2007年07月19日

さくらむすび 幕三

 幕一幕二の続き。
 さいぞさん登場。多分、今までの中で一番放宰っぽい。


 神殿売春、という風習がある。神の祝福を得るために、神殿に供物を捧げ、神と繋がる巫女と交わる。どうもこれは異国でも古くからあった風習のようで、放三郎から借り受けた書にもいくらか記述が見られる。キリシタンには邪宗と見なされているらしいが。
 なれば、日本からキリシタンを追い出すのは正解だった。前島も邪宗として迫害されたであろう。ミサキである前島が客人の血を受けていたのは明白であり、それは元閥の髪色や肌にも現れている。僅かではあるが髪色は茶を帯びており、肌は橙よりも灰に近い。
 古来より、巫女は娼婦である。誰の妻でもないということは、全てのものの妻であり、神の妻であることと同義だ。巫女は自らの神性を表すために異装をする。刺青、身体の欠損、禁色の装束。元閥の女装もそうだ。異なるものに属する証の一つだ。
 巫女舞より始まった歌舞伎が、女が男の名前で舞い、男が女の姿で舞い、けばけばしい装いをするのもそれと深い係わりがある。そして、過去、位の高い女郎に『太夫』と男の名がつけられたのも繋がっているのだ。
「そう、えどげん様はおっしゃいなんしなぁ」
「……言ったねえ」
 つまり、吉原に住む女は、全て巫女、天女とも言えるのだ、と。
「なれば、不都合はござんせんよう」
 だが、なんとなく嫌だ。
 ここ最近、元閥の足は吉原から遠のいていた。長谷との逢い引きのためだ。茶屋での一刻程度の逢瀬ばかりだが、男と寝た後に女郎屋に行くのも妙なもので、自然と来ることは少なくなってきた。
 嬉野から拗ねた文をもらいようやく登楼したところ、ぐいぐいと詰め寄られ、ついには長谷との間柄を白状させられてしまった。男色もすなることは知られていたので問題はないが、面と向かって話すのは居心地が悪い。しかも、相手の顔まで知られているのだ。元閥は煙管を指でクルクルと回し、それに没頭する振りで嬉野の顔から目を逸らす。
「えどげん様のお部屋でお会いになればようございなんし」
「やだ」
 何が楽しくて、女郎屋で男と寝なければならないのだ。第一、周囲に声が聞かれるではないか。こう言ってはなんだが、元閥の声は大きい。繋がると深く息をする癖があるので、自然腹から声が出てしまう。顔も名前も育ちも知り、可愛がってきたこの見世の女郎共にそのような声を聞かせたくはない。
「気になさらずともようありんすえ。あねさまと間夫の逢瀬くらいで、色めく娘はおりゃんせん」
「……あねさまぁ!?」
 嬉野が頷く。元閥はこの見世の女郎から慕われている。気前がよく、遊びを心得、見目よく機嫌がいい。女郎が元閥を厭う理由はない。しかし、長谷に言い寄られているという噂が立ったころから、その思慕は旦那へのものというよりも、部屋持ちのあねさまへのものに変わってきている。
「あたしは男だよう!?」
 仕方がない。見世の者が元閥と長谷を見る目は、あねさまが良い間夫と繋ぐか否か、というそれである。
「祝儀目当てかい!」
「それが商売でありんす」
 女郎を買わずとも見世に男が入れば、膳や酒が出るたび、風呂を使うたび、あれこれと世話を言い付かるたびに祝儀が出る。若者や新造禿からすれば、無視できぬ額だ。
「楼主はどういってるんだよう、この見世に近寄るなって言ったじゃないかあ」
「女郎に手を出さぬのであれば、かまやしんせん、と」
 元閥は畳に突っ伏し、足をばたばたとさせている。恥ずかしいらしい。
「ああもうやだやだ、やだよう。やっぱりお前達は苦界の鬼どもだよう」
「なんとでもお言いなんし。えどげん様も同類でありんす」
 あーんと声を上げて、手近な物を投げる姿は駄々を捏ねた娘だ。


