2007年05月02日
君が望む永遠
『Fate/Moira Lachesis』が一部未消化だったので、その後始末編。後始末になってない気もするけど。
アビ元。ややバカップル気味。
でも、一番分量多いのは、放元気味のキャッキャシーン。書いてて楽しかった……
「痛い」
げし、と元閥の足がアビの腹を蹴り、体を引き離す。
「……え?」
「痛いよ、乱暴なんだよお前。腰が割れるかと思ったじゃないか」
目の端に溜まった涙をぐいぐいと拭う。あの涙は随喜の涙ではなかったのか。
「え……でも、この前は……」
「我慢してやってたんだよ! そんなんもわかんないのか!」
初めて肌を合わせた時は無我夢中でそれどころではなかった。二度目はアビの面子を立てるためにじっと我慢した。しかし、三度目は別だ。三度も会えば、花魁だってしっとりと枕を交わすのだ。三度褥を共にすれば、この先も続いて行く。ならば、辛いところは辛いと言わねばならない。元閥の二十余年の人生で学んだ重大なことの一つだった。
アビは唐突に受けた拒否におろおろとしている。せめて股間くらいは隠したらどうだ。
「大体、男の身体ってのは、元来受け入れるようにゃ出来てないんだからね。女の倍優しくしてもらったって足りないくらいだよ。お前さん、女もこんな乱暴にするわけじゃ……ん?」
アビの顔色がおかしい。妙に身を堅くし、元閥から顔を背け、じっと耐えるような……
「……お前ね……そうならそうって言いな!」
ごん。
元閥の手刀が、縦に真っすぐアビの額に入った。
これは嫌われたかもしれない。結局あのままご破算となり、一晩明けて元閥の機嫌は非常に悪い。機嫌が悪いなりにも、むっしゃむっしゃと朝食は食べているが。
「元閥、お代わりは……」
「ん」
ぐいと汁椀を突き出される。油揚げのみそ汁を注ぎ、差し出すと無言で引ったくられる。
「げ、元閥。俺はな、お前と……」
「飯食ってる時に閨の話なんかするんじゃねえよ、はしたない」
食欲が失せる。そういって、ずずーっと一気に椀を飲み干し、元閥は膳の全てを空にした。
「ごちそうさま。じゃあ、行こうか」
「行くって……」
「人探しだよ。お役目忘れたわけじゃなかろうね」
ああ、そういえば年明けまでに竜導某という男を探さねばならないのだった。半分忘れていた。
「覚えてないならいいさ、儂一人で行くから」
「待て、違う! 一緒に……!」
慌てて膳をかき込み、さっさと階段を降りる元閥の後を追う。
不機嫌だ。非常に不機嫌だ。
大体、元閥はいつも機嫌がいい。浮かれるということはなくとも、話しかけられれば誰にでもにっこり返すし、軽口を叩いてケラケラ笑うこともある。ケンカを売られたり、しつこい袖引きに語気を荒くすることはあるが、半刻は持たない。汁粉の一杯も啜ればけろりと立ち戻る。
それが一晩を越して機嫌が悪いというのは、相当の怒りに違いあるまい。
それほど悪いことをしただろうか。確かに痛い思いをさせた。無理に我慢をさせる羽目にもなった。問われなかったとは言え、正直に伝えなかった自分も悪い。馬鹿にされるんじゃないか、侮られるんじゃないかと、変な意地が邪魔して言い出せなかったのだ。
……自分が一番悪かった気がしてきた。
「アビ」
呼ばれてびくっと背が伸びる。
「一緒にぐるぐる回ってても仕方ないだろう。別れるよ」
「ああ……」
元閥が袂から絵地図を取り出す。大体の道なりは覚えたが、細かい地名などは絵地図に頼らなければ分からない。幸い、太陽と月さえ見えていれば道に迷うことはないアビだ。目的地さえ分かれば一人で行ける。
「お前さんは船で品川まで下りな。儂は麹町の方から回る。それと、今日は儂は九段に泊まる。後は好きにしな」
そう言って、懐の財布から一分金を三枚ばかりつかみ出してアビの手元に押し付ける。
浮き草暮らしの男なら、色里に顔を出さぬ謂れはない。その見方から岡場所を中心に聞き込みを行っているが、それにわざわざ三分も渡すというのは……
「いや、俺は……!」
「いいから。のどかって茶屋がある。吉原上がりの女が多い店だ。儂の名前を出せばいっちを当ててくれるだろうさ。行ってきな」
つまり年増に手ほどきを受けてこいと。そういうことなのだろう。
「断る」
「アビ」
「俺は、お前以外と……!」
