2007年07月09日
さくらむすび 幕一
『ドキドキお姉さん』で出てきた、江戸元の元カレとの馴れ初め話。他には嬉野さんとか。
……続きます。江戸元ヒロイン祭り出展作品。
嬉野の水揚げから三年かそこらのころだったから、元閥が二十二か三辺りのことだろう。嬉野が持って生まれた器量と才覚は旦那衆にひどく受け、あっと言う間に昼三座敷持ち、さらには道中の許される花魁と呼ばれるようになり、大店からの身受けの話をひらりひらりと躱し続け、ついには番付大関に載せられるようになった。
それほどとなれば、元閥のような若い通人気取りなど袖にしてもよさそうなものを、揚げ代の半分はわっちがと言うほどに嬉野は元閥を引き留め、間夫に飼われる気はねえと元閥は跳ね上がった茶屋代に祝儀を重ねてまで通い詰めた。
間夫でなけりゃあなんでござんしょう。禿がそう問えば、元閥と嬉野は目を合わせてけたけたと笑い合う。
そのような頃合いだった。
元閥と嬉野が夜具に籠もってすることといえば、もっぱら漢詩や古典の講義や戯作の品評であった。ここ二月は、馬琴の巧みと種彦の痛快さはどちらが優れているかという話題で持ちきりで、田舎源氏など国貞の絵で売れているのだと言う嬉野と、八犬伝は話を広げ過ぎていけない三年も前に死んだと思った女にまた出てこられても困ると言う元閥の議論は明け方まで続くことが往々にしてある。
その日も、さりとて国貞の絵が一級であることは認めざるを得ず、それに種彦の文が相応しいかどうかは違った話だ、という流れで語り合っていた時分であった。
「……悲鳴だねえ」
「さようでありんすねえ」
嬌声ならともかく、悲鳴というのはどうしたことか。時刻は九つ過ぎ。泊まりの客どもがしっぽり決め込む時分に禿の折檻でもあるまいに。
さほど遠くはない。座敷三つほど先だろうか。ざわざわと廊下が騒がしくなってきた。どたんばたんと捕り物のような音まで聞こえてくる。
「見に行くかい?」
「鳶でもあるまいし。おやめなんしょ、えどげん様」
眉をひそめる嬉野を尻目に元閥は夜具から抜け出し、屏風から小袖を下ろし肩に引っかける。
以前、元閥の言葉の端々に江戸風ではない言葉が交じるのに気づいた嬉野が戯れに問い詰めたところ、元服の前まで上方の田舎で育てられたことを白状した。ならばいっそ上方風に振る舞ってしまえばよいものを、『あたしの名前で上方風じゃあ、なにがなんだかわからねえよ』と、元閥は江戸風を貫いている。きっと今も、喧嘩を見に行かねば江戸っ子ではないなどと思っているに違いあるまい。そのくせ熱風呂が苦手ときているのだから。嬉野は半分笑いの息を、半分ため息をついて、同じように夜具から抜け出す。枕元からかんざしを一本だけ拾い上げ、適当に髪に刺す。帯は一本も解かれぬままだ。
うきうきとした足取りで廊下を行く元閥の後を追い、角を折れるとひどいことになっていた。見世中の若者が集まっているのではなかろうか。見物の遊女と客も交じり、騒ぎのあった座敷前は黒山の人だかりとなっている。
「こりゃ、大捕物だねえ」
のんびりと元閥がつぶやくが、嬉野は気が気ではない。何が起きたのか。この座敷は同輩の桃菜の座敷であり、騒ぎの合間から彼女の泣く声が漏れ聞こえてくる。思わず傍らの元閥の袖をきゅっと掴むと、元閥はその指をとんとんと叩いて解かせ、人垣に割り入った。嬉野もその後ろを追う。
「だんな」
りんと声を張れば、楼主はぱっと元閥を振り返り騒ぎを詫びた。
「お休みのところを、まこと申し訳がないことで……」
「ほんにこうじゃあ寝ちゃいられねえよ。一体なにが……」
ちらと横目で遊女の様子を伺えば、ひどく取り乱した様で、髪を振り乱しわあわあと泣きわめいている。嬉野が桃菜さん桃菜さんと呼んで落ち着かせようとしているが、一向に収まる気配がない。
「ヘエ、そこなお客様が……」
楼主の目の先には、若者に取り押さえられ気でも失ったか、べたりと畳にへばり付き後ろ手を縛られた男がいた。ひょいと屈み込み、肩を掬って顔を確かめる。
「お侍だね」
「ハァ、外様家老の若君で。なんでも桃菜が言うには乱暴を働いたとのことでござんすが、若様ともあろう方が……」
「女を殴るのに、武家も女衒もあるものかい」
「殴る蹴るだけではなかったようでして……」
