2007年05月07日
Fate/Moira Atropos 前編 『とある竜の恋の歌』
往元。Fateシリーズ完結編(一応)の前編。
……一応、致してはおります。21話直後のお話。
「死のうとしたな」
床につく白い顔がふわりと笑った。骨の痛みによる熱のせいか、しっとりと汗をかき、頬はほんのりと赤い。
「何故だ。お前さん、そういうたちじゃねえだろう」
「じゃあ、どういうたちだっていうんです?」
問われて詰まる。もう半年以上の付き合いなのに、その正体はとんと掴めぬ。くすくすと笑った後、胸が痛んだのかわずかに眉をしかめた。
「おい……」
「……竜導さんは儂の恩人だから……特別に面白い謎掛けを出したげるよ」
「謎掛けとかじゃねえよ。痛むんなら寝てろ」
「あるところに子供がいたんだよ」
元閥の額にぽつぽつと汗が浮かび始めた。はぁ、と漏れる息になんとも切ない色がある。
「そいつはひどく大事にされて慈しまれて育った。自分は一番の幸せ者だと思っていた。でも、ある日、そいつは知ってしまったんだ。自分は生け贄にされるために育てられたんだと」
「……おい、そりゃあ」
あの、哀れな母子の。
「もちろん、逃げるよねえ。死にたかないもの。でも、逃げても逃げても追ってくる。そいつには呪いがかかってる。でも、逃げる。逃げて逃げて、そいつは幸せに暮らせる場所を見つけた」
「ああ、そうだな。きっと、あいつらも……」
「だが、そこにも呪いがあったとしたら?」
つうと額から流れる汗を拭ってやろうとしたら、その指を掴まれた。痛いほどに握り締めてくる。
「逃げ切れたと思った先にも呪いがあったとしたら? 後ろを振り返るたびに、それがじりじり近づいてくる。今が幸せでも、いつかそれに押し潰される。怖いよね、怖いだろう? ねえ、もしも竜導さんだったら、どうするんだい?」
「江戸元、もうあの妖夷は……」
「竜導さんの異界と同じさ」
ぴくりと指が引き攣れた。
「あんたはどこにいてもあそこから逃げられないんだろう? どこにいても安心できない。それはね、呪いだよ。あんたが自分にかけた呪いさ。それがあんたの物語なんだ」
「江戸元!」
怪我人でなければ殴りつけているところだった。往壓の怒鳴り声に、元閥が指を緩める。往壓は手を引いた。
「……なんでお前はいつもそうなんだ」
いつもいつも、嫌なことばかりを言い当てる。
「なんでだろうねえ」
「嫌な奴だ」
「……じゃあ、なんで儂を助けた?」
「そりゃ、お前、人としてだな」
「儂を見捨てたからって、竜導さんが人じゃなくなる訳じゃあるまいよ」
「そういうことじゃねえよ」
「それとも、儂がいなけりゃ竜導さんは人じゃいられないってことかな?」
くすくす笑う顔は、明らかに赤くなっていた。喋らせすぎたか。
「んな訳があるか。ほら、もう寝ろ」
「竜導さんに乗せてもらったのは、儂が初めてだよねえ」
「……ああ、そういやそうか」
雲七ならともかく、駁竜に人を乗せたことはなかった。
「雲の上ってのはきれいなもんだねえ。ちぃと息苦しかったけれど」
元閥の指が往壓の膝の辺りを握る。子供が飴をねだるかのように。
「ゆきあつさん、またのせておくれよ」
「無茶言うんじゃねえよ。雲七にならいつでも……」
「やだよ、ゆきあつさんじゃなきゃ。のせておくれったら」
「江戸元、ほら、落ち着けって」
はぁはぁと息が上がっている。熱下しを飲ませようと頭に手を添えるが、いやいやをするように振り払われた。
「ゆきあつさんがいい。ゆきあつさんがいいよう」
「江戸元。口を……」
「ゆきあつさん、あのね。のっけてもらって、とてもきもちがよかったよ。くものうえはほしがきれいで、あれがほんとうのそらなんだってはじめてしったんだよ。ゆきさん、はじめてわかったんだよ」
ゆきさん、
「あんたがおしえてくれたんだ」
ああ、くそ。往壓は水を口に含み丸薬を歯に挟んで、無理やり元閥に口づけた。ゆるりと開いた唇の透き間から水を移し、舌で丸薬を押し込む。こくりと喉が動くのを見届けて、唇を離す。
