2007年07月21日
耳かきお蝶
定番耳かき話。江戸元による、往さん、アビ、宰蔵さんの耳かき。
往さんの言ってる『深川の耳かき屋』は、湯浅ヒトシ『耳かきお蝶』(双葉社)ネタ。
「竜導さん、右は終わりましたよ。向きを変えてくださいな。竜導さん、竜導さん」
昼も過ぎ、膨れた腹が眠気を誘う頃合いの前島聖天。元閥は膝の上の頭に何度も声をかけるが、動く気配がない。往壓は元閥の腹に鼻先を向け、ぴたりと目を閉じ規則正しい寝息を立てている。
「……えい」
「ぎゃああ!」
すでにあらかた垢をかき出した右耳の穴に、思いっきり耳かき棒を突き立てると、素っ頓狂な叫び声を上げて往壓の目が開いた。
「なにすんだ、てめえ! 血が出たらどうする!」
「嘘寝なんかするからですよ。ほら、逆」
とんとんと膝を叩けば、ごろりと向きを変え再び往壓の頭が膝に乗る。その耳穴に小さな竹匙を差し込んだ。
「なんですかねえ、いきなり耳を当たってくれなんて」
「いやな、深川に耳かき屋ってのがあるんだが」
「ああ、唐渡りとかいう」
「それとはちと違うな。粋な年増女がこんなふうに膝でやってくれたんだ」
「年増で悪かったね」
「いや、違うよ、お前に言ったんじゃねえよ、やめろって江戸元、人の耳穴はそんなに深く出来てないって、やめろってやめてくれって、ああいやほんとごめんなさい江戸元さんはまだ若いですごめんなさい」
「……で? その耳かき屋が?」
「……なんか、耳が生ぬるいんだがな」
「耳かき屋が?」
「ああああすいません無駄口叩きましたすいません。……だからな、その耳かき屋の女が、もう年だし所帯もあるしってことで退いてな。跡を弟子の若い娘が継いだんだが……こいつも悪くはないんだが、ちときゃんが過ぎる」
「ははあ、その子の膝じゃあ落ち着かないってことかい」
「ああいうのが好みの客もいるだろうがな。俺ぁ、やっぱり落ち着いた年増の膝の方がああごめんなさいごめんなさいこれは物の例えであってああやべえってなんか耳が遠くなってきたよやばいってこれ」
「竜導さん、左の耳垢は湿ってるんだねえ」
「いや違うよ乾いてるよそれ湿ってるんじゃねえよ濡れてんだよ血塗られた耳垢だよああちょっと江戸元やめろって謝るから謝るからー!」
暴れて逃げようにも、がっちり膝の上に抱え込まれ耳かきを突っ込まれたままではどうしようもない。
「で、年増の膝がどうしたって?」
「いや、年増とか関係なくてだな、俺はもうただ江戸元に膝枕してもらいたかっただけなんだなあ! それには、年齢とかそういうの関係なしに、ただ江戸元の膝の上でゴロゴロしてみたかったという! それだけの話なんだよ!」
「あっはっは、竜導さん正直なんだからー」
もう無駄な抗いはするまい。往壓は体を固くし目を瞑り、ただじっと耐えることにした。
「おや、帰ってきましたね」
「うん?」
脈絡のない元閥の言葉に、そろそろと瞼を開ける。視界の半分は縁側の板で埋まっており、その際から一目でそれと分かるぼさぼさの頭が上りつつある。はたと目が合った。
「おかえり、アビ。豆は?」
「船が遅れているそうだ。塩だけ買ってきた」
「ああ、それじゃ仕方ないねえ。上に置いといておくれ」
「……よう、邪魔してるぜ」
膝の上からの挨拶に、アビは軽く頭を下げただけで、塩の袋を担いで裏手に回ったしまった。
「……悪いことしたかな」
「何を変な気回してんでしょうねえ、この爺は」
「いや、だってよ……お前、後でアビの耳も当たってやれよ。寂しそうな顔してたぞ、あいつ」
「あの子はいつもあんな顔ですよ。大丈夫です、アビは耳かき駄目なんですよ」
「なんで」
「ただれちまうんですよう」
曰く。
以前、アビの耳がひどく汚れていたことに気付いた元閥は、やはり耳を当たってやったのだと言う。アビはすっきりした気持ち良かったと喜んだが、次の日には耳が真っ赤にただれてしまった。
「今まで耳かきなんざしたことねえっていうところをカリカリやっちまいましたからねえ。それ以来、怖がって耳かきしないんですよう」
「……お前が、乱暴に引っ掻いたんじゃねえのか?」
「竜導さん、耳ってのは奥に薄い膜があるの知ってますか?」
「あ、ごめんなさい……」
「元閥、みみか……」
「いやだね」
「全部言っていない」
「お前、耳かきするとただれるじゃないか。やると痛がるって分かってんのに、やりたくねえよ。気分悪い」
くっと元閥が杯を煽った。すでに寝酒にしては多すぎる量を飲んでいる。
アビの手には小物入れから引っ張り出した耳かき棒が握られていた。
「お前も、もうやらんと言ったろう?」
「……またやってもらいたくなった」