「アビ」
元閥の声音が低くなる。目が座り、じろりと睨みつけてくる。自分より頭ひとつ以上背丈が低いはずなのに、上から見下ろされているような錯覚を受ける。
「行ってきな」
「……分かった」
蛇に睨まれた蛙だ。
結局、品川はおけらに終わった。あらかた聞き回ってみたが、誰も往壓などという男は知らぬと言う。
仕事自体はすっきり終わったのだ。アビの姿を見て水を撒いて追い返そうという主人も、元閥の名を出せば快く応じてくれた。代わりに、元閥の正体が一層不明瞭になったが。
日も傾き、そろそろ提灯に火が入る。アビは一軒の茶屋の前で立ち止まった。店先の吊り灯籠には、菖蒲の花と『のどか』の文字が刻まれている。流行っているらしく、ひっきりなしに客が入る。格子越しに見える飯食処では、薹は立っているがすっきりと見栄えのいい女達が、きゃらきゃらと笑いながら客とじゃれあっていた。
吉原上がりが多いと聞いた。ならば、彼女らもほんの数年前までは、あの大門の中で顔を白く塗っていたのだろう。今は町の女と同じほどの薄い白粉に、多少色の派手な着物をまとっているくらいだが、その愛嬌の振り方やさりげなく男の肩に触れる手の仕草などは、堅気のものではないことを伺わせる。
ふと、女の一人が格子の向こうのアビに気付いた。三十がらみだろうか。細面で品のある、飯盛女というより茶の師匠と言われた方がぴんと来る女だった。アビに向かい、ふわりと柔らかく微笑む。こっちにおいで、と言うように。
おいで。
たまらずアビは踵を返し、その場から立ち去った。脳裏に閨の闇に浮かぶ元閥の白い身体がちらつく。しなやかに伸びた手足。細い腰。どくどくと脈が激しくなる。
嫌だった。
一度は彼を身代わりにしようとした。それを許してくれた。
だからこそ、誰かを彼の身代わりにすることはできない。それは裏切りなのだ。自分の心への。
人の屋敷でこの醜態というのはどうなのだろう。
誂えた客間で脇息に齧り付きながら、浴びるように酒を飲む元閥に、放三郎はため息をついた。一応目の前には聞き込み場所を著した絵地図と、手掛かりを思われる噂を書き記した帳面が開かれているが、元閥は招かれるや否やそれを畳に放り投げ、あとは禄に口も利かずに酒ばかり飲んでいる。
「……あのな、江戸元」
「なんです」
強い語調でぴしゃりと言われると、あとを続けにくい。形としては部下になるのだが、今は別段決まったお役目でもないし、数年前までは目上として接していた。どうにも放三郎は江戸元が苦手だ。
とたとたと廊下を駆ける軽い足音に、唯一の年下の部下が戻ってきたことを確認する。元服前の子供が唯一の年下というのも情けない話だ。からりと障子が引かれる。
「お頭、ただいま戻りました!」
「うむ、御苦労」
宰蔵の頬は寒さで赤く色づき、息は上がって白い煙を吐いていた。
「……江戸元! 台所に聞いたぞ、来るなり飲み続けで……!」
「おや、宰蔵さんおかえりなさい。まあお座りなさいよ、冷えたでしょう?」
しれっと元閥が火鉢の側を勧める。宰蔵は怒鳴りつけたい気持ちと、冷えた体を暖めたい気持ちの間でしばらく迷い、まずは火鉢の隣を陣取ることに決めたようだ。元閥が炭をかき回し、パチパチと火が起こる。
「江戸元、お前、来るのは明日だと言ってただろう」
「都合が変わったんですよう。持ってくるもんは持ってきました」
指さされた絵地図と帳面に宰蔵はぐうの音も出ない。
「宰蔵さんは? 行商を回ってみるとか行ってましたが……」
「……これと言って、なかった」
「なぁんだ、つまらない」
「なんだとー!」
あまり宰蔵を焚き付けないでほしい。ため息をつきつつ、放三郎は帳面を確かめる。
「新宿の賭場か……」
「一人でちゃちい賭けをしているだけのようですよ。なんぞ、やたら独り言が多くて不気味だとか」
「……ちょっと嫌だな、それは」
宰蔵が眉を顰める。
「独り賭けで無駄口なんざしないもんですからね。いかれてるんじゃなきゃいいんですが」
元閥の辛辣な言葉を受け流し、放三郎は帳面を閉じた。
「相分かった。賭場となれば私や宰蔵が行く訳にもいかん。お前とアビで……」
「厭です」
「そうか、厭か……はぁ!?」
たった一言で断るとは何事だ。
「厭です。小笠原様が着流しでも着てくりゃいいじゃないですか」