それだけのつもりだったというのに。
「ゆきさん」
その白い指が、往壓の胸元を握って離さないものだから。
「ゆきさん、ゆきさん」
上ずった声で、何度も名を呼ぶものだから。
「なんでたすけた」
熱に潤んだ瞳で、じぃっと見上げてくるものだから。
ああ、くそ。
思い返せば、あの時、既に腹では決めていたのかも知れぬ。
薬が効き出したのか、疲れたのか、すうすう眠る元閥の衣服を正してやり、肩までぴっちり夜具をかけ直す。起こさぬよう、足音を忍ばせて部屋を抜け出した。
えらいことをやらかした。他に見つかったら、百叩きで済めばいい方だ。特にアビに見つかれば、けじめの一つもつけられるやもしれぬ。
あれはいたく元閥を大事にしている。まるで元閥が壊れやすい切子の細工でもあるかのように、そっと、そっと接している。
もしも--十中八九そうだと思うが--枕を交わす仲であったなら、その扱いも分からぬでもない。追い上げられてくすんくすん鼻を鳴らしながら、必死に縋り付いてくる姿は、普段の高飛車さとは違い、なんともいじましく胸に迫るものがあった。
そんなものは言い訳にならない。
じっとりと湿った肌の感触を追い出すかのように頭を振りながら、往壓は階段を降りた。
それから五日もして、ようやく元閥は床から抜けた。さらしで庇ってはいるものの、やはり痛みは残るのか歩きがぎこちない。普段の軽やかな歩きとは明らかに違う。
時には危なっかしく転びかける元閥を支えるのは、不思議と宰蔵の役目だった。元閥の後ろをちょこまかと付いて回っては、身を屈める用や階段の昇り降りを手助けしている。
常であれば、アビの役目であるはずなのだが、何故だか彼は手を出さない。……いや、手を出したくはあるはずなのだ。元閥が少しでもよろめけば、ぱっと顔を上げ半歩踏み出す。元閥が何かひとつ動くたびに、痛ましげな表情でじぃっと見ている。今にも側に駆け寄りたいのを、じっと我慢している。そのように見えた。
二日もそれを見ていて、ようやく往壓は原因に思い至った。
『江戸元を見捨てるのか』
失言だった。アビも放三郎も自分を気遣ってくれただけで、元閥を見捨てるなどという気はないのは分かっていたのだ。だが言ってしまった。言ってしまった以上、取り返せない。
アビは自分が元閥を見捨てたと思っている。見捨てた以上、もはや元通り近くに寄れないと思っている。その権利を失ったのだと、そう思っている。
まずいことになった。
他人の恋路を邪魔する趣味は無い。自分の言葉がアビに戒めを齎したなら、なんとかせねばならない。……どうやって。心についた傷というのは、癒えにくいものだ。自分など、三十年近くも同じ傷を抱えている。
拝殿の縁側で番茶を啜りながら思案する。こう暑いと冷たいところてんでも啜りたいところだが、生憎と出入りのところてん売りは棒が担げる状況ではない。幸い、前島の社は水に囲まれている分、暑さもゆるい。
「往壓さん」
低くよく響く声に呼ばれて振り返る。アビが何かを片手に手招きしている。
「なんだ」
「船を出しちゃくれないか」
自分で出せばよかろうに、なぜ俺が。そう問おうとしたが、目の前に差し出された漆蒔絵のはまぐりの貝殻に阻まれる。幾度か目にしたことがある細工物。元閥の紅入れだ。
「今日は二十日だ」
毎月二十日に、元閥は紅を買いに行くのだと言う。よく覚えているものだ。
「いつもは俺が船を出すが、今日は行けない。元閥は危なっかしい。頼む」
「……俺の竿差しだって大概だぜ? 宰蔵が来るまで待てば……」
なんとか理由をつけて断ろうとしていると、二階からおそるおそる降りる足音がした。
「ああ、竜導さん。儂の紅入れは見ませんでした……?」
元閥からは、アビは壁の陰に隠れ見えにくかったのだろう。まず往壓に声をかけ、次に往壓に差し出されている大きな手に目を向け、その正体を確かめ……見る見る内に目が吊り上がった。
とととととっ!
