2007年04月12日

Fate/Moira Lachesis

 アビ元。致しておりますが、特にそういう描写はない。
 一応、『家族計画』『そしてまた家族計画を』の続きに位置するので、先に読んで頂いた方がよろしいかと。


 前島聖天には、毎夜繰り返される儀式がある。
 夕餉も片付けも終わり、元閥の日課の読書が終わり、そろそろ寝ようかという頃合いを見計らい、アビが燗をつけた寝酒を持っていく。それを襦袢姿の元閥が受け取ると、それは始まる。
「アビ、おいで」
 優しく名を呼ばれ、胸が詰まる。そっと広げられた元閥の腕に誘われるように近付き、自分の胸元にその形よい頭を掻き抱く。片手で余るほどに細い肩。アビの胸元にそっと添えられた指。腕にはらはらと降りかかる下ろし髪の馨しい香りで目眩がしそうだ。
 そのまま、しばらくじっとしている。何をするわけでもない。口づけを求めることもあるが、いつもやんわりと元閥に押し止どめられる。
 ふいに元閥がアビの胸を押し、身を離す。
「おやすみ、アビ」
 そうにっこり笑って、障子が閉まる。
 ただそれだけ。抱擁するだけの逢瀬。それだけでもアビは嬉しかった。あの優しいきれいな生き物を、僅かなりともこの腕の中で独占できる喜びは何事にも代え難い。
 しかし、彼とて健全なる男子である。下着姿の思い人を腕に抱いて、ただでいられるはずもない。しかし、過去の経験からの強い自制力で、その全てを抑え込んでいる。……だからと言って、辛くない訳ではない。
 何故、抱擁しか許してくれないのか。そう問えば、にっこりと答えた。
--儂はね、強欲なんだよ。
 意味が分からない。


 木戸を締め切った暗い部屋の中、じっと耳をすます。廊下を去って行く足音が消え、元閥はようやく深い息をついた。
 あいつの名は、火山をさすのだと放三郎は言う。なるほど。普段の黙りこくった静かさと、不意に見せる激しさは、まさしく火山であるな、と思う。
 そう、激しい。そして熱い。身体を離そうとする時、一瞬腕に籠る強い力。ふと見上げた目に宿る炎。せめて口づけをとせがまれた時は、まるで今にも噴火しそうだった。
 熱い。その熱がこちらの身に移ってしまうほどに。元閥は己の肩を抱き、身震いした。身体の芯がどくりどくりと熱く脈打っている。はらわたを燃え盛る溶岩がじりじり焼いていく。熱い、体の内の熱さのせいで、肌が逆に冷えていく。
「は……あっ……」
 熱を孕んだ吐息も震えていた。熱い、冷たい、熱い、熱い。ああ、あの熱い魂に直接触れたらどうなるのだろう。この冷たい肌を焼かれ、はらわたを焼かれ、脳を焼かれ、魂を焼かれ……
 イザナミがカグツチに女陰を焼かれて死んだ時は、きっと気を遣りながら死んでいったに違いあるまい。思うだけでこれほどにも身が震えるのだ。女の芯に熱を浴びて、気を遣らぬ方がおかしい。
 ならば、イザナギがカグツチを殺したのは嫉妬だな。愛しい妹背を自分の息子に文字どおり昇天させられた、その嫉妬だ。元閥はその思いつきに、一人でくすくす笑う。神とは荒魂と和魂を持つ。人より激しい魂を持つものこそが神だ。色恋や悋気が激しくない訳があろうか。
 ……ああ、情が移っているのだな。
 もはや否定できない。あの真っすぐな心を持つものに、すっかり情が移ってしまっている。
 厭だ。
 厭だ、そんなのは厭だ。あの男の全てが自分のものになるのならばいい。そうはならない。絶対にならない。今とて、あの男の心は全て自分のものではない。誰かがいる。その誰かを通して元閥を見ているのか、元閥の向こうにその誰かを見ているのかは分からないが、決して元閥だけを見ている訳ではない。それが分かるくらいには、元閥は人の情というものを知っていた。
 厭だ、厭だ。自分はいつか、ここを捨てねばならないのに。どこか遠くへ連れて行かれてしまうかもしれないのに。
 あいつが全て自分のものなら、連れて行けるかも知れぬ。しかし、もしも他に拠り所があるのなら、自分はそれを捨てろと言えるだろうか。
 言えぬ。そんなことは、そんなことは決して言えぬ。それを言われる辛さを知っているからこそ、あれに味合わせたくはない。
 厭だ、厭だ。これ以上、情が移ってしまうのが厭だ。しかし、あの熱い腕を失うことも厭だ。ため息が出るような、目眩がするようなあの腕を失いたくない。
 いっそ、翻弄するだけ翻弄して、ぼろ布のように捨ててやろうか。食らって、漁って、貪って、何もかも自分のものにしてしまえば。
 ああ、結局そこに行きつくのだ。
--儂はね、強欲なんだよ。
 己でも厭になるほどに。