言われて桃菜の姿を見る。手足についた痣は、確かに殴る蹴るでついたものではなかった。
「縄……ねえ」
責めが楽しみたければ、もっと下卑た宿場に行けばよかろうに。そのような宿があることも知らないのだろうか。
「こ、こわいって……こわいっていうたんに……」
ひっくひっくとしゃくりあげながら、桃菜が言葉を漏らす。嬉野の同輩といえど、おっとりと気の回らぬところのある桃菜は格が違う。若様から迫られてもぴしゃんと撥ねつけるような気位の高さはない。そこが愛嬌で、格の割りに熱心な客がついているのだが、逆手に取られたか。
「どうする」
「ハァ、勿論このようなご乱行は、とてもじゃありませんが総籬で許されるものではござんせん。かといって、これ程のお殿様に町止めというのも……」
そして、頼るような目で元閥の顔を伺い見る。仲裁を頼みたいと。士農工商に属さぬ神主であり、かつ吉原でも顔の通っている元閥は確かにうってつけであろう。
「……別にかまやしないけどさあ、色々融通も利かせてもらってるしねえ」
「ヘェ、お願いできますなら、色々と便を図らせていただきたいと……」
ちらと嬉野を見れば、なんとかしてやってくれという目で見られていた。
「仕方ないねェ」
ううん、と男が身じろぎし、目を開いた。
「……どうしたことだ」
「布団部屋だよぅ。今のあんたにゃ、これっくらいがお似合いさ」
後ろ手に縛られたまま、身を捻った。畳一枚離れたところで煙草を吸う元閥の姿を認め、訝しがる。
「遣手か」
「おおいやだ。あたしがそんな大年増に見えるってのかい。若様と聞いてたが、とんだ野暮だねあんた」
「では、なんだ。女郎か」
「客さ」
「ここは娘宿のような真似もするのか」
「娘宿も折檻もやってねえよ。察しが悪いねえ。男だよ、あたしは」
丸く見開いた男の目を見て、元閥はけたけたと笑う。このようなやり取りは日常茶飯事だが、何度見ても呆気に取られた男の顔というのは面白い。
「役者、か」
「役者がこんな格好で歩いてちゃ法度に触れるよ。残念、神主さ。そういう慣わしでね。さて、で、あんたは長谷の若様だって? 随分、いい趣味を持ってなさるようだね」
罰が悪そうに男が目を逸らす。元閥はひょいと屈んで、その顔を覗き込んだ。
「……江戸の神主もいい趣味を持っているようだな」
「あたしのはお家の風だもの。じゃあ、あれかい。仙台家老のお家は女を縛るのが慣わしかい」
「無礼な!」
「脅したって無駄だよ、あたしにゃあんたに下げる頭はないからね。もとより、大門からこっちにゃそんな御威光は通じねえけどさ」
ぺちぺちと月代を叩いてやると、男は悔しそうに歯噛みした。よくよく見れば整った二枚目だ。少々眉の濃いのが田舎臭いが、下手に江戸擦れしていないというのも風情がある。そういえば、本の伊達男でもあるわけだ。
「まあ、そうは言っても殿様に喧嘩を売るってのは大変な話でサ。ここの主も話は丸く収めたいわけだ。幸い、あたしはこの界隈には顔が利く。あんたがもう女郎共に乱暴を働かないでいてくれるなら、あたしの顔で町止めは許してあげる。この見世にゃ無理だけどね。どうだい?」
にっこりと魅了させる笑顔を投げかける。男はついと目を逸らした。
「乱暴した訳ではない」
「嫌がる娘を縛り付けることの何が乱暴じゃないってのさ。そういう趣向だってならね、向いたお宿があるからそっち行きな」
「……座敷を移るというから」
女郎がいくつかの座敷を掛け持つのは珍しいことではない。桃菜のようなほどほどの格の女ならよくある話だ。
「話をして……よい娘だと思った。よく笑ってくれた。だというのに、別に行くと……」
「だから、かんしゃく起こして縛り付けたのかい」
「……分からなくなるのだ」
「はぁ?」
「ああいう時に……昔を思い出して……頭に血が上って……」
「……その話、長くなるのかい?」
「なんだ、その気のない返事は! 貴様、神主なら、もう少し親身になったらどうだ!」
なるほど、頭に血が昇り易いようだ。元閥は、はあとため息を吐き、とっくに燃え尽きていた煙管の灰を捨て、新たな草に火をつける。
「神主と坊主を一緒にするんじゃねえよ。あたしらのお役目は、八百万の神々を鎮め祀ること。相談や世話役は寺に頼みな。大体、氏子でもねえ男の身の上なんざ聞く義理はねえよ」
