ、心音を探り当て、それと呼吸が同期して行く。落ち着いてきた。しかし、アビは元閥を撫でる手を休めることはなかった。
『脈と同じくらいの拍子はね、人の心を揺するんだよ。少し早く打ってやれば、はらはらとなるし、ゆっくり打てば、ゆらゆらとなる』
 だいぶ前、祭事に使う鼓の手入れをしながら元閥はそう言った。祭りの太鼓なんかよく聞いてごらん、そう外れちゃいないから。
『多分、女の腹にいたころを思い出すんだろう。あそこにいる間は、他人の脈で身体が生かされている訳だから。今でも同じように、他人の脈で気持ちが動いたっておかしくはないね』
 実を言えば、アビも何度もその他人の脈の世話になっている。この社に来たばかりのころ、眠りが浅く、しかも悪い夢を見ては何度も目を覚ますアビを見兼ねて、元閥が同じ床に入れと言って来た。
 まだ枕を交わすどころか、元閥とそのようになるなど思いもしていなかった頃だ。慌てて断ったが、いつもの強引さに押し切られ、毛皮は蚤がいそうだから着替えろとつんつるてんの襦袢を着せられ、布団の中で頭を抱かれた。
 だたでさえアビの背丈は布団の長さを越えるのに、元閥の胸元に頭があっては、膝から下が完全に床にはみだす。そんなことは気にならなかった。じんわりと肌に染みる元閥の熱。霧のようにアビを包むほのかな香り。ひっつけた頬から伝わるとくんとくんと規則正しい脈。脈の二つの一つほどの拍子で、柔らかく背中を叩く手。
 すぐにとろりとした眠りに落ち、そのまま朝までぐっすりと夢も見ずに眠った。あれほど深く眠ったのは、生まれて初めてだった。
 その何分の一かでも元閥が安心できればよい。顎の張りは取れても、眉は解かれない元閥の寝顔を見ながら、アビはそう思った。


「やつれたか、江戸元」
 久しぶりに前島を訪れた宰蔵が言った。やつれただろうか。分からない。
「アビは毎日顔を合わせているから分からないんだ。やつれたぞ、ちゃんと食っているのか」
「育ち盛りの宰蔵さんじゃあるまいし、ちょっと食ったり食わなかったりで、目方が変わったりしませんよお。帯の癖も変わってませんし、やつれてなんかしませんって」
 帯の癖も何も、もとより元閥の胴回りに余計な肉など一切付いていない。あばらの上には薄い皮膚があるだけで、腰回りは臓腑が一個か二個欠けてるのではないかと思うほど細い。女のように下腹にふっくら肉がある訳でもあるまいし、痩せたり太ったりで帯の結ぶ場所が変わるとも思えない。
「目方は量ったのか?」
「ですから、自分の目方なんか覚えちゃいませんって」
 のらりくらりと躱す江戸元に見切りをつけ、宰蔵はアビに詰め寄る。
「酒の量が増えたか? 食は細っていないか?」
 酒の量は増えたし、食も細っている。なにせ、妖夷の肉を手に入れる機会がめっきり減った。妖夷の肉以外は、酒くらいしか好むものがない元閥だ。食べる量が減り、酒が増えるのは自明だ。それでも、食わないというほどではないし、飲み過ぎるというほどでもない。
「眠りが浅いとか、夢見が悪いとかは?」
「……ある」
「ないよ、そんなもの」
 アビの返答をかき消すように、元閥が声を張り上げた。
「あいにくと毎日ぐっすり寝させてもらってます。飲む以外は寝るくらいしか楽しみがないもんでね。なんで宰蔵さんにそこまで口出されなきゃならないんです? お節介は嫌われますよ?」
「……私の母は、やつれて死んだ」
 宰蔵の答えに、ぴたりと元閥の口が閉じる。
「食が細ってきたと思ったら、どんどん細くなって、着物の身幅も余るくらいで、夜はうなされて……枯れ木みたいになってしまった。もっと早く医者に見せておけばよかったんだ。あんなひどい……」
「儂は大丈夫ですよ」
 半べそをかく宰蔵の頭を、元閥が撫でる。
「最近、急に寒くなりましたからね。ちょっと調子が崩れてるのかもしれない。辛いところはありませんし、ありゃあ医者なり行っていきますよ。ごめんね、宰蔵さん。ありがとう」
 宰蔵は元閥の羽織を握り締め、ちゃんと食えだの、酒ばかり飲むだなど文句をつけている。それに一つ一つ頷いてやる元閥は、ひどく優しい顔をしていた。きっと、アビを寝かしつけていた元閥も、あんな顔をしていたのだろう。