 この半月の成果を一枚の絵図にまとめる、その前に、
「……先だって、亀戸の方でそなたを見かけたのだが……」
「……あら」
 最近亀戸に出掛けた覚えなど、一つしかない。長谷と会っていた。
「あの男が……あれか? 付きまとわれてたとか言う……ならば、あれは嫌々……そうか、そうなんだな江戸元! 身なりはよく見えたが、なんという卑劣漢……!」
 勝手に盛り上がる放三郎からわずかに目を逸らし、なんと説明したらよいものか、少しの間、元閥は思案する。付きまとわれていた男には違いないのだが、正直に言えばややこしくなる。
「違いますよ、放三郎様。あの方は私のお友達です」
「……ともだち」
「はい」
 にっこり。
「つまり……江戸元の、いい人、か?」
 そうくると思った。思ってはいたが、実際に口に出されると別の印象がある。いい人。 
 演技は半分程度だ。
 元閥はわずかに頬を染め、無言で小さく頷いた。

「放三郎様、そっちじゃありません。こっちですよう」
「え、ああ……すまん……」
 しまった。仕事が済んでから伝えるべきであった。すっかり腑抜けになった放三郎の筆はあっちに飛びこっちに倒れ、絵地図はあっと言う間に墨汚れでぐちゃぐちゃだ。それでもなんとかまとめ上げる。
「川沿いに集まってますねえ……」
「ああ、そうだな……」
 つけられたバツ印は、江戸市中を流れる主な河川沿いに集まっている。そして……
「放三郎様、なにかお気づきになったことは……」
「ああ……」
「放三郎様?」
「……あー……」
 駄目だ、こいつ。
「放三郎様っ!」
 ぺちん! 頭を叩かれ、はっと放三郎が我に返る。
「え? え? えどげん? い、今、叩かなかったか!?」
「おや、面妖なことを……ほら、しゃんとなさって。気をしっかりお持ちになって下さいな。これをよくご覧に……」
 混乱した放三郎の頭を、ぐいと絵地図の上に持っていく。おろおろとしつつも、放三郎は元閥に言われるがまま絵地図の印を読み解く。
「……これは」
「気づきましたか?」
 日付だ。聞き込みの際には、可能な限り正確な日付と時刻を聞き出しておいた。それらはバツ印の隣に小さな文字で書き加えてある。
「一番新しいのは……」
「神田にございます」
 ぴたと元閥の指が一点を指す。江戸市中には川と堀が張り巡らされている。特に堀は、千代田城を要塞と見た場合--かれこれ200年はそのような目で見られたことはないのだが--、敵軍の侵攻をくい止めるため複雑に入り組んでおり、千代田城を中心として渦を描いている。
「……お城から来ているのか」
 放三郎の言葉に首肯する。日時をさかのぼって行けば、最初に桃の怪が出たのは日本橋。そこより溯るには、お城の内堀しかない。
「しかも……」
 元閥の指が、とんとんと絵地図の何カ所かを指し示す。神田、溜池、牛込。
「分散しております」
 この三つでは、ほぼ同時刻に桃の怪が起きている。日本橋を起点とすれば、ほぼ同距離だ。
「お城から呪が放たれている……?」
「考えにくいですね。私達に話が回ってくるということは、奉行所のみならず、老中様方の審議があってのこと。お城の企みであれば、このようなことはありますまい。なれば……」
「奥か」
 少年の聡さに元閥は笑みを浮かべる。お城の一部でありながらも、別の権力をもつ世界。大奥。
「大奥の女中方が呪術を放っている、とは、俄かには信じ難いです。お仲のよろしい坊主共か……」
 んん、と小さく放三郎が咳払いする。女中共の坊主遊びや役者買いなども、彼にとっては刺激が強すぎるのだろう。
「もしくは、それと知らぬうちに、妖が生まれたか」
「生まれた……」
「生まれて、育っております」
 すっ、すっと地図上にいくつかの弧を描く。