ぷかりと煙を吐き、唇から離した吸い口を男に向ける。
「だから、これはあたしが遊び人として聞くよ。次の座敷で女共に振る舞ってやるネタとしては良さそうだ」
男は濃い眉を顰め、元閥の顔をじろりと睨んでから、吸い口を咥え煙を吸った。
男には元服のころから添った妻がいた。元より筒井筒の仲であり、夫婦としても良き連れ合いであった。今でもそう思っている。しかし、彼女は不義を犯した。相手は臣下の男。武家の不義は死罪相当であるが、一々真面目に取り合うやつはいない。いくばくかの金のやり取りと、妻への謹慎でことは済むはずであった。
「首を吊った」
「……おやまあ」
それほどまでに間男が恋しかったか。それほどまでに夫に抱かれるのが辛かったか。童のころより睦まじく育った女の変わり果てた姿に、男は悲しみ、混乱し、気を塞ぎ、そして……
気付けば、女を責めねば満足を得られぬようになっていた。
「恨みかい」
「恨んでいるつもりはない」
分からないのだ、という。甲斐甲斐しく世話を焼かれようとも、楚々とした三つ指で微笑まれようとも、閨の中でいくら名前を呼ばれようとも、女のまことが分からない。ならばせめて、自分から逃げぬという証だけでもほしい。
それが縄か。元閥が、ぷか、と、煙を吐く。長い話の間で、すっかり草も減った。
「まあ、あんたの身の上は分かったさ。だが、それとこれとは別だからね。桃菜と楼主には詫び入れて、この見世には近づかない。他の見世にも噂が飛ぶだろうが、そこはあたしが……」
「愚劣、と思うか」
絞るような声で問われる。男がこのような恥を話したのは、初めてのことだろう。それこそ、身内であれども閨の趣向など話さない。武士であれば矜持がある。男であれば面子がある。女に弱みは見せられない。
元閥だからか。武士でも、男でも、女でもない元閥だからか。
だから問うのだ。今まで誰にも問えなかったことを、自分は間違っているのかどうか、と。
「ばかだ、とは思うさ。気の激しい女一人引っ掛かったくらいで、そんなに引きずらねえでもよかろうに、ってさ」
ず、と煙管を噛んで吸う。強く吸い過ぎたか、わずかな灰とほどけた草の味がした。
「だが、わからんでもねえよ」
信じていたものの裏切り。戸惑い。恐ろしさ。そして、それを引き留めてやれなかった絶望。
「あんたのばかさ加減は、わかってやれなくもない」
今一つ、うまく笑えなかった。男が奇妙な顔をしている。
さすが仙台家老格。騒ぎの詫びとして、見世には山のような品が届けられた。桃菜にはそれは見事な綾の打ち掛けが五枚も届き、あの日の怯えっぷりはどこへやら、さすが長谷の若様だ粋も分かってらっしゃるとキャッキャはしゃいでいる。まあ、そういうところが愛嬌のある娘ではあるけど。特に関わりのない他の女郎にも反物やら帯やら、禿一人一人に至ってすら簪の一本も与えられた。
そして、仲裁をした元閥の手元には、
「……箪笥、だねえ」
「文机もありんすえ」
黒漆螺鈿細工の見事な品々。……嫁入り道具一式、と言って過言ではない。一財産だ。全て合わせれば、ちょっと若い部屋持ちなら身受けできる額だろう。
「どうなさいんす、えどげん様」
「どうもこうも……こんなにあたしの部屋にゃ入らねえよ……」
ついぞ子が出来なかった妻を離縁してから、元閥は居を地下の社に移している。表向きは上の屋敷があるが、そこには管財人や小僧が住んでいるだけだ。これだけの品、船で運ぶのも苦労だし(しかも、全て元閥一人で運ばねばならない)、もうおんぼろな社に置いたら床が抜けそうだし、第一に置き場所がないし。
「なら質にでも……」
「こんだけを? 質に?」
どれだけの額になるのか分からない。しかも引き取る予定がない。これだけの品が流れたら、質屋も笑いが止まらないだろう。
「……そういや、まだ楼主から礼を受け取ってないね」
「あい。なんでもよろしゅう言うてなさんした」
「じゃあ、部屋をもらおう。そこに詰めておくれ」
「……まあ」
「なんだよ」
「わっちは、えどげん様とお職を競うほどの自信は……」
「誰が客を取ると言ったよ。前から面倒だったんだよう、昼寝しにくるのにもお前らの手を煩わせにゃならんし。金は払うさ、好きに使える部屋がほしい」