 げんばつ、げんばつ。
 遠くから呼ばれる声に、ゆっくりと瞼が持ち上がる。だるい。身体が重い。
「元閥。朝だ。飯ができた」
 飯。寝ぼけ眼に空腹感を自覚する。ゆっくりと身を捻って布団から這い出す。
「……うー……」
「元閥? 大丈夫か?」
 障子越しのうめき声を聞き付けて、アビが心配げな声を出す。気になるのなら中に入ってくればいいのに、ばか正直なこいつは元閥の許しがあるまで障子に手すら掛けない。
「……おなかがへったよ……」
「……だから、飯ができた」
 元閥らしい言葉に、アビが安堵と呆れが交じったため息をついた。腹が減った。減り過ぎて身体がだるい。
「あびー……おこしておくれー……」
 こうまで言って、ようやく障子が開いた。アビは布団から上体だけ這い出て突っ伏している元閥の肩を持って起こし、太い親指で首の後ろのツボを探る。
「……ふっ!」
「あう」
 ツボを突かれて、思わず間抜けな声が漏れる。腹の底から背がぴんと伸びる波が沸いて出て、見る見る内にぼんやりしていた視界が晴れていく。
「……おはよう。アビ」
「こうまでしないと起きれないって、アンタ、一人でどうやって生きてきたんだ……」
「うーん、好きなだけ寝てたねえ」
 むにゃむにゃと目許をこすりながら答える元閥に、再びアビはため息をつく。
「もうみそ汁もできている。早く来い」
「襦袢じゃ寒いよう」
「掻巻き着てくればいいだろう!」
 元閥は未だ半分寝ぼけている。とりあえずの形で髪を括ったり、緩んだ襦袢の襟を直したり、寒そうな薄い肩を掻巻きで包んだりとせっせと動くアビをぼうっと見つめていた。
「……お前さん、随分頼もしくなったねえ」
「……おかげさまでな」
「頼もしいついでに、力強いところも見せとくれ」
 ほら、抱っこ。腕を広げてねだる。ついでに小首も傾げてやる。アビが薄暗い室内でもありありと分かるほど頬を赤くしているのが可愛らしい。掻巻きに包まれたまま軽々と抱き抱えられる。幼児にでも戻った気分だ。
「すごいすごい。アビは父様みたいだな」
「あんたが子供みたいなんだ」
 きゃっきゃとはしゃぐ元閥を危うく取り落としそうになり、アビは急いで抱え直した。


