2007年06月01日
この世の果てで××を唄う
往元、とりとめもないお話。
一応、いたしてはおります。
このまま死ぬのだと思った。
熱で朦朧とする視界の中、こちらをじっと覗き込む目を見つける。黒いというよりは、多少青を帯びた瞳。異人の血がどこかで混ざっていると言っていたが、そのせいか。あの娘の翡翠の目とは違った、異界を見る目だ。
「……げんばつ……」
「ああ、頭はしっかりしてるね。じゃあ、大丈夫だ」
ほ、と息をついて、元閥が居住まいを正す。ここはどこだ。見慣れたはずの長屋の天井を思い出すまでにしばらくかかった。なぜ元閥がここにいる。
「……帰れ……うつる……」
「うつらねえよ。風疹は子供の時分にやったからね」
「ふう……?」
「ほら」
元閥の手が伸びて、往壓の首の後ろを押す。ずきんとした痛みに、眉をしかめる。
「ここが腫れてる。咳はあんまりでないんだろ? じゃあ、風疹だ。三日四日も寝てりゃ収まるよ」
「……瘡じゃねえのか」
「瘡だったら、あんた河原小屋送りだ。素人判断で寝ている場合じゃねえよ」
「お前だって素人だ」
「長屋住まいのでもしかよりか知ってるつもりだよ。ばかにすんな」
絞った手ぬぐいを往壓の首に巻く。上る血がひんやり冷やされるようで、心地よかった。
「子供のころにかからなかったのかい? アビもやってねえって言うから、帰らせたけどね」
「……麻疹は、やったが……」
「麻疹と風疹は似てるが違うからねえ。あとで小笠原さんが熱下しを持ってくるよ。粥が出来てるけれど」
「いらねえ」
「食わなきゃ駄目だよ」
母親のような口ぶりで、元閥がへっついから土鍋を持ってくる。ほとんど重湯のようなゆるい粥を、半身を起こして少しずつ啜る。
「どうして、来た」
「昼過ぎには顔を出すって言ったのに、丸一日音沙汰なけりゃ気になるよ。来たら、布団にも入らずぶっ倒れてるしさ。最初は宰蔵さん、あんたが死んだと思って大騒ぎだったよ」
瞼に浮かぶようだ。はやとちりでわあわあとあわて騒ぐ宰蔵。
「アトルは……」
「三日寝てりゃ治るもんをわざわざ知らせて心労かけたいってなら、使いを走らせるけど」
ゆっくりと首を振る。粥は嘗める程度で胸に詰まり、茶碗を置いた。薬を塗ってやると言われ着物を脱ぐ。なるほど、発疹の出た身体など、若い娘に見せるものではない。元閥でさえ、わずかに眉をひそめた。
「……年食ってからやるとひどいって言うけど、こりゃひどいね」
ほぼ全身を赤い腫れが覆っている。腕のところどころは、耐え切れず引っ掻いた爪痕があり、血と体液が滲んでいた。元閥が持ってきた油軟膏が傷に触れると、わずかにひりひりとする。
「腫れが引くとは行かないけど、痒みは楽になるから。駄目だよ引っ掻いちゃ。痕になる」
「……この年になって、痘痕のひとつやふたつ……」
「つくらねえに越したことねえだろう」
本当に母親の言い分だ。
背中を塗り終わったのか、身体の向きを変えさせられる。自分で塗れると言う気力もなかった。ぼんやりと油でてかる元閥の白い手を追う。くすぐったいという感覚すら、腫れた痒みに悶える皮膚では感じられなかった。それが無性に悲しく、情けなく、じわりと涙が盛り上がってきた。
「……どうした、往さん」
四十男の涙に、元閥がぎょっとした顔をする。
「死ぬかと……思った」
「瘡だったら、あんたの年でかかれば死ぬだろうねえ」
汗で汚れた古着は端に寄せられ、真新しい浴衣に袖を通す。こんなもの、部屋にあっただろうか。元閥が持ってきたのか。
「大丈夫だって、風疹なんてちゃんと食って寝てりゃ治るんだから。しばらく暇だしね。様子を見に来てやるよ」
宰蔵さんもよもぎだか摘んでくるって張り切ってるから。横になれば、掻巻きを首まで上げ襟を整えられる。このような夜具もなかった。寝ている間に色々と運び込まれたらしい。