「より遠くまで被害は出ておりますが、今日に至ってお城の近くに被害が出ていないという訳ではありません。これは、妖が移動しているというより、成長し移動する距離が広がっていると考える方が妥当でございましょう」
「つまり、お城……大奥から来て、大奥に帰って行っている」
 ふうむと口元に手を当て考え込む。仮説ではあるが大奥が巣ともなれば、容易に手出しはできない。なによりも事実大奥に妖が潜んでいるのかどうか、調べようがない。
「お女中にお知り合いなどは……」
「親戚筋にいるという話は聞いたことはあるが……」
 養子入りしたばかりで気が引けるか。どうしたものか。
「他にお女中の話が聞けるとすれば……坊主に役者、力士……」
「あ。役者なら、つてがないこともないぞ」
「……おやまあ」
「……意外そうだな」
 意外だ。堅物一辺倒の放三郎が、浮ついた芝居に興味があるとは。
「面白い子役がいてな。通う内にいろいろ話を聞くようになった。おででこ小屋だが、看板二枚目や女形も美男で割り合い人気がある。大奥のお女中にもつながりがあるかもしれん」
「それはそれは……じゃあ、早速……」
「いや、確か明日が久方の小屋掛けでな。今頃稽古で忙しいのではないだろうか。芝居の後もいろいろとあるだろうし……」
「桟敷は取っていらっしゃらないので?」
「……金が無い」
 今のところ、公には部屋住みと変わらぬわけだし。懐から取り出したビラを見て、ふうと放三郎がため息をつく。
「……ちょいと貸してくださいまし」
 ビラの演目に見覚えがあった。確認のため、目を通す。
「ああ……ここなら私、明日の桟敷に参りますよ」
「本当か! ならば茶屋で話を聞くことができるな……江戸元、悪いのだが相席させてもらいたい」
「……私はかまわないんですが……その、払いが別のお方なもので……私は招かれただけで……断りなさることはないと思うんですが、一応聞いてみませんと……」
 元閥らしかぬ歯切れの悪い言葉に、いやな予感がする。
「……もしや、その……払いは……」
「……はあ、ええ……」
 いい人。
 放三郎は小さくうつむきしばらく喋ることはなかった。


 見世に不義理をするのも気が引けるし、誂えた部屋も勿体ない。月花屋に誘えば、長谷は『詫びを弾んだ甲斐があったな』と笑うだけだった。
 嬉野の座敷を引き上げ、部屋で二人冷や酒を飲み交わす。
「私はかまわない。その、そなたの上役というのも見てみたいしな」
「……あたしのお上役というより、子守り相手でございますよう」
 はは、と、短く長谷が笑う。
「元閥は子守りが上手いな」
「手間のかかる殿方には縁がございましてね」
「本物の子守りはまだせぬか」
「……いろいろございまして、目処は立っていませんねえ」
「私は国に帰れば、妻を取る」
 ぴく、と手元が揺れ、指にわずかに酒がかかった。
「江戸にきたのは、ほとぼり冷ましのようなものだ。お役もろくにない。お陰でそなたとこうして芝居を見にいく余裕もあるが……」
「どのようなお方で?」
「知らん。知る気もない。まあ、それなりの家の娘なのだろうな。きっと、子をなす以外は名前も呼ばぬだろう」
 女という存在に対する不信は、消そうとしても消えぬ。心を寄せれば辛さが甦り、責めを強いてしまうようであれば、最初から触れ合わなければよい。長谷なりの誠意と優しさなのだろう。
「早ければ、年明けに結納だ」
「……それは知りませんでした」
「共に来ないか?」
 濡れた元閥の指を長谷が取る。小さく口づけ、きゅうと握る。
「軽口はおよしになさいよ」
「軽口ではない」
「お役目がありますから」
「ああ、だからその上役とやらに会ってみたい」
 男の愛撫を手に受ける。長谷は元閥の手指を気に入っているらしい。白く細くすんなりと長いのがいいと慈しみ、繋がっている時も口でねぶる。小指を吸われて元閥は熱い息を吐き、それを合図にしたかのようにずるずると畳になだれ込む。