 野菜の煮付けに芋の蒸したの。岩海苔とネギのみそ汁。
「今日の朝餉は貧乏臭いねえ」
「ここのところ、妖夷も少なかったしな」
「じゃあ、魚くらい買っておいでよ」
「魚買ったって、あんた、不味い不味いって半分も食わないじゃないか」
 それなら高い魚買う必要があるか。二杯目をよそいながらアビが言う。
「おお、いやだ。すっかり一人前のこと言っちゃってさ。ついこの間まで、儂が教えてやらなきゃ道も歩けなかったくせに」
「道くらいは歩けた!」
 むきになって言い返してくる。可愛い。
「芋はまだあるかい?」
「……結局食うんじゃないか」
 当たり前だ。不味いからと言って空腹を我慢する道理があるか。甘薯の甘みはなんとか食える味だ。
「やっぱ旬のものはいい味だねぇ」
「うん。いいものを選んできた」
 元閥には野菜の善し悪しは分からないのだが、アビに言わせれば全く違うらしい。旬や収穫を外しているものも分かるし、魚の鮮度も一目で分かると言う。台所を任せる人間としては、かなり的確だ。
 きぃ、ざぷん。
 拝殿の正面から聞こえた水音に、二人同時に面をあげる。確かめずとも、この前島聖天に訪れる人間はあと二人しかいない。
「なんだろうね、こんな朝早くに」
「さあ……」
 船はまだ遠い。残り少ない膳をさっさと片付けてしまうことにした。


「なんだ、まだ寝間着ではないか!」
「こんな早くにやってくる小笠原様が悪いんでしょうよ」
 早いと言ってももう明五つだ。まともな町人ならとっくに働きだしている。しかし元閥はまともな町人ではないので、そういう物差しは通用しない。
「着替えてきましょうか?」
「話があるだけだ。私はそのままでかまわんが……」
 ちらと脇に控える宰蔵に目をやる。襦袢一枚の男と年頃の娘を同席させてもよいものか。
 その視線に気づいた宰蔵が、ゆっくりと顔を横に振る。致し方ない。一年足らずの付き合いだが、元閥が宰蔵を娘扱いしないのはとっくに気付いていたし、代わりに宰蔵も元閥を男扱いしないことを決めていた。だからといって、元閥が宰蔵を男と見ている訳でもなく、宰蔵が元閥を女と見ている訳でもないという、当人同士にしか分からぬ奇妙な間柄である。
 拝殿の火鉢に七輪の炭を移す。日が昇っても炭を絶やすことができぬ季節になってきた。前島聖天の内は外界よりも暖かいが、それでも冷えることに違いはない。
「それで? お話は?」
 火鉢の周囲にぐるりと車座になり、全員が放三郎の顔を見る。
「……年明けにでも蛮社改所の設立が認められることとあいなった」
 ほう、と、声が漏れる。今でもその名は拝殿の看板に掲げられているが、半分お遊びのようなものだ。今までの妖夷退治は、飽くまであちらこちらをたらい回しにされた挙句、はぐれの蘭学者である放三郎や隠れ神主の元閥までたどり着いた案件であり、正式に請け負ったお役目ではない。お禄も大して出ず、最大の収穫は泣くほど旨い妖夷の肉だ。ただ、ここにいる全員が、それを食えるなら命を投げ出すこともかまわぬという肉食い故に妖夷退治に精を出している。
 これを正式な役職として成り立たせることは放三郎の悲願だった。それによって、蘭学の有用性を認めてもらうのだと。
「近年、妖夷の動きが非常に活発になっている。もはや、今までの迂遠な手段では対応しきれん」
「国が乱れ人心が乱れる時に妖夷が増えると言いますがねえ」
 ぽつりと呟いた言葉に放三郎がじろりと睨むので、元閥は肩をすくめた。
「寺社奉行様、勘定奉行様が後ろ盾になってくださる。追い追いには、上様直々のお取り立てとなると……」
 隠れ神主に芝居小屋の娘、山の民が旗本か。元閥は自重気味に口の端を歪めたが、放三郎は気づかなかったようだ。
「だが、北町奉行所が口を出してきてな。ひとつ、条件が付いた」
「ほほぉ、あの妖怪が」
「鳥居甲斐守様と言え」
「どんな条件です? 北町にも一枚咬ませろと言うことですかね?」
「それが……よく分からんのだが……」
 首をひねりつつ、懐から一枚の紙を取り出し、かさかさと開く。
「りゅうどうゆきあつ、という男の加入が条件だ」
 竜導往壓。
「ご大層なお名前ですねえ」
「何者なんです、こいつは」
「分からん」
 そんな無茶な。
「元は旗本の竜導家の跡取りだそうだが、二十五年前に出奔したそうだ」
「……今、いくつなんです? その人」
「年明けで三十九だな」
「どっかで野垂れ死んでるんじゃありませんかね?」
「江戸元!」
 だってそうだろうに。と、目だけでアビに同意を求めたが、すっと逸らされた。生意気な。
「幾度か博打や盗みで捕らえられた記録が残っている。ここ何年かで江戸で見かけた人間もいる。江戸の内にいることは間違い無さそうだ」
「……探し出せってことですか?」
「うむ」
 妖夷退治のお役目が、なぜ人探しになるのか。
「お頭! なぜそうまでしてこの男を……」
 ずっとだんまりを決め込んでいた宰蔵が口を開く。放三郎の直入りを自認する彼女にとっては、そのような不確かな男を仲間に引き入れるというのは認め難いことなのだろう。
「なんでもこの男、特異な力を持っているらしい」
「宰蔵さんの舞いのように……ですか?」
 きっと宰蔵が元閥を睨む。若衆の姿をしていてもやはり娘だ。悋気は激しい。
「なんでも、漢神、とか」