「やだよ、てめえのせいで耳腫らした男の顔見るなんざ。大体、お役目に響いたらどうすんだい」
「大丈夫だ! 今度は大丈夫だ!」
なんだ、その根拠のない自信は。
「妬いたのかい?」
それ以外に理由はなかろう。薄い行灯の光でさえ分かるほどに、アビの顔が赤くなっていた。
「儂の膝を竜導さんに取られたようでいやだ、と。だから、自分もやってほしい、と。そういうことかい?」
頷く以外どうしろと言うのか。
「そんなら、なおさらお断りだねえ。ガキの焼き餅に付き合ってやる気はねえよ」
元閥が空になった銚子をつまみ上げ、アビに差し出す。それを受け取ろうとしたアビの大きな手を、ぱっと握り、
ぽすん。
「なんだろうねえ、この子は。耳かきなんて言い訳しないでも、膝に頭くらい乗せりゃいいだろうさ」
引き寄せられた太腿に顔を埋め、アビは目をぱちくりとする。
「閨じゃ儂の体中なめ回すくせに、膝くらいで妬くんじゃないよう、ばか」
さわさわと元閥の手がアビの髪を撫でる。あけすけな物言いに閉口するが、確かにそうだ。元閥とより深く触れ合っているというのに、膝ひとつであれほどむきになることはなかったのだ。
「満足したかい、アビ?」
耳に降ってくる優しい声音。暖かな腿の感触に、アビはため息をつくほどの安堵を覚え、目をつむる。
「ああ……満足した」
「そうかい、よかったねえ」
「げんばつ……」
そっと、元閥の細い腰に腕を回す。
ガスッ!
「……げ、元閥?」
「触んじゃねえよう、この我が儘小僧め」
いつのまにやら、耳かき棒は元閥の手に握られ、逆手に持たれたそれは思いっきりアビの手に突き立てられてた。
「なんだイ、お前は膝枕してもらいたかったんだろう? 毎晩毎晩、儂に恥ずかしいことさせといて、まぁだ足りねえって? 儂はお前さんに悋気立てられるような真似した覚えはねえぜ?」
ぐりぐりぐり。
「げん、げんばつ……その……いたい……」
「何言ってんだい、膝のみならず尻まで触ろうなんて皮の厚い手だもの。痛いわけないだろう?」
ぐーりぐーりぐーり。
「お望みどおり、膝くらいいくらでも楽しませてやるよう。代わりに、それ以外で儂に指一本触れたら……」
ぎりぎりぎりぎり。
「いや、あの……すまない……俺が、悪かったから……」
「贅沢もんは法度に触れるよう? お前が罪を犯す前に止めてやるのが親心ってもんさ」
「謝る! 変な嫉妬をしてすまなかった! ごめんなさい! だから頼む! 爪は! 爪だけはーー!」
「……えどげん、耳に入った水がでない」
「おやまあ、まだですか」
菖蒲湯をやっているという湯屋へ連れ立って行き、先程帰ってきたばかりの元閥と宰蔵がなにやらごにょごにょやっている。ちなみに出掛ける前に往壓が『で、お前ら、男湯と女湯、どっちに入るんだ?』と聞いたところ、宰蔵からは『不潔だ』と罵られ、元閥からは『いつかそういう物言いがご法度に触れて打ち首になる世がくればいいのに』と言われた。純粋に疑問だったのだから仕方あるまい。
「梵天で取ってあげましょう。ほら、こっちに寝て」
「うん」
「……まて、宰蔵。俺がやってやる」
元閥の膝に頭を乗せようとする宰蔵を、往壓が止める。
「断る」
「いや、断るなよ」
「いやだ。お前、二日は風呂に入ってないだろう。第一、そんな汚い着物に、風呂上がりの頭を乗せたくない」
「……なんで小娘ってのは、物言いに遠慮がないかね」
「宰蔵さん、俺がやるから……」
「アビはもっといやだ! お前、蚤取りから帰ってきたばかりじゃないか! 絶対蚤がついてる! 絶対いやだ!」
容赦ない拒絶に、往壓とアビは思わず落ち込みかける。だが、これは宰蔵のためなのだ。
「駄目だって! 江戸元にやってもらうのはよせ! 本当に!」
「もうすぐ小笠原さんがくるはずだから、頼んでみては……」
「お頭にこんなこと頼めるか、バカアビ!」
ぎゃんぎゃん吠える三人に対し、元閥がふうとため息をつく。
「なんですかねえ、この男二人は。そんなに若い娘の耳を触りたいんですかねえ」
「いやらしい言い方すんな!」
「……不潔……」
「違う、宰蔵さん! 俺達は宰蔵さんのために……!」
「ほら、むっつりすけべえどもはほっといて。あんまり水溜めておくと、耳がただれちまいますよ?」
時既に遅く、元閥の膝に転がってしまった宰蔵の無事を見届けるために、往壓とアビはじっと元閥の手つきを見ていた。
宰蔵からの軽蔑の視線を受け止めながら。
- by まつえー
- at 20:09
- in 小咄
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