 そういえば、あの男は元閥の足が好きだった。
「げんばつ」
「お役目がね、あるんですよう」
 男の背に手を回しながら、元閥は呟いた。


 茶屋の料理を前にして、放三郎は落ち着かなかった。なにせ逢い引きの邪魔をしているのだ。
 長谷と名乗った男は、やはり亀戸で見かけたあの男。女性にしては背の高い元閥よりも頭一つばかり抜けた堂々とした偉丈夫だ。体は大きいが品のある顔立ちで下卑たところはない。聞けば大藩仙台の家老格だという。居住まいは規律正しく、それでいて野暮を踏んだり、堅苦しすぎるということもない。元閥は武家の隣に座るには婀娜が過ぎるが、それとも外れることはない。
 完璧だ。質実伴った侍でありながら、遊びもしっかりこなす。その見本のような男だ。まだ背が伸びる途中で元閥より頭一つ小さい体を、放三郎はさらに小さく丸める。
「小笠原殿、おがさわらどの」
「……え、あ、はい!」
 聞き逃すところだった。未だに『小笠原』が自らの名前と思えない。元閥は気遣って『放三郎様』と呼んでくれているが、初対面の武士に名前で呼んでくれとは頼みにくい。
「どうなされた。箸が進んでおられぬようだが、お口に合いませぬか」
「ああ、いや……そんなことは……」
「長谷様。放三郎様はお気に入りの役者とこれから座敷を囲むのですから。緊張もなさいますよ、ねえ?」
 長谷と元閥が笑い合う。平目の昆布締めは大の好物だが、今一つ味がはっきりしない。
 元閥の様子が普段と違うせいか。芝居見物のため、いつもより艶やかな着物を着ているだけではない。ひどく打ち解けた雰囲気がある。
 いつもの、冗談は言ってもどこかぴたりと壁を降ろしている元閥とは違った気安さ。笑顔も箸を持つ仕草も、内から出る気配が変われば違って見える。
 これが情人との逢瀬というものなのだろうか。
 放三郎は役者と話した後、座敷を失礼するが、長谷と元閥は残るのだろう。もしかしたら泊まって行くのかもしれない。だとしたら、もしやこの隣の部屋には……
 良からぬ方向に考えが行きそうな瞬間、廊下から先触れの声がした。
「お見えになんした」
 からりと障子が開く。
「本日はお招きいただきましてありがとうございます。永楽座、新三郎にございます」
「宰蔵にございます」
 並んで頭を下げる女形と子役の艶やかな姿に、ほうと長谷が声を上げた。

 出来ればすぐにでも本題に入りたいのだが、この座敷の主が長谷である以上、差し出がましいことは出来ない。慣れぬ酒を嘗める素振りをしながら、放三郎は周囲を観察する。
 女形は先程の舞台で毛野を演じていたと言う。化粧を落とすとさっぱり分からないが、美しい顔立ちであることに違いはない。すらりとした体つきと艶のある仕草はいかにも女形のそれだ。聞けば、あの小屋で娘に一番人気があるのは彼だと言う。もっと凛々しい二枚目などが好まれそうなものだが、女心と言うのは分からない。
 子役は緊張しているのか、料理に箸もつけずガチガチに固まっている。時折周囲を見回しては、元閥をじっと見たり、放三郎と目が合って慌ててそらしたりする。舞台の上でも小さく見えたが、化粧と衣装を脱いだ姿はもっと小さい。今年で十一だという。まだ子供だ。しかし、その小さな姿で堂々と舞台をこなす姿が好ましく、放三郎は彼の贔屓になった。凛々しい若武者役もよいが、娘役の清々しさも捨て難く、信乃は彼の当たり役だろう。
 長谷は慣れたもので、彼ら二人の舞台を絶賛し、元閥に、八犬伝もこう見るとまた違うだろう、そなたは国貞好みのようだがこの二人は錦絵よりも美しいなどと話しかけては、笑いを起こしている。放三郎にはとても真似のできない芸当だ。年を重ねればできるようになるかと言われても自信がない。