 あやがみ。

 突如出てきたその言葉に、心の臓を捻り潰されるような痛みを覚える。
「アヤガミってな、そりゃなんです?」
「私も俄かには信じ難いのだが……」
「……あやがみ、とは……」
 自然と口をついて出る。もう何年も昔。何度も聞いた台詞。
「そのもののなまえをひきだし……ほんらいのすがたを、あばく……」
 あの男が繰り返し言っていた言葉。
「ちからをひきだし……ちからをあたえる……ちから」
 これこそが、人とは異なるものである証しであると。
「知っていたか。さすがだな、江戸元……江戸元?」
 人ではない、人より階梯の進んだ者でなければ使えぬ力。
「なまえ、とは、よぶことでいわい、なづくことでのろう……」
 万物に神が宿るように、万物には名前がある。それつまり、万物を神が祝い、神が呪ったということだ。
「かみの、みわざ」
 お前に名前をつけてやろう。

「元閥!」

 強く名を呼ばれ……祝われ、肩を強くつかまれた痛みで、元閥は我に返る。名を呼んだのは誰か。あの男なのか。恐る恐る振り向くと、アビの心配げな顔があった。
「大丈夫か? 顔色が悪い」
「……え?」
 自分の頬を撫でようとして、右手にぴりりとした痛みを覚える。ふと気づけば、爪が掌に食い込むほどに強く拳を握っていた。掌は汗で濡れ、襦袢の背中もぐっしょりと張り付いていた。
 恐怖の痕跡だ。
 己の恐怖を自覚した途端、胃から嫌な固まりがこみあげてきた。アビの手を振り払い、拝殿を走り出る。欄干から身を乗り出し、水面に向かって思いっきり口の中のものをぶちまけた。
「……ぅえぇ……!」
 朝に食ったものはまだ形を残しており、ぼたぼたと水面に落ちて沈んでいく。泡だった胃の汁はじわじわと水の色を変え、つんと鼻にくる酸の匂いを放つ。
「江戸元! どうした、江戸元!」
 真っ先に元閥の背中に取り付いたのは宰蔵だった。ああ、心根の優しい娘だ。小さな手でせっせと背中をさする。
「気分が悪いのか? 変なものでも食ったか? ……アビ!」
「俺と同じものしか食っていない」
 宰蔵の睨む目にアビが答える。
「どうした? 宿酔いでもないようだが……」
 ゆっくりと、しかし気遣って放三郎が隣りに膝をつく。元閥は宿酔いが重い方ではない。酔いを引きずることはあっても、体はしゃんとしている。
 ああ、自分らしくもない。これは、己の姿ではない。
「……いもを……」
「芋?」
「……芋を、食い過ぎました」
「……ばかばかしい!」
 ぴしゃんと宰蔵の掌が元閥の背中を打つ。
「いっ……たいなぁ、宰蔵さん。人が弱ってるってのに」
「酒を飲んだ朝に芋など食えば、胸焼けを起こして当然だ! アビも芋なんか出すんじゃない!」
「芋をもっと出せって言ったのは儂ですよぅ」
「お前は今まで酒を飲んできて、何を学んだのだぁ!」
 ぎゃあぎゃあと怒ると宰蔵をあしらいつつ、アビと放三郎を横目で伺う。アビが何事かを耳打ちしていた。全く、すっかり一人前になってしまって面白くない。
「宰蔵。何にしても江戸元は調子が悪そうだ。また日を改めよう」
「……まあ、確かに宿酔いで話などできませんしね!」
「ええ、そうですねえ。せめて昼過ぎに来てくれれば、しゃんとしてるんですけど」
「昼まで引きずるような酒は飲むな!」
 怒る宰蔵はかわいい。感情を一切隠さない、素直な子供というのは見ていて気持ちがいい。
 宰蔵と放三郎が舟を漕ぎ出だすのを見送る。その姿が見えなくなった途端、背後にいたアビにひょいと抱き抱えられた。
「わ……!」
