2007年05月18日
Princess Bride! Act.2
現代パロラブコメ。往元編。
物心ついた時にすでに両親はなく、祖父にとって一人息子だった父が男の子を残さず他界した以上、前島の跡継ぎは自分以外にいなかった。
女の名前がつけられていた時期もあったそうだが、元閥は覚えていない。幼名の『もとの』すら、代々受け継がれている名前である。
故に、元閥は自分の人生が前島に決められることになんの疑いもなかった。
お前の夫になるべき男だと引き合わされた一回りも年上の叔従弟すら、反感ではなく憧憬の対象として受け入れたのだ。
「どうした、その膝」
相変わらず女に目ざとい。助教授室に入るや否や、往壓が声をかけてきた。
「……階段から落ちました」
「階段? ケガはなかったか?」
「助けてくれた人がいたので」
定位置のソファに座れば、すぐに元閥専用のティーセットが出され、ポットを暖めるための湯が注がれる。茶葉はアッサム。全部、往壓が元閥のために揃えてくれているものだ。
往壓は三十半ばの独身で国文科の助教授で父方の親戚で元閥の指導教官で……元婚約者だ。
「ほうほう、王子様かね」
「……私の王子様には、ちょっと若すぎましたね」
七つも年下というのは、ちょっときつい。
「もしかしてアレか? 図書館のでっけー高校生」
「……知ってたんですか!?」
「有名だぞアレ。図書館以外にも、学食やら生協やら、お前の後を追ってあちこちに出没するって」
気付かなかった。話を聞けば、もう二カ月も前からキャンパスをうろついていたのだと言う。気付かなかった、本当に。
「お前はあれだな、人から見られるのに慣れてるから、ちょっと変なのがいるくらいじゃなんとも思わねえんだろうな。もう少し周りを見た方がいいぞ」
「……子供みたいに言わないでください」
「子供だろお」
こんなちっちゃい頃から知ってんだぜ。そう言って、腰の辺りで手を水平に振る。
確かに、初めて会ったのはそのくらいの時だ。元閥が八歳で往壓が二十歳。幼児を未来の妻と紹介された男の心境とはいかばかりか。……まあ、それも七年前に解消されたのだが。
「で、なんか話したのか」
「……軽い告白を」
あはははは、と膝を叩いて笑う往壓を睨みつける。
「まあ、いいんじゃねえかな。あと一年足らずのアバンチュール、年下食ってみるってのも」
「私、ショタコンじゃないんで」
「俺だってロリコンじゃなかったぞ」
ウソだ、絶対にロリコンだ。
「アレ、何年だ? 三年?」
「一年ですって」
「十分だろ。五十年、六十年も前なら十分結婚適齢期だ。思春期から青年期をモラトリアムの期間としたのは現代社会になってからの話だぜ。大人扱いしたって問題はないさ」
「……だから、私も大人扱いしたと?」
「そうなるかな」
にま、と、おどけたように口の端を持ち上げる。
七年前。往壓がある事件を起こし、婚約解消を告げられた。その晩、元閥は身一つでその部屋に押しかけた。幸せにしてくれると言ったくせに、一緒にいてくれると言ったくせにと、我が儘を喚き、泣いて詰る元閥を、往壓は困った笑顔で受け止め、謝り、愛の言葉を囁いて初めて大人扱いしてくれた。
要は処女を奪われたということだが。
「……私がモラトリアムを満喫するために、他人のモラトリアムを奪うってのは、納得行かないんですけど」
「ん? それもそうか」
今の婚約者は、その後引き会わされた男だ。関西の方に住んでいるから、殆ど顔も見たこともない。次の春が来るころ、元閥はその男の妻になる。
「そろそろかな」
十分に暖まったポットのお湯を捨て、茶葉を入れようと往壓が元閥の隣りに腰を下ろす。
「まあ、遊びにはちょっと重い相手かもな。向こうさんは初恋だろうし、嫌な思い出残してやるのも辛いよなあ」
銀のスプーンを巧みに操る長い指。筋張った手首。引き締まった横顔の輪郭は昔から全く変わっていないが、目許の皮膚にわずかに衰えが出ている気がする。ああ、こう見るとやはりあの子は若いのだ。肌の質感が違う。