「な、慣れぬ格好では怪しまれる!」
「ちょうどいいと思いますよぉ、捻くれ出した旗本の三男坊みたいで」
「江戸元! お頭の命令が聞けないのか!」
「まだ命令される立場になった覚えはありませんねぇ」
ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。放三郎と宰蔵の詰問など軽くいなして、元閥は再び杯を傾け出した。
「何故嫌がる! 賭場に行きたくないのか?」
「いや、賭場には行きますよ。お役目でなくても」
そうだ、こいつは博打まで打つのだった。飲む打つ買うの三拍子。この先、正式な部下になったときの苦労を考えると頭が痛い。額を抑える放三郎を尻目に、宰蔵は質問の手を緩めない。
「じゃあ、行けばいいじゃないか」
「一人か、小笠原様と一緒なら行きますよ」
「アビと一緒が嫌なのか? 喧嘩でもしたのか?」
「…………」
「あいつは悪いやつではないぞ」
「知ってますよぉ」
「なら……」
「江戸元」
宰蔵の言葉を遮り、背筋を延ばした放三郎の声が響く。
「これは命だ。従ってもらわねば困る。我らは後々幕臣として……」
「……やだねえ、初陣前の男が粋がっちゃってさあ」
初陣前。その言葉が指し示すところへ一拍置いて思考がたどり着き、放三郎の顔が耳から月代まで真っ赤に染まる。宰蔵は分かってない。
「え、えどげんーー!?」
「江戸元、初陣前とはどういうことだ。そりゃあ、戦はないからお頭は初陣など済ませてないが、それを言ったらお前も……」
「いやいや、男ってのはね、すませなきゃいけない戦いってもんがありましてね」
「宰蔵! 席を外せ、宰蔵!」
「お頭は立派に妖夷と戦っている!」
「世の中にゃあ、妖夷より怖い相手ってのがいるんですよう。例えば……」
「さいぞおおお! そうだ、つまみが無くなった! 高塚で買ってこい!」
「ええー、遠いですよ高塚屋は。それにお頭、こないだは芳なりの煮売りの方が旨いと……」
「いいや、高塚の芋煮が食いたい! 行ってこい! すぐ行ってこい、宰蔵!」
「いってらっしゃーい、宰蔵さーん。私は鳥と大根を炊いたやつをお願いしますよ」
とんでもない見幕の放三郎とひらひら手を振る元閥に押し出され、渋々宰蔵が席を外す。せっかく暖まってきたのにとぶつぶつ言いながら。
足音が完全に消えたころを見計らって、ようやく放三郎が口を開く。
「……江戸元、今のは……」
「だって、本当のことでしょうよ、初陣前なのは」
「何故知っている!?」
「知らいでか。私はあんたの額に前髪の剃り残しがあるようなころから知ってんですからね。女の影は無い、吉原は嫌いだ、岡場所夜鷹以っての外、伽女どころか屋敷に若い下女もいなけりゃ、どうして一人前になったと思えるんです」
そう言うと煙管に火をつけ、ぷかりと吹かす。
「適当にすませといた方がいいですよ、あんなもん」
「て、適当とはいうがなあ……」
元服前から学問と剣術一筋で生きてきた放三郎には、その適当というものが分からない。女相手でも男相手でも軽くいなす眼前の相手とは、おそらく門前の小僧と免許皆伝くらいの腕の差があるのだろう。
「アビだって、今日は品川に行ってますし」
「あいつがか!? むう、そういう色事とは無縁と思っていたが……」
先を越されたか。年も上なのだから当たり前なのだが、さすがに口惜しさはある。
「……小笠原さんねえ」
「うん?」
「あんた、昔、儂に岡惚れしてたでしょう」
逃げようとする放三郎の袴の裾を、元閥が踏んで止める。
「別に取って食いやしませんよ。大体、食うつもりならとっくに食われてますよ、あんた」
「離せー! 離してくれー!」
じたばたと暴れる放三郎のうなじに煙管の火皿を押し当て、鶏の断末魔のような声を上げさせ、抵抗を抑える。
「うううう……」
「まあ、お姉さんの話を聞きなさいよ」
岡惚れというのは正確ではない。もっと淡い憧憬、ひょっとしたら崇拝に近かったのかもしれない。
なにせ、元服したてで出会った、母親以外初めての身近な『異性』だったのだ。美しく凛々しく賢く、芝居のなよなよと哀れっぽいものが女であるとばかり思っていた放三郎にはちょっとした衝撃だった。自分の後ろで学を助け、銃を構え、祝詞を唱える元閥を守ってやるのだと思っていたころもある。