「悪い夢を見ているのか?」
「見ているよう」
 そんなあっさり。宰蔵が持ってきた瓦版を整理し紐で留めながら、さらりと元閥が言う。
「毎晩、頭を撫でてくれてるだろ。ありがとうね。お前も宰蔵さんも優しい子だ」
 にんまりと唇を引いた、いつもの笑顔で礼を言われる。
「気付いていたなら……!」
「気付いてたからどうだってのさ。夢見がよくなるよう、枕の下に七福神でも敷くかい? 山伏に祈祷でもお願いするかい? 仮にも儂は神主だよ? そんなものに頼ってどうなる」
 立て板に水だ。確かに夢見が悪いなど、医者に言ってもどうしようもない。拝み屋の領分だろう。
「それにね、寝床で男に髪を撫でられるってのは悪い気分じゃないよ」
 色めいたことを言われては、もはやアビには太刀打ちできない。綴じた瓦版の表紙に日付を書き付け、脇に置く。
「もうちょっとあんなふうにされたかったけどねえ。まあ、これ以上はお前さんが眠れなくなるね。今日からはいいよ、寝床は別にしよう」
「そういう問題じゃないだろう!」
「そうじゃなけりゃなんだって?」
 問題は元閥がよく寝付けないということだ。
「お前さんに抱かれて眠るのは安心するけど、悪い夢が消える訳じゃない。どうしたって起こしちまう。儂だって変な夢は見たくないけどね、見ちまうものは仕方ないだろう。どうにもできないよ。悪いものが憑いてる訳でもなし、それこそ寒さのせいで調子が狂ってるんだろう。儂にできることは、これ以上お前に迷惑かけねえようにすることだけさ」
 にっこりと笑う顔には、悪い夢に追われる人間の弱々しさなど一切なかった。
「儂は嬉しいんだけどね。お前さんも、夜中起きて効き目のない寝かしつけなんざしたくないだろう? 大丈夫だよ、寝るのが怖いって程じゃないんだから」


 元閥の側を離れたくはなかったが、これ以上共に寝るのもつらい。アビは川床の方へ寝床を移した。
 それでも夜中にふと目が覚めて、今頃元閥はうなされているのではないか、自分を探して夜具を掴んでいるのではないかと思うと、居ても立ってもいられず側へ戻りたくなるのだが、それも元閥に余計な気を回させることになるのだと思うと、やはりなにも出来ないのだ。