「あ、おい……」
いきなり早い足取りで階段を降りる。頭がふらふらと揺れて危なっかしい。その危なっかしい足取りのまま、往壓とアビの合間に割り入り、大きな手から紅入れをふんだくった。
「……お前ッ……!」
勝手に持ち出すな、か。勝手な気を回すな、か。元閥の激しい声が途中で飲み込まれる。一瞬で、アビが何をしようとしていたのか察したのだろう。それを罵倒するにできない。その逡巡による短い沈黙だった。
元閥の細い肩が縮こまる。元より男にしては細いが、体格のいい往壓と人並み外れて身体の大きいアビに挟まれれば、本当に痩せた娘御としか思えぬほどに細い。その肩が、より小さく細く縮こまる。いっそ、痛々しいほどに。
「……げんばつ……」
呼びかけたのは、アビが先だった。それを切っ掛けとするかのように、ぱっと元閥が身を翻す。二人の合間を抜け、川床へ降りる階段を駆け降りようとし、その勢いのまま……姿勢がくずれた。
「……っ!」
危ない。そう思う間もなかった。往壓はとっさに手を延ばし、元閥の袖を掴み強く引き戻す。余りに勢いづいたものだからしっかりと受け止め切れず、二三たたらを踏み、元閥を胸に抱えるようにしてようやく一息つく。危なかった。
ふと顔を上げれば、アビの右手が空を掴んでいた。しまった。往壓は臍を噛む。任せておけばよかったのだ。どうしてこう間の悪い。
「……江戸元?」
ぎゅう、と、元閥の左手が往壓の着物の胸元を握る。右手は大事そうに紅入れを胸に抱えたまま、白い指先で薄い布を握り締める。もうこれも襤褸だから、あんまり爪を立てられると破けてしまう。往壓から見て元閥の顔は豊かな鳶色の髪に阻まれ、どのような心持ちでいるか推し量ることはできない。
その様を見て、アビは無言で踵を返した。何も言わぬまま裏手に回り、二階への階段をとんとんと上って行く。
やらかした。往壓はため息をひとつついた。
普段であれば、引っ繰り返すんじゃないよとか軽口の一つも出るだろう。しかし、元閥は往壓の拙い船さばきに一つも文句を言わず、じっと黙って座り込んだままだった。
「上野でいいのか」
いつも買っている紅屋は、そっちの方だと聞いたことがある。
「……あっちにゃ行きたくありませんか」
そうだ、上野には竜導の屋敷がある。しかし、普段の軽口憎まれ口ではなかった。口調こそ軽いものをだったが、往壓の心情を思いはかってのものだと分かった。
「別にかまわねえよ。屋敷で紅売ってる訳でもあるまいし」
「そう」
それっきり、ぱたりと黙る。なんとも耐え難い沈黙。
「……あー、だからな。上野で……」
「上野でいいですよう? ついでに、不忍池の茶屋でも行きます?」
いきなり調子を取り戻しやがった。語尾を巻く軽い口調にいつもの艶のある含み笑いで、往壓を上目使いに見上げる。
不忍池の茶屋。密通専門という、あの。
「……馬鹿いうんじゃねえよ」
「じゃあ、湯島でもしけこみますか」
陰間の色里だ。今は大分廃れたらしいが。
「……いや、謝るよ」
「当たり前ですよう。怪我人にひどいことしやがって」
やはり覚えていたか。熱で朦朧となっていることを期待したのだが。
「しかし、竜導さんにこっちの趣味があるとは思わなかった。女一辺倒だと思ってましたよ」
「趣味はねえよ。まあ、四十も生きてりゃ色々あらぁな。大体、お前さんみたいな別嬪に熱っぽく縋られて、逃げれる男がいるものかよ」
ころころと元閥が笑う。本当によく表情が変わる男だ。
「まあねえ。あんまり逃げられたことはないですねえ」
「こええもんだな。何人が道を踏み外したもんだか」
「うん。アビとかね、酷いことをした」