たっぷり丸一年騙された。正直、分かった日には布団の中で泣いた。
「だから、本当に食ったりしませんから。今はそういうんじゃないってことくらい分かってますよう」
はあ、と煙を吐く元閥に、ようやく向き直る。大分変わった。着物の趣味もおとなしくなったし、若向きだった髪の結い方も変わった。それでも時折、巴御前のように見えていたあのころの元閥を思い出すことがある。
別人だ。あれとこれは別人だ、間違いなく。少なくともあのころの元閥は、人を初陣前などと称することはなかった。
「……それがなんだ」
「どこがよかったんです、儂の」
今度こそ逃げ出そうと思ったが、火皿の恐怖で踏みとどまる。
「……それを……言えと……?」
「いいじゃないですか、減るもんじゃなし」
減る。何かが絶対減る。
「だってねえ、あの頃の儂と言ったら、自分で思い返しても大概でしたよ?」
かんかんと灰を落とし、新たな草を詰める。
「酒も煙草も博打もやってましたし、若かった分、今より抑えがなかった。吉原も行っていた」
そうだ、吉原通いを知っていたのに、なんで女性と思っていたのか。……中の稲荷を祀ってるとばかり思ってたのだ。
「男もいましたしね」
「……いたなあ」
正直、心痛んだものだ。爽やかな武家風の男とくすくす笑いながら連れだって歩く姿を遠くから見た時は、ひどく悲しくなった。
「どこがよかったんです?」
「……大人というのは、そういうものだと思っていた」
酒も煙草も博打も、そして恋人も、元閥が自分とは違う大人なのだということを表すものでしかなかった。
「お前が私が知らない遊びをしていると、お前が別の国の者のようにひどくきらきらしく思えた」
「……芝居の台詞みたいですね」
「それに、優しかった」
放三郎の言葉に、元閥が目を丸くする。
「私の知らぬことを教えてくれたし、未熟を支えてくれた。それでいて恩を着せることはなかった。半ば師を慕うような心持ちだったのかもしれん」
「……小笠原さん、酔ってます?」
「言えと言ったのはお前だろう」
この際だ。すべて言ってしまった方が、自分の考えも整理できるというものだ。
「あのころは養子に入ったばかりで家にも馴染めなかった。母を母とも思えず、心細くもあった。お前を母か姉かのように思っていたのかもな」
ぷかぷかと煙管の煙が舞う。
「まあ、昔の話だ」
放三郎は笑って杯を取った。手酌で注ぎ、口をつける。
「……小笠原さん」
「なんだ?」
「夜這ってくるなら儂は別にかまいませんぜ」
酒が肺の方へ入り、思いっきり咽せた。けらけら笑う元閥の声が、遠く聞こえた。
翌朝、迎えにきたアビと連れ立って帰って行く元閥を、放三郎は見送る。あのころの、元閥が背の高い男に添って歩く姿に覚えた胸の痛みは一切なかった。ひどくすっきりした気分だった。
二町ばかり進み角を折れたところで、半歩先を進む元閥がぱっと身をひるがえした。アビの胸元に顔を埋め、防火桶の脇に押し込む。
「げ、げんばつ……っ!」
まだ夜明けそこそこで人も少ないとは言え、なんと大胆な。やはり、自分を岡場所に送り込んだことを悔いたのだろう。
「……川の匂いがする」
「は?」
「お前、宿に泊まらなかったね?」
胸元から顔を上げ、きっと睨んでくる。
「どういうことだい、宿の名前まで教えといたはずだよ!?」
「……返す」
懐から、一分金三枚そのまま取り出し、元閥の手に押し付ける。確かに昨日は宿を取らず、川船の中でそのまま寝た。元閥は手の中の貨幣を見て、はぁとため息をつく。
「ふぬけ」
酷い。その言い方は酷い。
「儂はね、ケダモノの躾をしてやる気はないんだよ」
「……俺はあんたのものだ」
元閥の眉がぴくりと動く。
「汗一粒、髪一筋、全部自分のものだと、言ったじゃないか」
うつむきがちの元閥の表情は、眉の動きしか伺えない。
「俺は、あんた以外になにもくれてやるつもりはない」
「嘘をつくな」
「嘘じゃない。ずっと側に……」
「あんな閨言を本気にするな」
声の根が震えていた。きゅうと掌を握り、うつむいたまま顔を上げようとしない。
「閨言だったと思えない」
「冗談だよ」
「俺がいなくなったら、死ぬとまで言ったじゃないか!」