死ぬかと思った。みるみると自分の身体が赤い腫れに覆われていき、熱で頭がもうろうとし、死ぬのだと思った。
桶の水が減っているのを見、腰を上げようとした元閥の腕をつかむ。
「どこへ行く」
「井戸」
簡素すぎる返答は往壓の耳に届かない。必死に腕を引き、裾を掴み、元閥の膝を引き寄せて額を乗せる。
「……弱ってるねえ、往さん」
元閥のひんやりとした手が首筋を覆うのを感じ、往壓は目を閉じた。
再び目を開けた時、目の前は夜よりも暗く、今度こそ死んだかと思った。
違う。暗いのではない。黒いのだ。自分が鼻先を突っ込んでいるのが、元閥の髪であると気付き、往壓は一気に目が覚めた。
元閥の背中を抱くように、往壓は寝ていた。顔をうなじに埋め、両の手は胸に回されている。しかも、片方に至っては懐を分け入り襦袢の下まで潜り込んで、元閥の平らな胸にぴったりと押し当てられていた。
跳び起きようとしたが、下敷きになった腕を引き抜こうにも、痺れてうまく動かない。仕方なく、耳元で幾度か名を呼ぶ。ううん、と小さく呻き、元閥が身じろいだ。
「ん……起きたかい、往さん」
目をこすりながら身を起こした元閥は、往壓の額に触れ、続けて首の脈を診る。
「うん、熱は少し下がったねえ。小笠原さんの薬が効いたかな」
「来たのか」
「来たよ。往さん、ぼーっとしてたけど。儂の膝から離れねえもんだから、あの人のあわてたことと言ったら」
月明かりだけの薄暗い部屋の中で、元閥がくつくつと笑う。その頭からつま先まで見渡すが、手を突っ込んでいた襟元以外は裾が寝乱れているだけで、帯が解かれた様子はなかった。
「……ああ、大丈夫だよ。別段なにもされてないよう、膝や胸に縋られたくらいで」
十分なにかしていると思うが、勢い余るようなことはなかったようで、往壓はほっと息をついた。
「宰蔵さんじゃなくてよかったね」
全くだ。嫁に行けない体にするところだった。
「すまねえな、変なことを……」
「病人のやることに文句つけても仕方ねえさ。それに、往さんなら儂はかまわんよ」
元閥が往壓の手をそっと取り、自分の胸元に押し当てる。指先に感じるとくりとくりという脈が、腕を伝って往壓の身に染み渡る。
「あの時みたいに、これで治してやれりゃいいのにね。そこまではやはり出来ないんだろうねえ」
はだけた襟から除く白い肌に吸い寄せられるように、往壓は元閥の胸元に顔を寄せた。肌に頬を押し当て目を閉じる。
「怖かった」
「うん、そうだろうね」
「食われちまうと思ったんだ。俺の身体も頭の中も、赤い染みに食われちまう。飲み込まれちまうと思った」
襟元から手を入れ、背中まで手を回す。着物が落ち、その細い肩が露になったが、元閥は微笑んだ表情を崩さず、逃げもしなかった。
「このまま死ぬんだと思った」
「死なねえよ」
「怖かったよ」
「大丈夫だよ、往さん。儂がいるよ」
きゅうと頭が抱かれる。押し倒すというよりは、ずり落ちるといったかたちだった。ぐいぐいと頭を押し付け、着物を引っ張り、元閥の背を布団に落とす。技も巧もあったものではなく、ひたすら肌に顔を擦り付ける往壓を元閥は留めもしなかった。
「往さん、無理は体に障るよ」
抗う言葉はそれだけだった。
あ、とためらう声を無視して襦袢の紐を解き、素肌を擦り合わせても赤い痒みのせいでその滑らかさを感じられない。駄目だ、違うのだ、これでは足りぬ。
「……っきさん……っ」
慣らしも何もせずに押し入れば、元閥の声がきつく詰まった。しかし、その腹の中はたっぷりとした柔らかさで往壓を受け入れる。
ああ、大丈夫だ。ここにいる。
暖かく、とくとくと脈打つしっとりとした人の身が、往壓と深く繋がり、つなぎ止めている。