しまった。なんで自分はこうなのだ。元閥のように先を読んで言葉を選ぶということが出来ない。いつも誰かに先を回られる。
「……酷くはねえだろう」
「酷いよ。酷いことをした。字なんか教えるんじゃなかった」
山育ちにしては物を知っていると思ったが、元閥が仕込んだものだったか。
「竜導さん」
「あン?」
「儂がいなけりゃ、あの子は山に帰れただろうか」
どう返しても元閥が辛いことだけは分かった。己が誰かを縛り付けることに苦しみ、己が誰も縛り付けられないことが苦しい。元閥は、そのどちらからも押し潰されている。うつむき加減の首から覗く項と背中の白さが目に毒だ。
「お前から縋ったのか」
「さあ、どうだろう。よく分からないね」
ならば、好き合ってのことなのだろう。それなら、元閥一人が責を負う謂れはない。
「山育ちって言ったって、あいつも立派な男さ。ものの道理がわからねえわけがねえ。じゃあ、道を違えようとそいつのせいさ。違えたくて違えたんだ。違えたくねえ奴は、死んでも踏みとどまるものだ」
「うふふ。そういうのは、竜導さんが言うと真に迫って聞こえるね」
「悪かったなあ、踏み外しっぱなしでよ……」
「だが、それを異界のせいだと思ってたんだろ?」
俺は何度同じことをやらかせば気が済む。
「だから、異界から逃げてきたんだろ? 近づけば飲み込まれちまいそうで」
「……ああ、そうだな」
「そりゃあ、あんたが異界に焦がれてるからだ」
「江戸元、あのな」
「儂にもあるよ、そんなのが」
逃げても逃げても、追ってくる。
「ちょっとでも近づけば飲まれちまう。だが、それが近づいてくるのを止められない」
それには呪いがかかっている。
「儂は、あいつにそんなもの持ってほしくなかったんだ」
怖いよね、怖いだろう?
竿を放り投げ、後ろから抱きすくめてやろうかと思った。それほどに、その細い肩は痛ましかった。
空の紅入れが、暴れる足に蹴られて、薄暗い部屋の隅へ転がっていった。まだ昼間だというのに木戸を閉め切り、芯を切った行灯に火が入っている。なるほど、密通専門というのは伊達ではない。ちょんの間でも逢い引きに浸れる支度が整っている。
「竜導さん、竜導さん」
「ゆきって呼べよ。この前みたく」
いやいやをするように首を振る。ぐすぐすとべそをかく顔は、汗と涙で白粉が流れても猶白かった。
「竜導さん、やめておくれよ。後生だから」
「馬鹿言うんじゃねえ。ついてきたのはお前だろう」
「やだ、いやだよ。竜導さん、竜導さぁん」
そう言いながらもただ首を振るだけで、抵抗らしい抵抗を見せない。まだ骨を痛めているとは言え、逃げようともしないし、殴りもしない。弱々しく肩を押し返すだけだった。
さらしの上から脇の線をたどり、鎖骨を噛む。手の中のものはしっかりと立ち上がり、とくとくと脈打っている。こんなところまで白く滑らかで無骨なところがないのかと、軽く驚嘆する。
「いや、いや、りゅうどうさん、もうゆるして」
何を許せと言うのか。慰めてやろうとしているだけなのに。
白い首もとに顔を伏せつつ、枕元の盆に手を伸ばし、ごそごそと探る。やはりあった。湯島が近い上に、密通の年増が多いとなれば、このようなものを常備していない訳がない。
葛とふのりを染み込ませた一寸ばかりの短冊を噛む。しばらく含んでいると、ぬるぬるとしたもので口がいっぱいになる。ふと思い立ち、そのまま元閥の口を吸った。舌で紙を押し込み、口の間でしゃぶるように弄ぶ。二人の唇が、とろとろした汁でぺとぺとくっつく。
「や……苦い……」
「我慢しろよ、痛くされたくねえだろ」
小さな口の中に指を突っ込み、短冊を弄るとどろりと糸を引いた。汁の壷のようになったその口腔に指を二本ばかり押し込み、こそげるように粘液をたっぷりと絡める。