 そして、元閥はと言えば、役者二人がきてからというもの、少々様子がおかしい。先程までの甘い雰囲気がすっかりと立ち消えた。笑みも張り付いたようなそれで、殆ど喋らない。しかし、場に合わせて笑い声は立てるし、相槌も愛想よく、普段の元閥を見慣れた放三郎でなければ、多少おとなしい気性としか見えないだろう。……元閥の気性が、おとなしいはずはないのだが。
「そういえば、小笠原殿。彼に何ぞお話があるとか」
 急に長谷に話を振られ、杯を取り落とすところだった。
「は、実はお願いしたいことがございまして」
 ちらと元閥を見る。幕府の命で化け物退治をしているなど、長谷の前では話せない。そして、頼む内容は有り体に言えば閨事なのだ。まだ幼い子役の前で話していいものかどうか。元閥は心得たように小さく頷いた。
「長谷様、少々内密の話となりますので、私達は別室に……」
「何故だ? ここで話せばよいだろう。私と元閥の仲だ」
 長谷の顔が赤い。酔ってしまったか。
「いえ、こればかりは……」
「よいよい、ここで済ませ。口外などせぬ。私が信じられぬか?」
 珍しく元閥が困った顔をしている。多少からみ酒の気でもあるのか、長谷が元閥の袖を掴む。その手をやんわりと包み剥がしながら、言い聞かせるように元閥がささやく。
「申し訳ないことですが、お役目にございますれば……」
「……私とお役、どちらが大事だ!」
 急な怒声に、座敷全体がびりびりと震えた気がした。長谷は顔を酒と怒気で真っ赤に染め、元閥の手を強く掴む。
「ここに連れてきてやったのは誰だ!? 私をおろそかにして何を……!」
 ぎりぎりと長谷の手に力が籠もる。痛みに歪む元閥の顔を見、思わず放三郎は片膝を立てる。向かいの女形も見兼ねたのか、わずかに腰を浮かせた。
「長谷殿……っ!」
「お、おやめくださいませっ!」
 甲高い叫び声に、ぴたりと全員の動きが止まる。最初の挨拶から今まで、貝のように押し黙っていた子役が、膝の上で拳を震わせていた。
「その、そのような、ごらんぎょうは、しどうにもとるものと、おもわれます! おやくめは、おさむらいさまにとっていちばんのだいじ! わらしのようなだだは、おひかえなさいませ!」
 どこぞの狂言で聞いてきたかのような台詞だ。武士に歯向かうような真似をした恐ろしさか、声の根が奮え瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。しかし、さすが役者。腹より出て喉で朗々と響く声は、よく通る。
 酔ってはいても、子供に諭された己を恥じたか。長谷は元閥の手を放し、少し横になると言い残して隣の部屋に消えた。張り詰めていた空気がようやく和らぐ。
「放三郎様。どうぞ別室へ」
 そう元閥に言われ、一瞬惑う。元閥も心配だが、子役も気に掛かる。それを見抜いたように元閥が目配せをする。自分がなんとかすると。元閥が大丈夫だと言っているのだから大丈夫なのだろう。
「新三郎殿。こちらへ」
「はい」
 彼も後輩が気になるのか腰を重たげにしていたが、ちらと目を合わせた元閥を確かめ、放三郎の後についてきた。
 なにぞ、ひどく疲れた時間だった。


「えー……宰蔵さん、でしたっけ」
 まだ膝で拳を握ったままの子役が、こくりと頷く。
「ありがとうね。立派でしたよ」
 変な言葉だが、こういうほかあるまい。
「……ひとつ、伺ってよろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ」
「男の方、ですよね?」
 ああ、やはり気付いていたか。それも当然だろう。彼女の周囲にはあの女形を始めとした、女のなりをした男が多くいるのだから。
「ええ、そうですよ」