「往さん、大丈夫だよ、往さん」
突き上げる度に吐息と一緒に漏れるその言葉は、『だから、もうやめてくれ』という意味だったのかもしれないが、無理な話だった。今ここで離れれば、往壓が二度とこの脈を感じられることはないだろう。この世に拒まれては、もはや行けるところはない。赤く腐るあの世界を除いては。
ゆきさぁん。抱き合った耳元で名前を呼ばれるのが、たまらなく嬉しかった。
覗き込んでいたのは、青みを帯びた切れ長の目ではなく、黒いどんぐり眼だった。
「……ぎゃっ!」
「ぎゃ、とはなんだ、失礼な!」
べちんと濡れ手拭を顔に投げ付けられる。うまく絞れていないのか、べちゃべちゃとしずくが飛び散った。
「さいぞう……」
「看病しにきてやったのに悲鳴まで上げられるとはな。この恩知らずめが」
まずい。非常にまずい。取り返しのつかないことをやらかしたかもしれない。
「宰蔵……江戸元は……?」
「豆腐を買いに出掛けたぞ」
ほーっと息をつく。どうやら、人の顔も分からぬほど、朦朧としていたのではないようだ。
「ところでだな、竜導」
宰蔵が口を開きかけた時、からりと戸が開き元閥が戻ってきた。白くぴんとした豆腐が入った桶を抱えている。
「ああ、起きましたか。粥にします? 奴で食います?」
「……半丁を奴で頼む」
「はいはい」
元閥はへっついから包丁を取り出し、さくりと豆腐を切り分け、醤油と生姜の小皿とともに往壓の前に豆腐を差し出した。生姜の買い置きなどあった覚えがないから、これも元閥か宰蔵が持ち込んだのだろう。
「宰蔵さんも食べます? なかなかですよ」
「いや、いい。それよりもだな、竜導、江戸元」
んん、と、宰蔵が小さく咳き払いをする。
「何故、竜導が江戸元の襦袢を着て、江戸元が持ってきてやった浴衣を着ている」
はた、と我が身を見れば、たしかに着ているのは身幅の狭く丈も足りない女仕立ての長襦袢だった。元閥に目をやれば、皺がついてはいるがまだ新しい浴衣を身幅も丈も余らして、襷とじょっぱりでなんとか体に巻き付けている。
「汚されたんで、洗いに出したんですよ。襦袢で外歩けないでしょう。往壓さんのは臭いし」
その言い方はなかろう。
「汚された……?」
「ええ、往壓さんが吐いたものに」
宰蔵がいぶかしげな目で元閥と往壓の顔を交互に見る。元閥の言葉は嘘ではない。吐いた物が上から出てるか下から出てるかをはっきり言っていないだけだ。それにしても、なぜああもしれっとした顔でいられるのか。往壓は何も言えず、黙々と豆腐を口に運ぶ。
「ひどいことをしたな、竜導」
「素面だったんなら、弁償してもらいますがね。仕方ありませんよぅ、病人のやることですから」
ねえ、とにっこり笑う元閥の顔を見ることができなかった。さらに急に袖から手を差し入れ腕を握られれば、思わず豆腐も取り落とす。
「あ、もったいない」
布団にべちゃりと落ちた豆腐を見て、宰蔵が嘆きの声を上げる。
「腫れは引いてきたね」
そういえば、大分痒みが引いた。赤い発疹も収まってきたようだ。
「大丈夫だって言ったのにさ。往壓さん、寂しがるものだから」
「ふん、言って分かるようなら竜導ではないだろう」
きゃははと笑う元閥と宰蔵のじゃれあう声を聞きつつ、布団に染み込みつつある豆腐を、先ほど投げつけられた濡れ手拭で拭き取る。
「大丈夫だよ、往壓さん」
顔を上げれば、元閥が宰蔵の頬を引っ張りつつ、こちらを見ていた。
「儂らがいるからね。大丈夫だよ。ね? 宰蔵さん」
こくりと頷く宰蔵の顔までは確かめられず、再び往壓は布団の白い染みに目を落とした。
- by まつえー
- at 19:16
- in 小咄
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