 数日後、小笠原が差し入れにと持ってきたものは、とても良い香りがした。
「乳香……ですね」
 細かい松脂のかけらのようなそれを掌にわずかに取り、すんと元閥が鼻を利かせる。
「よく手に入りましたねえ。今時、そう売ってないでしょう」
「なに、馴染みの薬問屋がな」
 興味深げに近寄ってきたアビに、元閥が掌を捧げる。森の匂いと果実の匂いが混じり合った香り。アビにはどこか懐かしい香りだった。
「で、香なんざどうしろと? もうちょっと洒落っ気を出せって事ですかね」
「それ以上、洒落られても困る。いや、乳香は薬としても用いられるだろう。歯磨き粉にも使われたものだしな。異国では腹の薬として飲んだりもするそうだ」
「……飲むんですか?」
 高いのに。
「質さえ拘らなければ、いくらでも取れるものらしい。舶来だから高いのであって、産地ではそれほど高価ではないのかもしれん。で、だな。この香りは気の沈みや眠りが浅いのにも効くそうだ。心を鎮めるのだろうな」
「……宰蔵さんですか。こんな高いものを……」
「いや、まあ、私としてもだな、お前に弱られるのは困る。食の細い江戸元など気味が悪いしな、なにより古馴染みが体を崩していると聞いては……」
「はいはい。ありがたく受け取らせていただきますよ」
 小笠原特有の遠回しな物言いにくすりと笑って、元閥は乳香の包みを受け取る。
「アビ、行李の中に香炉が……」
 首を回してアビを見上げ、元閥は絶句した。半べそをかいている。二十歳も越えた男が半べそをかくというのもおかしな話だが、そうとしか言いようがない。口惜しそうに唇を噛み、目を潤ませ、拳を握り締め、うつむきがちにじっと立っている。小笠原もその姿に気付き、口をぱくぱくさせている。
「アビ? どうしたんだい、アビ?」
「あ……いや、すまん。急用を思い出した。失礼する」
 まだ腰も下ろしていなかった小笠原は、そのまま踵を返し、階段を駆け降りる。元閥は、小笠原を見送りに行くかアビを宥めるか一瞬迷った後、アビの腕を引いて社の奥に座らせた。
「どうしたんだい? なにか気に入らないことでも……」
「……何も出来なかった」
「え?」
 アビの低い呟きに、元閥が耳を寄せる。
「宰蔵さんはあんたがやつれたことに気付いた。それを聞いて、小笠原さんは薬を持ってきた。俺は気付きもしなかったし、薬なんか知りもしなかった」
「何言ってんだい。お前は……」
「俺はあんたに気休めしかしてやれないんだ」
 ぼろりと涙が零れた。
「あんたがつらい時、俺は何も出来ない。いつだってそうだ。往壓さんはあんたを助けてやれたのに。宰蔵さんも小笠原さんも、色んなことをしてやれるのに。俺は迷惑をかけるばかりで、何も出来ない。俺はあんたに必要ないんだ」
「本当にそう思うんだったら、さっさと出ていきな」
 ずしんと低くなった元閥の声に、アビは一際強くこぶしを握る。
「別に儂は、お前無しではやっていけない訳じゃない。一人で暮らしてた時の方がよっぽど長いんだから。お前を居候させたのはお役目のためさ。もうお役目はない、お前さんがここにいる理由はない。己が儂の迷惑だと思うなら、山にでも海にでも帰ればよかろうよ。止めねえよ、勝手にしな」
 目の前が真っ暗になる気分だった。大声で泣きわめきたくなった。

「でもね。お前がいなくなったら儂は、心配で夜も眠れなくなるよ」

「ちゃんと食い物は見つかっただろうか、寝床は見つかっただろうかって、心配で寝られないだろうね。夢見が悪いどころの話じゃないよ。たまに寝りゃ、お前が熊に襲われる夢とか見て怖くて泣くよ。町中で背の高い男を見りゃお前を思い出して胸が痛くなるだろうし、日に一度は山に祝詞をあげなきゃ落ち着かないだろうね」
 一息で言いあげた元閥が、すうと息を吸う。
「儂にそんな心配をかけて平気なのかい、お前は」
 ぶんぶんと首を振る。そんな迷惑をかけられるはずがない。
「じゃあ、変な気を回してないで、ここにいな」
 そうだ。ここにいる。ここにいたい。力強く微笑む元閥を見ていると、自分が何に憤っていたのかすら分からなくなる。
 行李から香炉を持っておいで。
 言われて弾かれたように立ち上がり、二階の行李から手のひらに収まるくらいのずんぐりとした香炉を捜し出す。持って降りれば、元閥は乳香の小さなかけらを香炉の小皿に盛り、煙草盆から拾った炭火をくべる。しばらくたって、大して広くもない社の中に、甘く熟れた果実と木の香りが広がった。
「……森の香りがする」
「儂は、桐箪笥に酸っぱいみかんを入れちまった匂いに思えるんだけどね」
 なんだ、その子供の悪戯のような匂いは。元閥を振り返ろうかと思った瞬間、その頭があぐらをかいたアビの膝に倒れてきた。驚いたが、気持ち良さそうな元閥の表情を見ると、身動きする訳にも行かない。
「気は落ち着いたかい?」
「ああ」
「そうかい、よかった」
 それっきり元閥は口を開かない。
「……元閥?」
 眠っていた。眉根を寄せず、歯軋りもなく、規則正しい寝息ですうすうと寝入っている。香りの効き目にしては早すぎはしないだろうか。
 きっと自分の膝だからだ。そうに違いあるまい。
 アビは膝の上の美しい寝顔を、じっと見ていた。

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