「あなたも役者、ですか?」
「いいえぇ? あたしはね、こういう格好をしなきゃならない家に生まれついたんです。あなたと同じです」
 気付かれてないとでも思っていたのか。かあっと頬を染めた少女の姿に、くすくすと笑いがこぼれる。
「放三郎さんは気付いていないみたいですけどねえ。まあ、あたしのことも気付いていないんだから、仕方ないでしょうけれど」
「本当に、気付いて、らっしゃらないので、しょうか?」
「……法度を犯してると、知られたくない?」
 こくりと頷く。しかし、女と気付いてほしいかと問うても、彼女は同じように頷くだろう。
「放三郎さんはあなたを大層褒めてましたよ。早変わりなど見事なものだと」
「あの方は、よい方です」
「そうですねえ」
「私の贔屓になってくだすったのは、あの方が初めてです」
「……そうなんですか?」
 こくり。
「私の父は、座元です」
 なるほど。彼女もそれなりに達者ではあるが、信乃を張るにはもっとよい役者もいるだろうと思ってはいた。彼女が主役に立つのは父の横車であり、それを分かっている客はことさら彼女を応援するようなことはないのだろう。放三郎の鈍さがよい方向に出た。
「もっと、うまくなりたいです。お父様が陰口を言われるのは、いやです。小笠原様にも、私を贔屓してよかったと、思っていただきたい」
 きっとそうなれるでしょう、などとは言えなかった。あと五年もして体つきも女らしくなれば舞台には立てなくなる。期待を持たせることは残酷なことだ。
「……精進なさい」
「はい」
 そういうのが、精一杯だった。
「もうひとつ、よろしいでしょうか? えぇと……」
「元閥と申します。なんでしょう?」
「はい、げんばつ様。あの、お侍様は、げんばつ様のその、好いたお方、なのでしょうか?」
「……どうでしょうねえ?」
「女のなりは、あの方のためですか?」
「言ったでしょう? あたしのはお家の風です」
「……げんばつ様は、男の方、ですか?」
「忘れてしまいました」
 あははと笑い足を崩す。ことさら豪快に酒を注ぎ、一気に煽ってみせた。鮮やかな夏柄の紬に羅の襦袢。銀簪は鴎を象った平打ちと貝殻細工が施されたものの二本。目許にうっすら紅を引き唇を玉虫に塗り重ねた姿は、花魁もかくやという艶姿。
 こんなものはすべて、仮初めに過ぎない。
「女のようによよと崩れるのも、男のようにきりりと立つのも、どちらもあたしだ。宰蔵さんもそうでしょう。同じですよ。娘役でしなやかに舞うのも、男役で凛々しく立ち回るのも、宰蔵さんだ。違うのは……」
 手のひらを返し、つるりと自分の顔を撫でる。
「あたしにゃ、化粧を落とした下の顔がない」
 ない。外を取り繕う化粧や衣ばかりで、それの下に何があるのか、自分でも分からない。
「……なくされてしまったのですか?」
「さて? どっかに置いてきちまったのかもしれませんね。ここじゃない、どっか遠いところに」
 銚子を逆さにして、中身をすべて杯に空ける。
「あなたは、お気をつけなさい」
 こんな風にならないように。
「自分が行きたい場所はどこか、いたい場所はどこか、大切な人は誰か、自分が、なにをしたいのか。何も失わないように。手放さないように。例えそれが辛くとも、無くしてしまった空虚よりはマシだ」
 一気に飲み干そうと思ったのだが、喉が詰まって杯を持ち上げられなかった。
「お気をつけなさい」
「はい」
 代わりに、少女に杯を差し出してみる。
「呑みますか?」
「いただきます」
 粛々とした面持ちで杯を受け取る様が、ひどく立派な侍のような、父の真似をする娘御のようなおかしな調子で、元閥はころころと声を立てて笑った。


 事情を全て話し、信じろというのも無理な話である。放三郎は、城下で異変が起こりつつあること、それに大奥が関わっているやもしれぬことを、虚実三七程度に織り混ぜ新三郎の協力を仰いだ。