「部屋まで運ぶ」
「ばか、大丈夫だ、降ろせ!」
「……あんたは、人に甘えるのは平気なのに、人に甘やかされるのは苦手なんだな」
 見透かされるようなことを言われ、言葉に詰まる。
「芋を食い過ぎただけだってば。吐いたらすっきりしたよ、大丈夫だ」
「芋の一本や二本で、あんたが胸焼けなんか起こすものか。女子供じゃあるまいし」
 元閥の声を無視し、アビは淡々と拝殿の階を上る。
「酒だって昨夜は飲んでいない。寝酒はそのまま残ってた」
「……嘘つきは嫌いかい?」
 からかうように微笑んでやる。ちら、と腕の中の元閥を横目で見ただけで、アビは前を向き直った。
「あんたにつかれる嘘は嫌いじゃない」
 ああ、一人前になってつまんないったら。


 引きっぱなしだった布団に寝かされる。アビは水差しの水で手ぬぐいを濡らし、汗の残る元閥の額や首筋を拭った。吐瀉物のかすがこびりついた口元まで拭こうとするのを、手拭を取り上げて自分で拭いた。
「着替えるか?」
 問われて首を振る。どうせ、このまま寝ればきっと悪い夢を見る。悪い夢で汗をかくだろう。その後に着替えればいい。
「大丈夫だよ。儂は昼寝させてもらうから、もう行きな」
 いつもであればすぐに部屋を出て行くというのに、今日のアビはじっと枕元に座り込んだまま動かない。酷く躊躇った後、口を開いた。
「あんたが寝るまで、手を握っていていいか?」
「なんで」
「その方が、あんたが落ち着けるような気がする」
 ああ。
 腕を延ばし、その額をぺしりと叩く。
「思い上がるんじゃないよ。怪談聞いたガキじゃあるまいし、お前がいるかいないかで変わるもんか」
 軽い痛みに引くことなく、アビは居座り続ける。
「俺はあんたの嘘は嫌いじゃないが、嘘と真の区別がつかない訳じゃない」
 それは元閥の喉にかけられた手だった。強く捻ればぽきりと骨が折れる。そんな手に等しい言葉だった。
「……思い上がるんじゃないよ」
「俺はあんたの居候で、あんたから色々教わって、あんたと一緒に寝起きして飯を食ってきた。だから分かる」
「思い上がるな!」
 半身を起こし、箱枕を投げ付ける。アビの肩を掠め、障子にぶつかり、穴を空けて落ちた。ごろんごろんという立て付けが揺れる音と、アビの肩に出来た擦り傷ににじむ血の赤ばかりが元閥の頭に響く。アビは決して元閥の顔から目を逸らさなかった。
「勝手を抜かすんじゃねぇよ! お前に何が分かる! お前が何を知っている! たかだか半年ちょい同じ釜の飯食ったくらいでね、見抜けるほど安い人生送ってるつもりはないんだ! 何も知らないくせに! 何も知らないくせに!」
 ああ、そうだ。何も言っていない、何も知らせていない。こいつは、自分のことを何も知らない。何も知らないくせに、知らないままに。
 アビは普段から表情があまり変わらない。今もそうだ。黙りこくり、わずかに眉根を寄せたいつもの表情だ。だから、目の色がよく分かる。
 燃えている。
「知りたくない訳じゃない」
 その言葉はやめろ。それは私を苛む。
「あんたは誰にでも秘密があると言っていた。だから、教えてくれなくていい」
 私を苛む。私にかけられた呪いが蠢き出す。
「確かに俺は何も知らない。だから、あんたの気に障ることを言うかもしれない。だが、黙ってることはできない」
 やめてくれ。お願いだから。怖い。
「俺は、元閥を愛しく思う」
 お前は、私の呪いごと、私を祝うのだ。
 唇がわななく。顎に力が入らず、手足が萎える。そっと息を吐くだけのつもりだった。