「お前さん、ファザコンだしな」
にっと笑うと、目許に皺が浮かぶ。大人の顔で、子供のように笑う。それがなんとも言えぬ彼の愛嬌で、元閥は彼のそんなところが好きだ。ファザコンと言われても仕方ないかもしれない。
このまま見ていると変な気持ちを思い出しそうで、元閥はティーコゼーを被せられたポットに目を落とす。
しかし、それを妨げるように顎を持ち上げられ、口付けられる。
「……ん……」
十五の時から断続的に、大学に入ってからはかなり頻繁に。祖父も薄々気づいているのだろうが、黙認している。あの事件さえなければ、往壓は祖父の一番のお気に入りだったのだ。嫁入り前の孫娘が変な男に騙されるよりはいいと思っているのかもしれない。
「ふあ、は……」
往壓の舌が前歯の裏側を嘗める。侵入してきた舌を吸って迎えれば、太く長いそれはどんどん元閥の口内を蹂躙していく。
元閥を女にしたのが往壓であるのと同じように、元閥を女として育てたのも往壓だ。どんな男と付き合っても、結局は彼のところに戻ってきてしまう。彼もどんな女と付き合っても、元閥を拒むことはなかった。恋人でもなく、婚約者でもなく、かといって身体だけの関係でもない。ただ、彼と離れるなど想像できない。
「こうするのも、あと一年ねえのか」
その言葉にズキンと胸が痛む。
「でも、院に行けば……」
研究内容を変えなければ、指導教官は往壓のままのはずだ。
「遠恋中の女寝取るのはともかく、不倫は性にあわねえな」
「……遠恋なんかじゃないよ」
「さて、どうかね」
時間だ。そう言って、往壓はティーコゼーを外し、熱いポットから暖かいカップへ琥珀色の紅茶を注ぐ。一杯目は砂糖もミルクも入れず、香り高く。口を付ければ、元閥の好みを一つも外さない味だった。そういえば、紅茶自体、彼から教わったものだ。
「……往壓さんは……」
「うん?」
「往壓さんは、結婚しないのかい?」
また、あの目許をくしゃくしゃにする顔で笑う。
「やなこと聞くなあ、お前は」
後で苛めるぞ。そう言って彼は、二杯目のための砂糖壷を元閥の前に差し出した。その左手の薬指には、七年前、いや十五年前からずっと同じ指輪がはめられている。
風呂上がりに寝室に戻れば、往壓が汗で湿ったシーツを取り替えていた。泊まっていくかと聞かれ、首肯する。
「先に寝てな。湯冷めするぜ」
本当にいつまでたっても子供扱いをする。ぽんぽんと元閥の頭を撫でて部屋を出て行く男のことが、ほんの少しだけ疎ましくなる。
ベッドに潜り込む。乾いてさらさらとした木綿のシーツ。糊が効いていないのは元閥の好みだ。しなやかでなんでも吸い込む、シンプルな布地が好きだ。往壓さんみたいだから、と、言ったことはない。言えばきっとまた笑うだろう。
ああ、あの子はこんな自分は知らないのだろう。
大学で、往壓と自分に血縁関係があることはともかく、婚約していたことを知るものはいない。
例えマンションに入るところを見られていても、他人同士ならともかく、十歳以上年齢の離れている親戚との関係を疑われることはまず無い。
知らないのだろう。知ったら、軽蔑されるのだろうか。婚約者がいながら、既に終わった繋がりにしがみついていることを。
新しいシーツと布団に残る熱が心地よく、うとうととし始めた頃、ベッドに往壓が戻ってきた。何かを話したいのだが、降り始めてきた瞼はどうしても持ち上がらない。声を出そうとしてもそれは夢の国の言葉で、むにゃむにゃと意味をなさぬものばかり。
「……ゆきあつさん」
ようやく形にできた言葉に男は機嫌をよくしたのか、湿り気を残す元閥の髪を撫で、そっと抱き寄せた。
この人は、本当は私など抱かなくても平気でいられるんだろう。
- by まつえー
- at 21:11
- in 小咄
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