 最初は渋っていたものの、江戸中に被害を及ぼす可能性とお城の命であることを説けば、しぶしぶと首肯した。役者仲間にも噂を聞いてみるとのことだ。一仕事を終え、連れたって座敷を出る。
「おや、お話はもう終わりましたか」
「江戸元」
 楚々とした風情で元閥がこちらに向かってくるところだった。
「新三郎殿に協力してもらえることとなった。そなたよりも礼を」
「それはそれは……誠にありがとうございます」
 頭を下げれば、簪の細工がしゃらんとなる。普段よりも慎ましい風情に、放三郎は少し奇妙な気持ちになる。元閥も美男の役者には思うところがあるのだろうか。
「江戸元閥様、でございますか」
 口を開いた新三郎を、放三郎は振り返った。呼びだては長谷と自分の名前で行ったはずだ。元閥の名はまだ伝えていない。
「はい。どこかでお会いしたことがございましたか」
「いえ、ただお噂はかねがね……吉原などに出向いた際に……」
 ふと、元閥の目がすうと細まる。その奥の瞳の色が冷たくなってきた。元閥は時折このような目をする。
「どの見世も、まさに今毛野様とほめたたえておりました。この度の役作りにも……」
「黙れ、河原者風情が」
 低く通る声。元閥の表情はぞっとするほど冷たい。
「儂は前島の裔ぞ。貴様のごとき半端者に気安くされる覚えはない」
「……あぃ、まことその通りで」
「童は酒に潰れている。連れて帰れ」
「あぃ」
 それではと頭を下げ、女形は早足で廊下を去っていった。
「え、えどげん! なんだ、あの言いようは……!」
 確かに、神主と役者では身分が違う。しかし、力を貸してくれるという者に、あれはないのではないか。上役として一言言おうと放三郎は元閥に食ってかかった。が、
「江戸元……? どうした?」
 薄暗い廊下でも分かる。顔色が真っ青だった。軽く噛んだ唇が小さく震えている。
「……いえ、なんでも。今日は、疲れました」
「ああ、そうだな。私はこれで帰るが……」
「お気をつけて。私は泊まりますので」
 泊まっていく。長谷と。
「その……大丈夫か?」
「なにがでしょう」
「長谷殿は、その、かなり酔っておられたが……」
 ふ、と小さく元閥が笑う。
「大丈夫ですよう。あの人は、私のいい人でございますから」
 放三郎は赤くなる頬を元閥より背けるように俯いた。


 木戸を締め切った部屋にある明かりは屏風向こうの行灯のみ。ぼんやりとした橙に照らされた天井を見ながら元閥は、息荒く動く長谷に敷かれていた。その手首は、頭上にて腰紐で一つに結わえられている。
 紐を使ってよいと、元閥が言った。今まで堪えていたせいか、男は欲に急ぎ獣のように元閥の体にしゃぶりつきながら、その手首を何重にも巻いて強く結んだ。
 げんばつげんばつと譫言のように名前を呼び、不自由に捩れる体を愛撫する。はあはあと激しい息を吐きつつ、男が囁く。目を、目を封じたい、よいか、げんばつ。
 ああ、本当にこの男は。嘲笑を吐くつもりが、ほうと熱い吐息が出た。小さく、かすかに頷く。
 げんばつ、ああゆるせ、ゆるせげんばつ。ああ、あああ。
 追われるような声を上げつつ、長谷が元閥の目を手拭で覆う。頭の後ろで結ばれた時に髪を巻き込んだか、引き連れる痛みを覚えた。
 名前を呼ばれる。あふれ出る欲に上ずり、泣くように男が元閥の名を呼ぶ。ずぶずぶと入り込んできた肉塊が腹の内全てを埋め尽くしているようで、元閥は満たされる感覚と息苦しさに喉を反らした。
「……ああ、ぁ……」
 ああ、今の自分はただの肉の人形だ。
 この男の持ち物だ。

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