「こわいんだよぅ」

 何を言っているのだろう、自分は。
「こわいんだ。なにかがわしを連れにくる。連れていってしまう。こわいよ。こわいんだよぅ」
「……どこにだ?」
 『何が』連れて行くのかとは、問わないでいてくれた。
「わからない。いやだ。行きたくないんだよ」
 わからないほど、どこか遠くに。今あるものなど、何も手の届かない遠くに。
「なにかが動いてるんだ。こわい。どこかなんか行きたくない。ここにいたい」
 ここにいたい。
「ここがいいよ。小笠原さんや宰蔵さんや、お前がいるここがいいよぅ」
 ここにいたい。日々が楽しい。一時一時を過ごせることが、嬉しくてたまらない。
「新入りが厭なのか?」
 ふるふると首を振る。違う。怖いのはそれではない。
「動いてるんだ」
「動く?」
「わしはそれから逃げられない」
 私は、私にかけられた、呪いの物語から、逃げられない。
「抗えないのか?」
 首を振る。抗えぬ。抗うことすら物語の内だ。物語そのものから逃げることなどできない。
 それが、呪いなのだから。
 そっとアビの手が元閥の頬に触れる。目の下を拭われて、ようやく自分が泣いていることに元閥は気付いた。
「俺が守ってやるといったら?」
 首を振る。呪いは私だ。私自身が呪いだ。そこに彼の居場所はない。
「じゃあ、俺も一緒に行こう」

「あんたがどこに連れて行かれても、俺はずっと一緒だ」
 優しい手だ。優しい目だ。優しく暖かく燃える炎だ。
「それでも怖いか?」
 人は何故、触れれば痛むと分かっているのに、炎に魅せられてしまうのか。身を焼く恐ろしい炎を、何故、時に抗い難い温もりと感じてしまうのか。

 元閥は喉を開き、腹の底から息を吐いた。泣き声というよりも、もはや悲鳴だった。
 身体全体を震わせて元閥は泣いた。
 崩れかかった身体を強い腕が支える。そのままぎゅっと抱かれ、胸に縋り付く。
 一緒にいておくれ、ずっとわたしと一緒にいておくれ。どこにもいくな、そばにいておくれ、一人にしないでおくれ。
 熱い肌、激しい瞳、肌の下を炎が駆け巡る。
 抱き合ったまま、もつれて倒れ込んだ。