元閥の身体が固くなるのが分かった。何がいけない。何がいやだ。何が不安なんだ。
「……俺が嫌いか?」
「嫌っちゃいないよ」
「信じられないか?」
「そういう訳じゃないんだけどね」
顔を上げてほしかった。どんな顔で何を言っているのか、はっきりと見せてほしい。そうすれば、元閥が何を望んでいるのか分かる気がした。
「お前は儂に信じてほしいのかい?」
「ああ」
「じゃあ、お前は儂を信じてるのかい?」
口の端がわずかに歪むのだけが見て取れた。笑っているのか怒っているのかは分からない。声はいつもの軽口で、どこまでが冗談でどこまでが本気か分からない、いつも通りの元閥だった。
「どうだい?」
「そりゃあ……」
「お前さんに話したことは全部嘘かもしれないよ? そもそも、なんにも話しちゃいないけどね」
笑って、いるのだろう。何を笑っているのか分からないが。
「これからだって、お前に何かを話してやることなんかないかもしれない。ずーっと騙して、嘘をつくのかもしれない。それでいいかねぇ? もしも、儂の何も信じられんままで……」
「いい。本当のことなんかどうでもいい。元閥が嘘をつきたいなら、それでいい。俺はかまわない」
これ程矢継ぎ早に言葉が出てくるのは、自分でも珍しいことだ。
「俺は元閥を信じる。今いる元閥が好きだ、だから」
元閥が顔を上げた。
「……厭か?」
ほんの少しでも触れれば、すぐさま泣き出してしまいそうな顔だった。その顔のまま首を振る。何故、この人はこんなにも脆い。あれほど強いのに、あれほど気高いのに、何故こんなにも容易く、
「アビ」
元閥の瞳が伏せられ、そっと首が傾く。吸い寄せられるように身を屈め、肩を抱いて口を吸う。
できるだけ優しく、そうっと。かすかに唇を開き、舌を差し出すと、舌先同士が掠めるように触れ合った。触れては引っ込み、引っ込んではそろそろと差し出される。次第に長く触れ合うそれを、絡めて自分の口中に引き込み、きゅうと吸い上げる。ン、と鼻から漏れる声が厭がっていないことを確かめ、元閥の舌に上の歯を添え、その付け根に舌先を押し当てた。あたかも体全てが持ち上げられているかのように、元閥の肩が浮き、ふるふると震えるのが異様に嬉しかった。
ひどく長くそうしていたように思える。顔を離せば、紅を落としているはずの元閥の唇は真っ赤に色づき、互いの息は溶け合って濃厚な霧になっていた。
白い霞み越しに元閥と見つめ合う。自分より頭ひとつ以上も小さな身体が寄り添っていれば、自然、元閥は天を仰ぐように顔を上げ、自分の顔を見る。ぎゅっと胸元にすがりつく手。潤んだ瞳と震える唇。
あの夜のように泣くのだろうか。元閥の奥深くにある脆い部分が、薄布越しに透けて見えているかのような、そんな顔が痛ましく、たまらずアビがもう一度抱き締めようとした瞬間、元閥の手がアビの胸を突いた。
どんと突いた反動でよろける体、それでいてしっかりと地を踏む足元。
とん、ととん、ととと、とんっ。
くるくると舞うような動きでアビの腕から離れた元閥がぴたりと足を止め、こちらを向き直れば、そこにあるのは既にいつも通りの気の強そうな笑みだった。
「じゃあいいさ。おいで、アビ。ずうっと騙してやるよ」
にんまりと笑う元閥の顔が好きだ。
「……死ぬまでか?」
伏せられる目に一瞬映る影が好きだ、それを振り払うように機敏に動く首の後ろで跳ねる鳶色の髪が好きだ。
「死んだ後までさ」
この人が好きだ。
それはいいと笑うアビの腕に、ぶら下がるように元閥がじゃれついた。
それでもいいか、と聞きたかった。
もしも、
もしも、私の何も信じられないままで、
それでも側にいてくれるなら、それでも好いてくれるなら、
私はもうお前なしでは生きていけなくなるのだと、
それでもいいのかと、聞いてみたかった。
もしも、お前が私のかけがえのないものになってしまえば、
私がお前のかけがえのないものになれなければ、
それはお前が私を殺すも同じだということが分かっているのかと、
そう、聞いてみたかったのだ。
私は、誰かの特別な何かになることが、こんなにも怖いのに。
- by まつえー
- at 20:57
- in 小咄
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