「んぷ……うぅ……」
口を太い指で蹂躙され、苦しさに元閥が眉を寄せる。汁をたっぷり含んだ口の中は、とっぷりと蕩けた女のほとを思わせる。
「今、口取りしてもらったら、さぞや良いだろうな」
元閥の目がわずかに開き、往壓をにらみ半分懇願半分で見つめる。ひどいことをしないでと切々と訴える目は、ほとんど生娘のそれだった。往壓は背筋にぞくぞくとしたものが走るのを感じる。
「冗談だ」
蜜菓子のように汁をまとった指で短冊を挟み、口から引き抜く。大きく口を開け、元閥はぼんやりとその指の行く様を見る。
「足開け」
諦め、観念したかのように元閥は顔をそらし、ゆっくりと白い足を広げた。
紅屋の前で、元閥は懐から紅入れを取り出した。それをさっと奪う。
「買ってやる」
あ、という小さな声を無視して、一人で奥に入り番台に紅入れを差し出す。主人も心得たもので、一瞥しただけで江戸元様のお使いでとにこにこし、奥から同じ蒔絵の紅入れを持ってきた。お改めくださいと蓋を開けると、玉虫色に輝く上等の紅がたっぷりと入っている。紅一匁金一匁。これを一月で使い尽くすなど、吉原の花魁でもそういまい。先程の茶屋の払いで多少軽くなった財布を心配しているところ、払いは既に一括で貰っているからと主人は頭を下げ、往壓を送り出した。
今後ともご贔屓に。
暖簾を潜り、戸の脇で所在無げに立つ元閥に紅入れを差し出す。
「何が、買ってやる、だ」
「うるせえな」
そっと袱紗に巻き、紅入れを懐にしまう。あの上等な紅をふんだんに塗るとは、ご禁制に引っ掛かるのではなかろうか。しかし、その唇の紅も今はすっかり落ちて、わずかに桃色に染まっているだけだ。先程、往壓が執拗に口を吸ったせいだ。舌が弱いのかひとつ嬲るごとにびくびくを身体が跳ねるのが面白くて、四半時も唇を重ねたままだった。
白粉も落ちていた。店に借りようかというと、安物は伸びないから厭だと断られ、さっさと拭い落としてしまった。
口元の薄紅だけが残る元閥は、男らしく見えるかと思いきや、逆に化粧も知らぬ年若い娘のようにも見える。赤く腫れた目許と、憂いを含めた眉のせいかも知れぬ。いい年した男が、疲れた泣き顔で歩いているはずがない。
「吉原寄って行きますよ」
「なんでだ」
「化粧を直さなきゃならない。あっちには道具が置いてありますから」
もうすぐ暮れ六つ。わざわざそのために寄らなくてもいいではないか。
「儂がこんな顔で帰ったらね。竜導さん、アビに沈められますよ」
是非もなかった。
からからと下駄を鳴らして歩きだす元閥の後を追う。
「本当にひどい人」
「身体が痛むか」
「そういうんじゃありませんよ。何を考えているんだろうね、全く」
「厭なら座敷に上がる前に言いやがれ」
茶屋へ引く手を振り払いもしなかったではないか。
「さすが年食ってる人の言うことは違うねえ。儂も男だが、男のそういうところが嫌いさ」
「女も男も食ってる奴に言われたくねえな。お前さんなら、別に大したことじゃないだろ」
「アビは儂しか知らない」
不意の言葉に、返事が詰まる。
「あんたにゃどうでもいいことだろうよ。でも、あいつは違うんだよ。あいつはあんたを信用して船を任せたんだ。惨いことしなさんな」
「……悪い」
「本当にひどい人」
元閥はそれっきり黙りこくった。
ならば、お前自身はどうなのか。
それを問うのは、より惨いことに違いあるまい。
- by まつえー
- at 04:11
- in 小咄
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