「おうちで寝ればよござんしょう」
「こっちがいいんだ、あたしは」
元閥がそう言ってころんと脇息を枕に寝っ転がるのを、嬉野はわずかに眉を顰めて見る。元閥はよくこういうことを言う。外は居心地が悪い、吉原がいい、区切られたこの異界がいい、と。
嬉野は物心付いた時には既に禿に入っており、吉原の外の世界を知らない。花魁と呼ばれる女郎の大抵はそうだ。花魁でなければ、娘時分に売られるか攫われるかされた女郎だ。皆、大門の外に焦がれている。だから、客は女郎の気を引こうとあれこれと噂話を持ってくるが、元閥はねだっても決して外の話題を話さない。『あっちで起きることは、大抵こっちでも起きるさ。同じだよ』そう、わずかに眉を歪めて言う。
なんとなく、嬉野には元閥の気持ちが分かる。おそらく自分にしか分からない。元閥にとって、俗世は異界なのだ。男でも女でもなく、武士でも町人でもなく、女郎でも役者でもない。神主を名乗っているが、本当はもう社もないのだと言う。それでもなぜか神主の家格を持ち、お城に呼ばれることもあり、皆は前島の江戸様と呼び慕う。
元閥の居場所は、もうないのだ。どこに行っても、何者にもなれない。だから、吉原が好きだと言う。ここでは、元閥は女郎に慕われる一人の男になるのだから。
嬉野もそうだ。ここより外の世界を知らない。虚ろな夢の中で生き、虚ろな夢の中で死ぬのだろう。客に身受けの話をされても、大門の外で誰かの内儀になっている自分など考えもつかない。年季が明けるまで、嬉野は女郎として生き……その後はどうなるかを考えるとぞっとする。女郎である以外の自分を思い起こせない。嬉野も、元閥と同じだ。区切られた世界で、男から花魁と呼ばれるだけが己のよすがだ。
「えどげん様」
「うん、なんだい?」
元閥はいつも機嫌がいい。きりきりしたところなど、見たこともない。
「わっちもそのお部屋に入っていいかえ?」
くりんと首を回し、元閥が嬉野の顔を見上げる。目が丸くなっている。元閥はその装いのせいか、男としても女としても年より多少若く見えるが、特に笑ったり驚いたりするとまるで振袖のような幼い顔付きになる。
「いいけど、揚げ代は払いなよ?」
元閥がけらけらと笑う。それに嬉野は目を細めた。
置屋に部屋は置けども、遊びは茶屋を通す。元閥は遊びには殊更金をつぎ込む。その晩も馴染みの茶屋で小唄を捻っていた。長谷家から詫びが届いてから五日ほどのことだった。
客がきている、という先触れに元閥は嬉野と顔を見合わす。元閥の交遊は広いが、座敷の途中に邪魔をしようという野暮天に覚えはない。誰だと問い返す間もなく、お見えになりましたと障子が開けられれば、
「邪魔をする」
今、嬉野が巻いている帯を贈った長谷の若殿、当の本人であった。
「……あんた、何してんのさ」
これでは、今後月花屋に関わらない、という仲裁をした元閥の面目が立たない。思わず三味線の撥を取り落としかけた。
「月花屋には近寄っていない。茶屋の座敷に邪魔しているだけだ」
しれっと答える男に、茶屋の若者がそそくさと席を作る。ちらっと元閥の顔を伺い、申し訳無さそうに小さく頭を下げた。旦那に金を積んだか。何が粋だ、何が伊達だ、とんだ野暮侍だ。元閥は苦々しく唇を曲げ、おろおろとした嬉野の表情を確かめる。不機嫌をぶつけるように、弦を弾く。
「生憎だね。いくら金を積んでもこの子は買えねえよ。嬉野は気がのらなきゃ、葵のご紋でも断るからね」
「いや、女郎に会いに来た訳ではない」
「詫びならもう受け取ったよ。他の女共が怯えるから……」
「お前に会いに来た」
びぃぃん。
加減を間違えたか、撥の端で弦を切ってしまった。張り詰めていた堅い糸が弾け、元閥の指に赤い線を引く。
「いたっ……」
「えどげん様……!」
「大丈夫か」
重い打ち掛けを引っ張って嬉野が腰を上げるよりも先に、男が元閥の手元をのぞき込む。
「ああ、血は出ておらぬな。よかった」
まるで愛し子を包むかのように柔らかく手を握られ、思わず元閥は、
「……ぎゃーーーー!!」
平手打ちをかました。
- by まつえー
- at 03:09
- in 小咄
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