 炎は穢れを祓う。
 闇を追いやり、夜の恐怖を拭い去る。
 深い暗い世界で、炎だけが明るく温もりを示す。
 ここにいるのだ、と。


 ここに。
 白い腹を示して囁く元閥に、アビは躊躇う。腹に注がれた淫水は毒になると聞いたことがある。
 いい。ここに出せ。すべて儂の内に出せ。
 元閥の指がアビの髪をくしゃりと掻き混ぜる。
 もうお前は儂のものだ。汗ひとしずくすらほかにやるものか。お前は全て儂のものだ。
 切羽詰まった鼻声で、うわ言のように元閥は繰り返す。
 いいかい。もう、髪の一筋すら、ほかに与えてはいけないよ。それは儂のものだから。もしも、お前がそれを裏切ったなら、儂から離れるならば、儂は、儂は、
「……死ぬよ?」
 アビは元閥の内へすべてを放った。白い足がもがき、爪がアビの肩の傷を引っ掻く。あつい、あつい。上ずった声で喘ぎながら、元閥は気を遣った。


「天岩戸の話は教えたっけね?」
 煙草盆を引き寄せながら、元閥が問う。
「アメノウズメが舞ったというあれか」
「うん、小笠原様は宰蔵さんの舞いがそれだって言うけどね。あれ、なんでアマテラスが岩戸に籠もったのかは覚えているかい?」
「弟が悪さをした」
「そう。アマテラスの弟、スサノオの高天が原での悪行で、アマテラスの可愛がっていた機織り女が死んだ。スサノオの投げ込んだ皮を剥いだ馬に驚き、ほとを梭で突いて」
「……それは……」
「犯されたってことだろうねえ。皮を剥いだ馬もほとを突く梭も、どう考えてもまらのことだ。一説にはこの機織り女はアマテラス自身だとも言う。そして、自ら岩戸に籠もり日輪を消したとは、自死を示すとも」
 弟に犯された姉が、自らの命を断つ。アビはその物語に嫌悪を抱いた。
「もう一つ説があるのさ。岩戸は女の腹を示す」
 懐胎。元閥は煙管に火をつけた。
「そして、アメノウズメが肌をさらして踊り狂うことで、再びアマテラスはこの世に姿を現す。もう一度、生まれ変わったということだ。さて、これと似た話がもう一つある。教えたはずだけどね」
 閨後の話にしては講義じみている。アビは精一杯思い出そうとしたが、お手上げだった。
「イザナギとイザナミさ。イザナミは火の神カグツチを産み、ほとを火で焼かれ、死んでしまう。イザナギは怒り狂ってカグツチを殺してしまう。愛しいもののほとを傷つけられ、殺され、怒りのあまり火を殺す。同じだろう?」
「……ああ、そうか」
「アマテラスとイザナギが違うのは、アマテラスが己を取り戻したのに対し、イザナギは愛しいイザナミを取り戻せなかったってことさ。かわいそうにな。あの男は、醜く狂ったイザナミを受け入れることができなかった」
 変わり果てたといえど、妹背には変わらぬものを。
「……なんの話なんだ?」
「気を遣ることを、小死という」
 煙を吐く唇がニヤリと笑い、白い顔の中に赤い弧を描いた。
「分かるかい? 女は一度交わるたびに、火を産み、死に、そして火を抱いて生まれ変わるんだ。それは新しい命であったり、愛しいものへの恨みであったりする。怖いね、女という生き物は」
「……あんたは違うのか?」
「儂は女ではないもの」
 そう言いながら、女よりも美しい顔をアビの裸の胸に寄せる。
「儂に火は産めないよ」
 しかし、人は炎無しには生きていけぬ。
 煙管の腹を、そっとアビの肌に近づける。あち、と小さくうめく声を聞いて、くすくすと忍び笑う。
「だから、お前がそばにいておくれ」
 私の内に炎をもたらしてくれるお前が。
 そうすれば、どれほど暗い黄泉の道でも、閉ざされた岩戸の中でも怖くはないから。

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